意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

10月9日(日) 8:49 更新  歌詞ブログ 『花になれ』 (パート2)

2016年10月09日 08時49分37秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”


『花になれ』 (パート2)



勇気は今、光になる


これは、一体、どういうことでしょうか?


観かたを変えると、どのような勇気を持つ時に、人は光になることができるのか・・・・・ということ。


私が想うに、それは“さばくことをやめるという勇気”です。 

言い換えると、自分の“マインドにおける『さばく』というプロセスを停止するという勇気”です。

自分の内に蓄積されている過去の記憶情報に根ざした固定観念、価値基準などで物事を観ることをやめるという勇気です。

人によっては、これまで当たり前のようにやってきたこのようなマインドのプロセスを停止してみることは、自分というアイデンティティーを失うように感じるため、怖いと想ってしまう人もいるようです。実際には、そんなに大げさなことではないのですが・・・・。


山上の説教の中で、イエスは 人には「内なる光」が存在していることを述べています(マタイによる福音書6章23節を参照)。


人がさばいている時には、マインドがフルに活動しているのです。でも、この時、「内なる光」は暗くなってしまうものなのです。さばくことを得意とするマインドの働きの中にすっぽりと埋もれてしまうと、人は“迷いの人生”を送ってしまうことに。


逆に、このようなマインドの働きのスイッチを“勇気を出して”切って、さばくことをやめた時には、「内なる光」を覆っているブロック(=梁)が取り除かれていく方向で動き出すのです。そして、「内なる光」は輝き始めるようになるのです。本来の輝きを回復してくるわけです。これが、「勇気は今、光になる」ということ。


人の内に存在しているこの「内なる光」こそ、実は、力の源でもあるのです。ここに気づくことは、人が「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」ために、 とっても大切なことなのです。


それが、

あなたは今気づいていますか? 大きな力はその手にあること  勇気は今、光になる

という歌詞が意味するところなのです。


従って、「さばくな」というイエスの教えというのは、とりわけ重要な教え、注目に値する教え・・・と言えます(マタイによる福音書7章1節)。


ぶつかっていんだ 泣いたっていいんだ」、「傷ついたっていいんだ 間違っていいんだ」というふうに、自分で自分をさばくことなく、自分自身のあるがままを優しく受けとめ、受け入れ、許容していく時に、「その命は強く輝く  風に立つ一輪 僕たちも花になれる 風に咲く一輪 僕たちも花になれるというわけなのです。 

 (9月23日 金曜日 23:44 更新) 



ところで、人が「未来に手を伸ばして 真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」のは、人の人生の最終段階になってから・・・とは限らないと、私は想っています。


植物の場合は、成長し切って最終ステージで花を咲かせ、実を結んでいくという形を取るでしょう。でも、人の場合は、必ずもそうではない・・・と、私は想うのです。将来、いつかきっと自分も「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日が来るかも知れない。こんなふうに、“未来という時間軸”に自分の希望を託す必要はないのではないか。


むしろ、“今というこの瞬間、瞬間”こそが、実は、リアルな時間なのであり、本当に価値ある時間軸はここにあるのではないだろうか・・・と、想っているわけです。


また、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日を早めようとして、自分を磨くために絶え間ない努力をしたり、修行生活をしたり、何かに精進したりすることも、ちょっと的が外れているような気もするのです。


『井の中の蛙、大海を知らず』


大海を知る道を自ら閉ざしていて、井の中の蛙でいることを甘んじている限り、「真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる」日はやって来ないと想います。


大海にある無尽蔵の情報を知る道を閉ざしてしまうのは、その人が“さばいている”からです。自分は何でも知っていると思い込んで、現時点で自分が持っている情報を絶対的なものだと決めつけて、固定観念を抱いて、そこを基準にして物事を“さばいていく”時に、大海にある潤沢な情報はその人のうちに流れ込んで来なくなってしまうのです。


これを象徴するような出来事がイエスの十字架にかかっていた時に起こりました。イエスの十字架の両脇で、2人の犯罪人が自分たちが犯した罪のために十字架刑を受けていました(ルカによる福音書23章39節~43節、マタイによる福音書27章44節を参照)。


初めのうちは、どちらの犯罪人もイエスを“さばいて”いました。一人の犯罪人は最後までイエスに対して悪く口を言ってさばくことをやめなかったのです。彼が持っていた『井の中』の限られた偏った情報だけを根拠に、誤解と偏見を持って、イエスに対してさばきを下していたのです。


