碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡(いなば)二十士事件 (37)

2017年03月19日 15時21分02秒 | Weblog

  ebatopeko

 

 

      鳥取藩 幕末 因幡(いなば)二十士事件 (37)                                       (注:「よみ」をとの声で付けた)

 

   (二十士事件の背景)  ⑱  尊攘論のたかまり その3  因備両池田氏の立場
    

    (はじめに)

 ここでは、『鳥取県史』、『鳥取藩史』、『贈従一位池田慶徳(よしのり)公御伝記』さらには、山根幸恵氏、河本英明氏の著作およびその他の先行研究などをもとに取り上げてみる。

 因幡二十士事件は、尊攘派の家臣による藩主側近の暗殺事件であるが、その背景には鳥取藩内における尊王攘夷派の存在がある。

 鳥取藩において、何故にそれほど尊王攘夷思想を信奉するものがいたのかと言えば、その背景に水戸学がある。鳥取藩に水戸学が力を持つようになったのは、鳥取藩の継嗣問題がもとになっている。

 嘉永三年(1850)八月朔日、幕府から水戸中納言徳川斉昭の五男、五郎麿を養子とするようにと内示があり、八月二十五日に特旨が正式に伝えられて、ここに五郎麿(慶徳)が、鳥取藩第十二代藩主として決定した。五郎麿十四歳であった。徳川御三家の一つ、水戸家から藩主を迎えることになったのである。

 ところが、十一代藩主慶栄が鳥取に向け帰国の途につき伏見まで来たとき、慶栄が急死した。十代藩主慶行と同じ十七歳の若さであった。死因は脚気衝心であったが、その死があまりに突然であったこと、さらにその襲封に際して因州藩内に異論が強くあったことなどによって、当時の江戸加賀藩邸には慶栄毒殺説が広まっていた。

 嘉永三年(1850)八月朔日、幕府から水戸中納言徳川斉昭の五男、五郎麿を養子とするようにと内示があり、八月二十五日に特旨が正式に伝えられて、ここに五郎麿(慶徳)が、鳥取藩第十二代藩主として決定した。五郎麿十四歳であった。徳川御三家の一つ、水戸家から藩主を迎えることになったのである。

  いずれにしても鳥取藩の十二代藩主として、徳川斉昭の五男である慶徳が就いたことは、水戸家と鳥取藩とのつながりが強まることになった。そして以後鳥取藩では家臣の中で水戸学を学ぶものが多く出たのである。

 徳川斉昭は、慶徳に対して数カ条の心得を諭した。慶徳も日記を父斉昭に送り、その日常生活を事細かに報告した。また藩政上の問題が生ずるたびに、父に書状を送り意見を求めている。それゆえ、慶徳の鳥取藩政には、徳川斉昭の影響が極めて強い。尊王攘夷思想が鳥取藩において拡がるもとになっている。
 
 将軍擁立について、鳥取因幡藩の池田慶徳は、松平慶永から一橋慶喜を打診された。慶喜は一橋家に入っているが、もと徳川斉昭の七男であって、「七郎麻呂(麿)」という幼名であった。

 一方、池田慶徳も徳川斉昭の五男であって、幼名を「五郎麿」といった。ただし彼が側室の松波春子の子であったのに対し、慶喜は正室である吉子女王(有栖川織仁親王=のち皇女和宮と婚約した有名な熾仁親王の曾祖父=の娘)の子であった。慶徳にとって慶喜は異母兄弟の弟であった。

 さて慶永から慶喜擁立を打診された慶徳は、消極的な回答をしている。そして田安中納言慶頼(松平慶永の実弟)こそがふさわしいのではないかと答えている。

 ともかく鳥取因幡の池田慶徳は、次期将軍に弟である一橋慶喜を推挙しなかったことは、興味ある事実である。

  将軍継嗣と条約の問題の中、政局が混沌としていた安政五年(1858)四月二十三日、彦根藩主井伊直弼を大老にすることが決定された。さらに六月、日米修好通商条約が調印し、将軍継嗣について紀州の徳川慶福を決した。

 島津久光の入京をきっかけに、鳥取藩は本格的に国事周旋への動きをとるにいたった。京都近辺では、尊攘派志士による倒幕への動きが伝えられた。不穏な情勢に江戸にいた藩主慶徳の帰国に老中和田邦之助らを派遣するにいたった。

 当時京都では勅使大原重徳の東下が予定され、慶徳にも入京を勧める大原家の使いが来たが、結局慶徳は入京せず帰国した。これがのち藩内に意見対立をもたらすことになった。

 慶徳は松平慶永への書状で、島津藩の無断での入京、滞京を非難し薩長など雄藩による画策の危険性を訴えた。そこには、徳川斉昭の子であるという「御一門の末につらなる」という親藩意識にもとづいて、親藩主導による幕政改革、公武合体策を図ろうとした。

 しかし、藩内の攘夷派のつきあげと京都情勢により、ついに藩主が入京しなかった責を問い、和田邦之助らの罷免を慶徳は決断した。藩内には俗論派と国事周旋積極推進派との派閥抗争が表面化していくこととなった。

 そういう中で十月十五日藩主慶徳は、ついにはじめて入京するにいたったのであった。

  十一月五日江戸に到着した慶徳は、松平春嶽と連携を保ちつつ国事周旋を勧めた。しかし周旋は難航した。一橋慶喜はすでに開国論に傾斜しつつあり、次第に慶徳と慶喜の兄弟間には意見対立が生じはじめていた。

