碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (40)

2016年10月18日 14時53分28秒 | Weblog

    ebatopeko


 

      明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (40)


 

 今や忘れられつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。 

          

 

    ( 杉谷代水の生涯 )    東京に於ける代水     

                               松  下  政  蔵


 『杉谷代水選集』が故人の死後20年を経て出るようになった経緯は、故人の愛弟子で、県立鳥取女学校教諭であった松下政蔵教諭の年来の念願の達せられたものであった。

 その彼、松下政蔵氏が杉谷代水の生涯を、郷里でつぶさに見てきた杉谷代水の生涯を、この『杉谷代水選集』で記している。

 これが杉谷代水の生涯をもっとも身近に接し、かつ詳しく記した伝記と思われるものであると思われるので、次に記したい。

  この文も難しい言葉を使っておられるので、( )に読みと意味を記した。


   (前回まで)

  彼は明治七年(1874)秋八月、伯耆の国の北西端、境(さかえ)港に生まれ、虎蔵と名づけられた。父は源八、母はとしと言ったが、2歳のとき松江に移住し、9歳のとき鳥取の片原町に移つり、ささやかな飲食店を営んだ。

  虎蔵は幼時虚弱であったが、両親の寵愛を一身にあつめた。小学校も優等の成績を占め、性質は極めて温順で女のようだといわれた。

 高等小学校((注:当時の義務教育は4年で、その後4年の高等小学校があった。略して「高小」という。高等小学校は授業料を徴収していた)ではますます学業、図抜けており、家事のひまひまには、読書に耽(ふけ)った。また好んで自ら凧を作ってこれを揚げ、又附近の子供を集めて自ら舞台監督をし、芝居遊びを楽しんだ。

   両親に対する孝心は地方の模範児といわれた。父は提灯をつくり、節供のぼりや凧の絵柄を描いたりした。

 彼は学業優秀で、4年間の義務尋常小学校を終え、さらに授業料の必要な4年間の高等小学校も彼虎蔵は、特待生として授業料を免除された。

  14歳で成績優秀の彼は、当時鳥取県で唯一の「鳥取中学」に入学した。
 
 趣味も豊かで、生花・謡曲・詩吟・剣舞・端唄・明笛など、さまざまに通じていた。
 

 また体格も大きい方で、角力(すもう)に強く、年長者にも勝ちを譲らず、銃剣も極めて得意であった。

 すべて凝り性で、読書研究はもとより、些々(ささ)たる遊戯にも研究的で綿密な注意を払った。

 学科では最も数学、理科方面が得意であった。明治二十五年(1832)の七月、十九歳で鳥取中学校を抜群の成績で卒業した。

 そして学校の推薦で第三高等中学校(のちの第三高等学校、注:旧制の三高で、現在の京都大学総合学部と岡山大学医学部にあたる)理科に入学の運びになっていたが、学資の見込みがつかなかったので断念した。

 然し虎蔵は専門学校進学の志やみがたく、上京の希望を両親にもらしたが許されなかった。

 小学校につとめたのも家計の援助の考えがあったからであろう。

  虎蔵は、小学校在任三年目の明治二十八年(1895)八月三十一日に、小学校の解職を願い両親を説き伏せ、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)に入学すべく上京した。


 (東京に於ける代水)

 虎蔵は東京専門学校文学部に入学、のち熱心なる勉学周密なる研究の態度は、強く坪内逍遙博士)の知る所となり博士の信任を得た。

 此の頃も学資は乏しかったので彼は或る期間、早稲田中学の寄宿舎舎監を勤めたこともあった。

 
 かくして在学中常に学業成績に頭角を現してゐたが、病気を得て中途退学の止むなきに至り、病を養うために須磨寺に遊んだ。

 病ようやく癒えて明治三十一年(1898)九月、坪内博士の推薦により、冨山房編輯部に入り、坂本嘉治馬社長)の信頼をうけ、専心編輯事務を執り、傍ら、新体詩、和歌、俳句等の創作や翻訳に誠心した。
                                        
  明治三十年(1897)、坪内博士は尋常小学校および高等小学校の国語読本編輯に着手せられ、三十三年(1900)に完成されたが、材料の配列、挿図(そうず、挿絵)の工夫、口語文の採用等に苦心せられた。