ところが、もう1人の犯罪人は、途中からイエスを“さばくことをやめた”のでした。“さばくこと”から“さばかないこと”にスイッチを切り替えるのに、長い時間は要しないのです。何年も、何十年も訓練や修行をする必要もないのです。“今というこの瞬間”に、スイッチを切り替えることは誰にでも可能なのです。過去の記憶情報というフィルターを通して観ることをやめればいいのです。他人から与えられる情報や判断に頼ることをやめればいいのです。既成概念や常識などですべてを捉えようとすることをやめればいいのです。心を澄ませて、偏見や先入観を捨てて、"今この瞬間"の中で、じかにあるがままを観ていけばいいのです。しっかり観ていく、じっくり観ていく、ノイズを取り払って心を澄ませた状態で、そのような心鏡にあるがまま映し出して観ていく。早急に結論を出そうとしなくていいのです。柔軟性をもって 仮の判断をしていく、一時的な判断をしていくのです。最終的な判断をしたり、確定的な判断や絶対的な判断をしない、決めつけたりしないことが大切です。とにかく、様々な角度から、いろんな次元や視点から観ていくのです。そんなふうに観ていって、情報収集を続けることを専念していく。そして、さばくのではなく、察していくのです。


ところで、後者の犯罪人は  さばかないこと”にスイッチを切り替えた瞬間に、彼の心の目から“”が取り除かれ、視界が開けたのです(マタイによる福音書7章5節を参照)。すると、『大海』にある貴重な情報が、堰を切ったように彼の内に流れ込んできたのでした。その時、彼はこれまで気づかなかった“真実・真理・目に見えない事実”を悟ったのでした。だからこそ、彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのです。


今度は、別の歌詞に注目して観ていきたいと想います。



その命は強く輝く 風に立つ一輪 僕たちも花になれる


ここで、“風に立つ一輪”というフレーズには、どのようなニュアンスがあると想いますか?

(9月28日 水曜日 23:32更新) (9月29日 木曜日 23:18補足更新) 


風が吹いてきても倒れたり、折れたりすることなく、凛として立っているような花のように僕たちもなれる。

このようなことをこのフレーズは、述べているのではないか・・・と、私には想えるのです。 

これは、何ものにも依存していない状態を意味しています。むしろ、自立進化した状態。

人として確固とした生き方が何であるのかということを悟ったということ。 

本来、人として生きる道を確かに歩んでいるということ。


この言われている“風に立つ一輪”の花になっている人というのは、イエスの山上の説教の中にあるように「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているから」という「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイによる福音書7章24節~25節)に符号しているように、私は想います。


山上の説教の中で、人はいかにしたら“風に立つ一輪”の花のようになれるのか・・、その秘訣をイエスは教えようとしたのではないか・・・・そんなふうに観ることもできます。


逆に、“風に立つ一輪”の花になっていない人というのは、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけてると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどい」と言われている「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(マタイによる福音書7章26節~27節)に対応しているわけです。


普段は両者の違いは見えないかも知れませんが、いざという時になると両者の違いは歴然としてくるのです。


では一体、この両者の違いというのは、どこから来るものなのでしょうか? 


風に立つ一輪”の花のようになれるかどうかを知るには、人はいかにして「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の方ではなくて、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の方になれるかを解明するといいわけです。


その答えは、マタイによる福音書7章21節~23節の中に。 皆さんも、心を澄ませて想い巡らせてみて下さい。


実は、ここには 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のことが記されているのです。この人たちは自分たちが天国に救われないことがわかった時、次のように主イエスに抗議するというのです。


主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。」(マタイによる福音書7章22節


これだけ聞くと、天国に入る条件と言われている「天にいますわが父の御旨を行う者」(マタイによる福音書7章21節)を彼らは満たしているようにも想えてしまいます。


イエスは聖書の中で『神の小羊』と呼ばれていて、イエスに抗議する人たちその『羊の衣』(=イエスを信じる信仰による神の義という衣)を来ているように外面的には見えます。ところが、その内側は『強欲なおおかみ』であることを、イエスは見破っているのです(マタイによる福音書7章15節を参照)。つまり、彼らはこれまで行ってきた“天の父の御旨”という自分たちの功績・実績・善行によって、自分たちの救い(=自分の利益)を手に入れようとしているのです。