 勅使三条実美らは十一月二十七日に江戸城に入り、攘夷の勅諚を将軍家茂に伝えた。幕府はついに攘夷勅旨を遵奉する旨を明らかにせざるを得ぬ立場に追い込まれた。だが幕府には攘夷を実行する見通しはなかった。

  鳥取藩の立場は、藩主慶徳をはじめ藩重臣とも基本的には公武合体であった。それは文久三年(1863)二月においても鳥取藩の国事周旋は比較的穏健で、公武合体派との結びつきによってすすめられた。

 こうして鳥取藩の国事周旋は行き詰まっていったのである。二月二十一日、中老田村貞彦と安達清一郎は関白鷹司邸を訪ね、国事周旋のお断りを申し入れた。藩主慶徳は国事周旋策に自信を失ってきたのであった。
                   

  (前回まで)

   文久三年(1863)三月、藩主慶徳が京都を離れたあと、京都での尊攘派の動きはますます活溌になり、上洛(じょうらく、注:京都に上る)していた将軍家茂をして、ついに攘夷期限を五月十日とする旨、朝廷へ奉答せしめるに至った。

(注:幕末期、尊王攘夷思想の高まりの中で、孝明天皇の強い要望により、攘夷の実行を文久三年(1863)五月十日にすることを将軍家茂は天皇に約束した)

 攘夷期限決定を知らせる在京家老、和田邦之助(注:彼が、私がブログで取り上げている「碧川かた」の父親である)からの報は四月二十六日に鳥取に到着し、二十九日には家中に攘夷期日が知らされると共に、「兼々相蓄へ候義気奮発の時に候間、粉骨砕身精忠を尽す」べき旨が申し渡された。

 攘夷期日は決定したが、幕府には諸外国に対して破約攘夷を実行するだけの具体的方策があるわけではなかった。それどころか、将軍家茂が留守となっている江戸では、幕閣はついに英国の武威に屈して、四月二十一日に生麦事件賠償金を支払う約束を英国に対して行った(五月九日に支払)。

(注:この「生麦事件」とは、文久二年(1862)八月、武蔵国生麦村=現在の横浜市鶴見区生麦=において薩摩藩主の父、島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を藩士たちが殺傷した事件である。この事件の処理をめぐっては紛糾し、翌年「薩英戦争」が起こることになる)

 幕閣の賠償金支払い決定には、水戸藩主徳川慶篤の建策が大きく影響したと当時評されていた。償金支払いの報が京都に入ると、公卿(くぎょう、注:律令制下の最高の太政官幹部。太政大臣、左・右大臣、大・中納言、参議などを指す)や尊攘派志士の中には幕府の失策を非難する動きが一挙に高まった。

 兄である水戸藩主徳川慶篤が償金支払い決定に一役ははたしたという報は、因州藩主慶徳をして苦境に立たせることとなった。もともと、因州藩の国事周旋は、藩主慶徳が尊王攘夷主義の提唱者徳川斉昭の子であり、親藩に列するものであるという意識から発していただけに、因州藩の周旋策は大きな打撃を受けたのである。

 この頃より、あたかも水戸烈公の子としての汚名を雪(そ)がんとするかのように、

(みとれっこう、注:徳川斉昭は幕末の混乱期を生き抜いた水戸藩第九代藩主で、因州藩主慶徳の父であり、のちの幕府最後の将軍徳川慶喜の実父である。その激しい生き方から諡号(しごう、注:おくりなのこと)を烈公という)

 慶徳は備前藩主池田茂政(しげまさ、注:烈公の第九子、文久三年春に備前藩池田家に養子として迎えられ家督を継いだ因州藩主慶徳の弟)と緊密な連絡をとりつつ、強硬な攘夷路線を主張しはじめていくのである。

 慶徳は弟茂政への書状の中で、兄慶篤の失策を非難しつつ、「兄弟の中に違勅の罪を負ひ候ては、容易に罷出候(まかりいでそうろう)も深く畏(おそ)れ入る」と、周旋のためにもなかなか上京できない立場となったことを嘆いている。

 五月五日、在京家老和田邦之助と京都留守居(るすい、注:京都での藩の代表者)安達清一郎が中川宮邸に伺候した。二人には、償金交付は神州未曾有の恥辱であり、この上は攘夷実行を幕府に迫るように因州藩主慶徳が周旋するべきである旨が、中川宮より伝えられた。

 周旋方大西清太・探索方伊吹市太郎は、当時大坂滞在中の備前藩主茂政に事情を報じた後、今後の因州藩国事周旋策設定のための状況報告に帰国した。留守居安達清一郎も五月十三日に帰国した。


 

  (以下今回)

 因州藩主池田慶徳(よしのり)は、帰国した安達清一郎らから事情報告を得たあと、五月十五日長文の手紙を大坂の備前藩主池田茂政(しげまさ)に送った。

 現時点においては、幕府はすみやかに攘夷を決行すべきであり、もし幕府が決定しない場合は、因備(いんび、注:鳥取・岡山)両藩主が横浜の外国人居留地に砲撃を加えようというのである。

 これは勇壮な決断ではあるが、砲撃のあとの事態に対する具体案はない。ただ、違勅(いちょく、注:攘夷決行という天皇命令にそむくこと)の汚名(おめい)を挽回したいという焦りから、慶徳は次第に攘夷主義的主張を強めていったのである。

 五月二十七日の岡山からの書状には、戦争に備えて鳥取・岡山両藩の協力体制を作っておきたいとの呼びかけであった。

 それは親藩主導による公武合体策が行き詰まる中で、鳥取・岡山(因・備)両藩主は、二人とも名君といわれた水戸藩徳川斉昭(烈公)の子であるという意識と、西国を主導しようとする両池田大藩の立場であった。 
           

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