碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

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米子散歩  (75)

2016年09月17日 14時45分32秒 | Weblog

       ebatopeko

 

               米子散歩  (75)

 

  米子に最近やって来たのであるが、米子がどんなところか、まったく予備知識がなかった。
 そこで、両三柳、道笑町、皆生、角盤町、陰田、陽田、車尾、熊党など米子の珍しい地名の由来を調べてみた。

 住む町の地名を探ることは、その町を知る上で大きな意味があると考えるからである。

 さしあたって、『角川地名辞典』、『平凡社地名事典』、『弓浜物語』、『米子ふるさと散歩』
 などを見てみる。    


   ( 以下今回 )

 

   <上飯生村(かみいけむら)>  現米子市美吉

 

 目角(めすみ)村の東に位置する。集落は東の山裾にあり、南の谷間の上ノ池灌漑による水田作が行われる。

 
 この地域は、近世以後も池ノ内と俗称される古くからの湿地帯で、天保~安政(1830~60)頃米子城下の町人大寺屋らによる干拓が進められた(「大寺屋孫子伝聞」、米子市史)。

 目久美(めぐみ)も池ノ内も米子駅裏の加茂川沿いにある遺跡である。目久美では昭和八年(1933)の加茂川右岸調査以後、数回の発掘が行われた。この調査でわかったことは、今の水田面の下に三層の弥生時代の水田と集落があったことである。

 その水田面から、さらに深く掘り下げると、四メートルぐらいの下層から縄文時代の土器・石器・動植物の遺体・貯蔵穴などが多数発見され、縄文時代にはこのあたりが山に近い海辺で、漁業や狩猟の生活をしていたことがわかる。

 地元には、池沼性の湿地に土手を築こうとしたが地盤がゆるくて用土が沈下するので、占い師の言に従って猿回し芸人を捕らえて人柱とし、辛うじて土手を完成したという「猿が土手伝説」が残る。

 正保国絵図(注:正保元年1944に諸国に作成が命じられたものである。江戸時代には慶長、正保。元禄、天保の4回国絵図が作られた。全国68の国すべての調査が行われ、縮尺も正保では、1/21600に統一され実用性が重視された)には、上新田(かみしんでん)村とある。

 拝領高三五石余、本免四ツ二分(注:年貢率四割二分)。享保元年(1716)以後上飯生村と改称し、天保五年(1834)村名改めを届け出た(藩史)。

 飯生は、「いいけ」とも読むらしい。この村名の由来について、「伯耆志」は、「和名抄」(注:正式には「和名類聚抄」という。平安時代の百科事典的漢和辞書、935年ころ成立した。10巻もの20巻ものがある。20巻ものには諸国の郷名が収載されている。著者は源順(みなもとのしたごう)である)の会見郡半生(はにゅう)郷の比定地が不明なことから、

 「飯生(はにゅう)」と「半生」とのかかわりを推定し、いかにも古語と思われる飯生は「池」の意かなどと推定している。

 「伯耆志」の高(注:石高、米の生産高)三九石余、家数一二、人数六五。藪役銀(注:藪にかかる税)八分余を課されていた(藩史)。

 天明九年(1789)当村の下飯生村の麻右衛門は、柏尾村(現西伯町)内にある所持林三反余を、遠すぎるとの理由で宗像(むなかた)村御建山内芝原との場所替えを願い出、許されている(在方諸事控)。

 明治十年(1877)目組(めぐみ)村など二か村と合併、美吉村となる。下飯生村とともに祀っていた東方丘陵上の荒神は、明治初年上飯生神社と改称、大正六年(1917)宗形神社へ合祀された。

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