愛は・・・・自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章4節~5節)とあります。つまり、彼らは主イエスに向かってそのように抗議することによって、自分たちには愛がないこと、愛によって生きてきていなかったこと、それらはすべて愛から出た行動ではなかったことを自分で証明したことになるのです。


言い換えると、『天の父の御旨』にかなうような“わざ”を彼らはやってきたように想えますが、致命的なことに、天の父であることを知らなかった、天の父を見たことがなかった・・・ということなのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。


実は、天の父御旨』にかなう行いというのは、天の父がいかなるものであるかに気づくこと、知ることから、自ずと生み出されてくるものなのです。そして、その愛とは“さばかない寛容という愛”なのだと、イエスが説かれたのでした(マタイによる福音書5章45節を参照)。


私たちは、神がわたしたちに対して持っておられるを知り、かつ信じている。神は愛であるのうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(ヨハネの第1の手紙4章16節


ではなぜ、 「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」たちは、神の愛を知らない状態で、救いを獲得しようとしてしまったのでしょうか?


山上の説教の冒頭の方で、イエスは次のように述べられました。


心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書5章8節


これは、一体、どういうことでしょうか? 

(10月1日 土曜日 22:38更新)(10月2日 日曜日 23:03更新)


イエスがここで言われた「心の清い人たち」というのは、心の「目が澄んで」いて、「内なる光」が暗くなっていない人たちのことである(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)と、私は観ています。逆に、心の「目が澄んで」おらず、その結果、「内なる光」が暗くなってしまっている人たちは、「信仰の薄い者たち」(同6章30節)と呼ばれているわけで、神が見えていないのです。


“信仰”というのは、ある意味、不可視領域の世界の存在である「神を見る」ための心の目と言えます。従って、心が何かに覆われていたり(コリント人への第2の手紙3章13節~16節を参照)、あるいは、何かにブロックされて視界が遮られてしまっていると、致命傷となるわけです。そのことを、イエスは「目に梁がある」(マタイによる福音書7章4節)と象徴的な表現をしたと想われます。従って、「神を見る」ことのできる「心の清い人たち」になるために、イエスは「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)と言われたのです。


では、どうやったら、「自分の目から梁を取りのける」ことができるのでしょうか?


その具体的なノウハウとして イエスが伝授して下さったのが、「さばくな」(同7章1節)ということだったのです。



岩の上に自分の家を建てた賢い人」(=風に立つ一輪の花)になれるか、あるいは、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」になってしまうか・・・の違いは、一体、どこから生まれるのでしょうか?


イエスは、はっきり言うのです、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か、「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない」かである・・・と。イエスが語ったこれらの言葉、すなわち、山上の説教の中で説かれた教えの中で、最も重要な要は「さばくな」であると、私は観ています。


さばかないことジャッジしないこと、それによって人は自分の心の目から“”を取りのけることが可能となるのです。その結果、心の目(=信仰という目)がはっきりと見えるようになるというわけです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。ここがイエスが説いた山上の説教において、最も注目すべきポイントであると想うわけです。


逆に、人はさばき続けることによって、自ら“”を自分自身の目の前に創り出して、視界を妨げてしまうことになり、その結果、神の真の栄光を見失ってしまうのです。


さばかないことを実践することによって、さばかない習慣を身に着けることによって、心の目(=信仰の目)が不可視領域の真実、真理、事実に目が開かれ、その人の信仰というものは まわりの環境や人々の意見にも左右されないほどに揺るぎないものとなり、その人の人生の中で たとえ「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹い」たとしても『風に立つ一輪』になれる、『真っすぐに咲く花のように・・・強くなれる』、言い換えれば、“確固とした人間”になることができるということなのです。


このような視点から聴いていくと、指田郁也が歌う『花になれ』は、とても素晴らしいナンバーであり、私は心に深い感動を覚えるのです。イエスが山上の説教の中で説いた真理と美しく調和しているからです。


イエスが山上の説教で言いたかった貴重な教えは、聖書の世界の中だけにあるのではありません。『花になれ』という歌詞の中にも、脈々と息づいているのです。


(10月7日 金曜日 23:26更新) (10月9日 日曜日 8:49 補足更新) 

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