意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

9月19日(月) 22:10 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート1)

2016年09月19日 22時10分38秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』



指田郁也さしだ ふみや)という男性のシンガーソングライターが2012年6月13日に発売(公開は、2012年4月27日)したナンバーに『花になれ』があります。

 

このナンバーは、羽生結弦の「フィギュアスケート NHK杯」 のエキシビジョンでも使用され、NHK-BSプレミアムのBS時代劇 「陽だまりの樹」の 主題歌でもあるとのこと。

 


私は、つい最近になって初めて、このナンバーを耳にしました。ここで歌われている歌詞に、自然と私の心は惹きつけられました。


まだこのナンバーを知らない方は、ぜひYouTubeなどで


『花になれ』(指田郁也;フルサイズ)

『花になれ』(指田郁也;フィギュアスケート NHK杯


を一度 聴いてみられてはいかがでしょうか?


今回のブログでは、指田郁也の『花になれ』の歌詞をじっくりと味わってみたいと想います。


しばらく、また気長にお付き合いください。    (9月3日 土曜日 23:07 更新)



この歌詞の中で、「僕たちも花になれる」というフレーズが何度も繰り返されていますが、どのようにしたら人は花になれるのか? この「花になれる」という意味を歌詞から探っていくと、それはその未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる あなたもきっとなれる」ということです。・・・・・これが今回のブログのテーマです。


ところで、聖書の中には、以下のように記されています。


「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」(ペテロの第1の手紙1章23節~25節


今回の歌詞ブログで探究しようとしていることは、もちろん、朽ちる種から花を咲かせる(この花はやがて散ってしまうからです)という意味ではなく、むしろ、朽ちない種から如何にして私たちが自らの人生の中で“どのようにしたら いかなる風に中にあっても 真っすぐに咲く花のように強くなれるのか・・・・ということ。 これを指田郁也花になれ』の歌詞から読み取っていきたい、解読していきたいと想っているのです。先ほど引用した“とこしえに残る”と言われている主の言葉と符合している、あるいは、調和しているメッセージを『花になれ』の歌詞の中に観ていきたいわけです。

(9月4日 日曜日 23:07 更新) (9月6日 火曜日 22:11 更新) 



では、さっそく指田郁也の『花になれ』の歌詞を観てまいりましょう。


あなたは今笑えてますか?  どんな息をしてますか?

人混みに強がりながら 『負けないように』と歩いているんだろう

足許のその花でさえ 生きる事を迷いはしない


ここでは、人の生き方と 足許の花の生き方とを比べています。

そして、その花は生きる事において迷いはしないというのです。

一方、人の場合は、生きる事において迷っているというわけです。

迷っているからこそ、人混みに強がりながら、“負けないように”と歩いてしまっているというのです。

言い換えれば、自分と他人を比べながら、勝ち負けにこだわって生きているわけです。

そのような生き方をしている限り、心底からは笑えていないのです。 息することも心地よくないものです。

では、人として生きる事において迷うことから脱するためにはどうすればいいのでしょうか?

そのヒントがどこにあるかについて、続く歌詞の中で説明されていきます。


『生きてゆけ』 

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている。

ぶつかっていいんだ  泣いたっていいんだ


生きてゆけ』・・・・・人は、一体、どのように生きてゆけばいいのでしょうか?

僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げている」・・・

つまり、人はそれぞれの人生、それぞれの環境の中で生きている。

その中で、逆風も吹いてくるかもしれない、困難にぶつかることも往々にしてあるかも知れない。

順風満帆の人生だけを望んでも、思いどおりにはいかないもの。

でも、「ぶつかってもいいんだ」・・・というのです。

また、人として強くあるべきだとして、“泣いてはいけない”、弱いところを見せてはいけないということではないのです。

泣いたっていいんだ」・・・というのです。 


さらに、

誰もが今、時の中で それぞれの明日を探している 

ついていいんだ間違っていいんだ 何度も立ち上がればいい

とも言っているのです。


これらの歌詞は、一体、何を教えているのでしょうか?


(9月6日 火曜日 22:57 更新) (9月17日 土曜日 23:19 補足更新)


何かにぶつかっている自分、泣いている自分、傷ついている自分、間違っている自分・・・・・

そのような自分を責めたり、非難したり、卑屈に感じたり、失望・絶望したり、苛立ったりしなくていい・・・

ということなのです。 そのような自分には価値がない・・・などと想わないことです。


今あるがままの自分をそのまま認めることが重要なのです。

つまり、自分で自分自身を“さばかない”ということが必要なのです。

一定の価値基準、既成概念、固定観念に照らして、自分自身を“さばくことをしない”ということです。


これが、人として『花になる』ために、すなわち、“朽ちない種”から花を咲かせるためにとても重要なことなのです。


その胸に抱いている種は いつかきっと 夢を咲かすよ


人は、人生の中で厳しい現実を経験することもあるでしょう。

乗り越えられないように想える高い壁にぶつかることもあるかも知れません。

人生の中で、いろんな風が吹いてくるでしょう。


僕らは今、風の中で それぞれの空を見上げてる

 

