碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡二十士事件(40)尊攘論のたかまり6 英国船砲撃

2017年06月18日 15時57分06秒 | 因幡二十士事件

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 鳥取藩 幕末 因幡二十士事件(40) 尊攘論のたかまり6 英国船砲撃     
                            

   (二十士事件の背景) (21)  尊攘論のたかまり その6  英国船砲撃
    

    (はじめに)

 ここでは、『鳥取県史』、『鳥取藩史』、『贈従一位池田慶徳(よしのり)公御伝記』さらには、山根幸恵氏、河本英明氏の著作およびその他の先行研究などをもとに取り上げてみる。

 因幡二十士事件は、尊攘派の家臣による藩主側近の暗殺事件であるが、その背景には鳥取藩内における尊王攘夷派の存在がある。

 鳥取藩において、何故にそれほど尊王攘夷思想を信奉するものがいたのかと言えば、その背景に水戸学がある。鳥取藩に水戸学が力を持つようになったのは、鳥取藩の継嗣問題がもとになっている。

 嘉永三年(1850)八月朔日、幕府から水戸中納言徳川斉昭の五男、五郎麿を養子とするようにと内示があり、八月二十五日に特旨が正式に伝えられて、ここに五郎麿(慶徳よしのり)が、鳥取藩第十二代藩主として決定した。五郎麿十四歳であった。徳川御三家の一つ、水戸家から藩主を迎えることになったのである。

 いずれにしても鳥取藩の十二代藩主として、徳川斉昭の五男である慶徳が就いたことは、水戸家と鳥取藩とのつながりが強まることになった。そして以後鳥取藩では家臣の中で水戸学を学ぶものが多く出たのである。

 徳川斉昭は、慶徳に対して数カ条の心得を諭した。慶徳も日記を父斉昭に送り、その日常生活を事細かに報告した。また藩政上の問題が生ずるたびに、父に書状を送り意見を求めている。それゆえ、慶徳の鳥取藩政には、徳川斉昭の影響が極めて強い。尊王攘夷思想が鳥取藩において拡がるもとになっている。
 
 将軍擁立について、鳥取因幡藩の池田慶徳は、松平慶永から一橋慶喜を打診された。慶喜は一橋家に入っているが、もと徳川斉昭の七男であって、「七郎麻呂(麿)」という幼名であった。

 一方、池田慶徳も徳川斉昭の五男であって、幼名を「五郎麿」といった。ただし彼が側室の松波春子の子であったのに対し、慶喜は正室である吉子女王(有栖川織仁親王=のち皇女和宮と婚約した有名な熾仁親王の曾祖父=の娘)の子であった。慶徳にとって慶喜は異母兄弟の弟であった。

 ともかく鳥取因幡の池田慶徳は、次期将軍に弟である一橋慶喜を推挙しなかったことは、興味ある事実である。

  将軍継嗣と条約の問題の中、政局が混沌としていた安政五年(1858)四月二十三日、彦根藩主井伊直弼を大老にすることが決定された。さらに六月、日米修好通商条約が調印し、将軍継嗣について紀州の徳川慶福を決した。

 島津久光の入京をきっかけに、鳥取藩は本格的に国事周旋への動きをとるにいたった。京都近辺では、尊攘派志士による倒幕への動きが伝えられた。不穏な情勢に江戸にいた藩主慶徳の帰国に老中和田邦之助らを派遣するにいたった。

 当時京都では勅使大原重徳の東下が予定され、慶徳にも入京を勧める大原家の使いが来たが、結局慶徳は入京せず帰国した。これがのち藩内に意見対立をもたらすことになった。

 慶徳は松平慶永への書状で、島津藩の無断での入京、滞京を非難し薩長など雄藩による画策の危険性を訴えた。そこには、徳川斉昭の子であるという「御一門の末につらなる」という親藩意識にもとづいて、親藩主導による幕政改革、公武合体策を図ろうとした。

 しかし、藩内の攘夷派のつきあげと京都情勢により、ついに藩主が入京しなかった責を問い、和田邦之助らの罷免を慶徳は決断した。藩内には俗論派と国事周旋積極推進派との派閥抗争が表面化していくこととなった。

 そういう中で十月十五日藩主慶徳は、ついにはじめて入京するにいたったのであった。

  十一月五日江戸に到着した慶徳は、松平春嶽と連携を保ちつつ国事周旋を勧めた。しかし周旋は難航した。一橋慶喜はすでに開国論に傾斜しつつあり、次第に慶徳と慶喜の兄弟間には意見対立が生じはじめていた。

 勅使三条実美らは十一月二十七日に江戸城に入り、攘夷の勅諚を将軍家茂に伝えた。幕府はついに攘夷勅旨を遵奉する旨を明らかにせざるを得ぬ立場に追い込まれた。だが幕府には攘夷を実行する見通しはなかった。

  鳥取藩の立場は、藩主慶徳をはじめ藩重臣とも基本的には公武合体であった。それは文久三年(1863)二月においても鳥取藩の国事周旋は比較的穏健で、公武合体派との結びつきによってすすめられた。

 こうして鳥取藩の国事周旋は行き詰まっていったのである。二月二十一日、中老田村貞彦と安達清一郎は関白鷹司邸を訪ね、国事周旋のお断りを申し入れた。藩主慶徳は国事周旋策に自信を失ってきたのであった。
                  

 

    (前回まで)

 京都では、五月二六日に因州藩主の上京・京都警衛勤仕(ごんじ)ー七月から九月までーを命ずる幕命が藩邸に伝えられ、さらに六月二日には藩主の上京を促す朝廷の命令も下った。

