碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (47)

2016年11月10日 15時41分06秒 | Weblog

 ebatopeko

 

 

      明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (47)


 

 今や忘れられつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。 

          

  杉谷代水愛嬢佐々木恵美子 『妻の文箱(ふばこ)』 ⑥
 
                                                                             
  (前回まで)

 平成12年(2,000)六月、杉谷代水の愛嬢佐々木恵美子は、ペンと筆によって「妻の文箱(ふばこ)」をまとめた。

 これは、杉谷代水が妻の壽賀などに宛てた手紙、葉書の保存されたもので、母壽賀が大事にしていたのを平成12年(2,000)に愛嬢の恵美子がまとめたものである。


   杉谷代水は明治四十四年(1911)十二月、宮田脩氏の媒酌により粟田壽賀子を迎へ逗子に新家庭を作り長女恵美子をあげた。父母はこの初孫をよろこばれたという。

 しかし、結婚生活もわずか三年に満たない短さで、病は篤く覚悟をしていた彼は家族を枕頭に集め、遺言をなし、静かに合掌しつつ永遠の眠りに入ったのであった。


 生前、杉谷代水は妻の壽賀などに対して宛てた手紙や葉書などをマメに送った。 
 
 このペンと筆による「妻の文箱」が、本という形を取っていないが、愛嬢によってまとめられていた。杉谷代水の生誕の地、境市立図書館にあることを知り、閲覧した。残念ながら印刷されていず、「禁帯出」である。

 それを貴重なものであるので、次に紹介したいと思います。

 

          
      (以下今回)
 

   妻への手紙

  註=手紙はすべて巻紙に毛筆、旧漢字、旧仮名づかい、あえて原文のまま写し、巻紙の文(ふみ)の丈(たけ)長きは、思いも多きことと喜ばれたようです。

 一 歌劇「熊野(ゆや)上演に際して
      (明治四十五年二月、東京神田小川町の仕事部屋より逗子の宅へ)

 

 (注:「熊野」とは、(ゆや)と読む。これは「平家物語」にある話に肉付けしたものである。遠江の国(現在の静岡県)の池田宿の「熊野御前」という女主人が、都の権勢を誇る「平宗盛」に召されていた。

 都の平宗盛のもとにいる熊野(ゆや)のもとに、故郷の母の病状が思わしくなく、今生の別れに一目会いたいと母からの手紙が来た。熊野(ゆや)は宗盛に帰郷を願い出たが宗盛は今年の花見を一緒に過ごしてからと聞き入れない。

 春爛漫の中、楽しげな都の人々の様子を見ても、熊野(ゆや)の心は故郷への思い、母への気遣いで沈みがちです。心ならずも酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が来て、花を散らしてしまった。

 これを「見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げた。その歌は、

   「いかにせん、都の春も惜しけれど、
       馴れし東(あずま)の花や 散るらん 」

 この歌は、かたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許されといわれる。熊野(ゆや)は、宗盛が心変わりしないうちに、と急いで京を発ったという)

 

 劇場であんな葉書を出したのは、御許(おもと)に無駄な心配をかけたやうなものだった 帰りに電車の中で考えをまとめて見ると、存外単純なものになって、相談の問題はただ一つになる

 熊野(ゆや)は二場で四十五分、運びはよい方、単純だから中心がはっきりして演(や)りよささう 大体は坪内先生(坪内逍遙先生)の評の通り、しかし始(初の間違い?)めてのものとしては全然失敗ともいへぬかも知れぬ、

 少なくとも環女史(注:三浦(柴田)環のこと、明治17年生まれで、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手、東京音楽学校で、ピアノを滝廉太郎に学んだ。出し物はのちに有名な「蝶々夫人」などがある。

 明治45年(1912)帝国劇場で杉谷代水のかいた「熊野(ゆや)」は、彼女が演じた)は失敗したと思ってはゐぬかも知れぬ

 

   『熊野(ゆや)』について、三浦環は自伝でこう語っている。

 「この『熊野』は当時非常に野心的な作品でした。背景も衣裳も全部歌舞伎風、それに西洋音楽の独唱、合唱とオーケストラを使ったのでして、うまくゆけば、日本独特の歌劇が生まれる。

 私たち出演者は勿論作者も、それから当時帝劇専務で、こうした新しい歌劇運動に非常な情熱を捧げた西野恵之助さんも、一同燃えるような意気で熱演しましたが、結果は失敗に終わった。

 

 

 處(ところ)で僕だけの利害から虚心で考へてみるに熊野(ゆや)の為めに帝劇及び観衆から僕の受けた傷は存外軽微であった


 (注:帝劇の「熊野」を、宝塚少女歌劇の準備を進めていた阪急社長、小林一三が見ていた。小林は「熊野」についてこう書き残している。

 「まだ宝塚を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は『熊野(ゆや)』であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発しているのがおかしくてしようがないのであった」)

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