自分で、自分に鞭打ったりして、自分で自分に苦痛を与えることによって『花になれる』のではないのです。

むしろ、悲惨な環境の中にあっても、できれば避けたいような現実の中にあって、

自分で自分のあるがままの姿を認めて、それを優しく丸ごと受容していくことが『花になる』ために必要なことなのです。


未完成でいい


今の自分がたとえ“不完全”であると感じたとしても、自分に失望したり、卑屈になったりする必要はないのです。

また、未完成な自分、イコール、ダメな人間・・・と想う必要もないです。

人は、それぞれ、意識進化の途上にいるわけであって、その進化のレベル、あるいは、ステージが各人 違うのは当然です。


ところで、山上の説教の中でイエスは、次のように語っておられます。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節


ここで、イエスは の領域における完全さを人に求めているというわけではありません。

人に、人の領域における完全さを求めておられるのです。

でも、この完全さというのは、もはや成長の余地がないような完全さではないと想うのです。

植物は、種から成長して、最後に花を咲かせます。この最終段階だけが完全ではないのです。

花を咲かせるに至るまで、日々成長しているそれぞれのステージにおいて完全であり得るのではないか。

つまり、人においても、同様に、未完成は不完全を意味しないと、私は観るのです。


イエスが、ここで言っておられる「完全」というのは、文脈から明らかなように、神のような“寛容という愛における完全さ”ということなのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。


これは、言い換えれば、“ジャッジしない”、“さばかない”ということなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。



あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること


あなたは人として、はたして、気づいているでしょうか? 

もしかしたら自分は“弱い存在”、“力のない存在”であると思い込んでいませんか?

人は自分の内には力はない・・・と、長い間、洗脳され、思い込まされてきたかも知れません。


でも、指田郁也の『花になれ』という歌詞には、「大きな力はその手にあること」を「気づいてますか?」と、

私たちに問うているのです。


自分の外側の何かに頼ろうとしたり、そこから力を求めようとすると、“依存症”に陥ってしまうおそれがあります。

そこからは、本当の力は生まれてこないです。

言い換えれば、「その未来へ手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように 人は誰も強くなれる」という道を自ら閉ざしてしまいかねないのです。


実は、自分の内側にそのような力がすでに備わっているという事実に気づくことが、とても大切なのです。


 

ぶつかっていいんだ 泣いたっていいんだ 

かならず答えはあるから

『あきらめないで』・・・


逆に言うと、“ぶつかってはいけないんだ、泣いてはダメなんだ”と想っていると、答えを見つけるのが至難の業となってしまうのです。


答えのない毎日に立ち止まっても その涙は始まりのサイン

・・・・・ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ 

必ず答えはあるから 『あきらめないで』・・・


たとえ、なかなか答えを見い出せないように想われたとしても、「あきらめないで」と言うのです。


答えが見つからない時には、諦める(あきらめる)のではなく、明らかにする(あきらかにする)ことが、実は重要なのです。


答えを見い出すことができず、迷ってしまった時には、もうダメだ、万事休す・・・と絶望して、諦めてしまうのではなく、むしろ、そのような時にこそ、心の目を明らかにする絶好のチャンスでもあるのです(エペソ人への手紙1章17節~18節を参照)。


それが「泣いたっていいんだ」ということであり、そして、その「その涙は始まりのサイン」となるのです。


では、人はどのようにしたら、心の目を明らかにすることが出来るのでしょうか?

それは、心の目にある“”を取り除くことによってです(マタイによる福音書7章5節を参照)。

そのための具体的なノウハウというのが、イエスが勧める「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)ということなのです。


それが、ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついていいんだ、間違っていいんだ」と悟ることなのです。


いかなる人(自分でも、他者でも)をも、善悪の固定観念、価値の有る・無し、既成概念、常識などのモノサシで さばいたりしないこと・・・・自分や他人をあるがまま観ていく、認めていく、受けとめていく、受け入れていくこと・・・これに徹することが、とてもとても大事なことなのです。これを日々実践していく時に、心の目にある“”を取り除かれていくことになるのです。


これがイエスが山上の説教の中で語っている中心メッセージであり、指田郁也の『花になれ』の歌詞に秘められたメッセージでもある・・・と、私は観ているのです。



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?

 

・・・・・・続く・・・・・・お楽しみに・・・・・・  (9月18日 日曜日 0:09 更新) (9月19日 月曜日 22:10 更新) 


    *        *       *     


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