 三日、将軍家茂は参内(さんだい、注:天皇に拝謁すること)して江戸に帰る許可を得て、一三日には大坂から乗船して江戸へと向かった。また将軍に前後して公武合体派の諸侯も帰国の途についた。

 かくして、京都では再び急進尊攘派の勢力が大きく高まろうとしていた。このようなときに、慶徳は上京の命令を幕府と朝廷の両方から受けたのである。

 側近黒部権之介は、五月末に上京を命じられ、京都在住の幕閣を主に対象として周旋にあたっていた。国元の側用人から黒部へは、藩主が上京してもあまり周旋のめどがないので、藩主の上京を引き延ばす策を講ずるよう指示が与えられていた。

 六月八日、黒部は国元の側役あてに、幕府・朝廷から上京の命を受けた以上は上京しなければならないが、もはや周旋のしようもないので、ただ朝廷をお守りするためだけでも上京されては如何かと報じた。

 一方、在京の周旋方中野治平は、周旋方筆頭の土肥兼蔵あてに事業報告とともに、国事周旋のために一刻もはやく上京されたいと進言している。

 京都留守居安達清一郎は、上京後一転して藩主入洛(じゅらく)支持説にまわった。六月一四日の因州藩の英国船砲撃について、安達は早川卓之丞(たくのじょう)に対し、即刻の上京を願い上げますと申し送った。

 黒部、安達、中野の三人の思惑は、違いはあったであろうが、それぞれの考えもとに藩主の上京をうながす報告を国元に送ったのである。

 六月二一日、藩主池田慶徳は上京すべく鳥取を出発した。お供には側用人の山下豊雄・小姓筆頭で側役も兼ねている高沢省己(せいき)・早川卓之丞(たくのじょう)が従った。また儒者の景山龍造もあとを追うように命令を受けていた。

 周旋策の成算もなく、堀の指摘した藩論の統一もはかることなく、藩主慶徳は京都に向かったのである。

 藩主の慶徳は、出発前の一四日には家中に対し、留守をしっかり守り、差図なき間はみだりに私のもとにま罷り出ないようと申し渡された。

 一六日には、緊急事態のときのことが定められた。城中から緊急号砲があった場合は、所定の場所へ武装して集結するよう伝達されていた。

 これは藩主留守中に、攘夷決行のために臨戦体制を取らなければならない事態が発生するかも知れないと予測していたからであろう。 


 

   (以下今回)

 六月十四日、大坂湾に入ってきた英国船に、天保山を守備していた因州藩が砲撃を加える事件が起きた。これより先、六月八日に因州藩の摂海警衛(せっかいけいえい、注:大坂湾の警備のこと)の任は解かれ、

柳河藩(やながわ、注:筑後国柳河、現在の福岡県柳川市)と交代するよう幕府から命じられていたが、交代を完了しない内に、この事件が起きたのである。

守備に当たっていた因州藩内部にも、砲撃を主張する軍式懸岩越作之右衛門と(ぐんしきがかり、注:当時藩内では、のち二十士事件の一人となった山口謙之進がいたが、彼は勝海舟に砲学を学んでいる。山口の上京の折、のちの明治大学の創設者である岸本辰雄が同道していることも興味あることである。注:山口謙之進に関する論文あり)

 

 これを阻止しようとする番頭(ばんがしら)荒尾隼人の対立があったが、旗頭(はたがしら)乾雅楽之助(いぬいうたのすけ)の決断によって、英国船に向け五発の砲撃がなされた。因州藩大砲の射程距離は短く、英国船は何等の損傷も受けることなく、湾外へと去っていった。

 因州藩の処置に対して、大坂城代松平伊豆守は、「攘夷のことについては、未だ横浜において談判中であるので、向こうから襲来しないうちは粗忽なことはしないよう、通行の外国船への無闇の攻撃はしないよう」との幕府の見解を伝えて来た。

 一方、朝廷からは「勅意を奉じて英国船打ち払いをしたことは神妙である」とのお褒めの詞があった。この因州藩の英国船砲撃の報は十七日に国元に届いた。藩主慶徳は大いに喜び、旗頭乾にお褒めの書を与えた。

 当時の欧州諸国の軍事力についてほとんど知ることなく、藩主慶徳は安易な攘夷決行へと進んで行ったのである。

 五月十日の攘夷決行日に、長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃したのをきっかけにして、「攘夷実行」の態勢に入った。それ以後長州藩は外国船との間に砲火をまじえていた。

 在京家老の和田邦之助(彼が「碧川かた」の父親である)は、周旋方(しゅうせんがた)の主張の影響を強くうけ、次第に尊攘主義的な傾向を強めつつあったが、六月一二日に国元家老へ、「国元の大砲、そして火薬などを長州藩へ送ってはどうか」と建議している。

 また、京都留守居安達清一郎も「数十人の壮士を選び、使者を長州藩へ送りしばらく留めて、長州藩を救援すべき」ではないかと、他藩に先がけて使者を派遣するように献策していた。

 六月二六日、番頭臼井豊後が長州藩見舞い使者として鳥取を発し萩へと向かった。伏見留守居(京都留守居兼帯)河田左久馬も副使に任命され、二四日に京都を発して同じく萩へと向かった。

 河田左久馬は代々伏見留守居を勤める河田家の九代目として伏見藩邸に生まれ、嘉永四年(1851)に家督を相続し、早くより尊攘派志士との結びつきがあったが、長州藩の攘夷決行をつぶさに見聞することによって、その尊攘論の立場をますます強化して帰京することとなった。



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