 これに博士を助け大きな役割を果たしたのが、他ならぬ杉谷虎蔵であった。杉谷虎蔵が博士の意を受けて其のプランを立て、教材を起稿したのであった。


 また、代水は多くのオペラも書いたが、これらは当時各女学校の学芸会等に歓迎せられたが、現に「胡蝶」の如きは盛んに行われた。

 
 代水は常に居を逗子に占め、午前読書や執筆、午後は病を養いながら、文藝界に働いたが、逗子における養生は花卉(かき、観賞用の美しい花)の栽培と自製の凧揚げ(注:その凧の絵は自ら描いた)の運動と海岸の散歩であった。

     「新體(たい)詩人」としての名は、当時帝大派、文庫派、文学界派に対して詩人少なき早稲田派の一人として、繁野天来、星野天知らとともに知られていた。

  『夕潮』、『行雲歌』などは彼のその作品であり、『新體(たい)詩の将来を論ず』はその主張で、当時としては大きく認められていた。

 代水の代表作は、明治四十年(1907)(彼は三十六歳であった)の雑誌『早稲田文学』に発表の脚本「大極殿(だいごくでん)」である。 

 そして彼は唱歌を多く作るようになり、明治四十二、三年頃の彼は全く唱歌作者といってもよい程、多くかつ佳作を出し世に行われた。

(注:明治四十三年(1910)の『星の界(ほしのよ)』がもっとも有名で、文部省唱歌として、一歳年上の同じ鳥取出身の田村虎蔵とともに受け入れられた。

   代水が詩人としての天才的素質を豊かにそなへながら、明治詩史にその名をうたはれぬのは、その作品の価値の低いためではなく、余りに多方面に過ぎ、唱歌といふ斉唱定型詩歌に行ってしまったからであらうか、但し彼の作品は生命が長く、多々ますます佳作に富んだ。

 思ふに英語の詩歌の和訳に妙技を有し、一瞥(べつ、一目見ると)直ちに和語佳句となり、直ちに諷唱に適したらしい。

   彼の余りに多方面に過ぎる執筆およびの多作こそ、当時身躰羸弱(るいじゃく、疲れ弱って力が衰える。またそのさま)の医療費と生活費の助けとにしたらしかった。、

 代水が詩人としての天才的素質を豊かにそなへながら、明治詩史にその名をうたはれぬのは、その作品の価値の低いためではなく、余りに多方面に過ぎ、唱歌といふ斉唱定型詩歌に行ってしまったからであらうか、但し彼の作品は生命が長く、多々ますます佳作に富んだ。

   彼は英語の詩歌の和訳に妙技を有し、一瞥(べつ、一目見ると)直ちに和語佳句となり、直ちに諷唱に適したという。

  当時同郷の作曲家、田村虎蔵氏は牛込築土八幡社畔に住し、代水もまた牛込中里の下宿に居たので交遊も厚く、田村氏の嘱により歌詞を作ったものも多く、

   田村氏の談によれば「杉谷君は英詩をよむのは真にすらすらやってのけ、訳させると難渋な語句もちゃんと立派な日本語の唱歌となってゐた」と。

    その多作こそ、彼の当時の身躰羸弱(るいじゃく、疲れ弱って力が衰える。またそのさま)の医療費と生活費の助けとにしたらしかった。

 六十余篇の唱歌の中、「星の界(ほしのよ)」、「木枯」、「古武士」、「敵襲」、「友情」、「孝女」、「漁火」等は、世に喜ばれたものである。「

 とくに星の界(ほしのよ)」は現今もラジオによって全国的に放送されてゐる。

 

 

    (以下今回)


 顧(かえり)みれば大正元年(1912)の秋、鳥取に展墓(てんぼ、墓参りのこと)かたがた帰省した。彼の通信によると、あれもしよう、これもしようと随分多くの期待をもって帰ったらしい。

 然るに鳥取は恰(あたか)も大洪水の直後で(注:九月二十三日の2時に起きた千代川・袋川の洪水で、県下の死者は102名を数えた。また山陰線の全通は10月10日になった)、大洪水のあとで泥土をのこして引いた跡始末は、まるで戦場のやうな惨憺(さんたん)たる有様であった。

 で杉谷代水は鳥取市川端三丁目の上但(うえたじ)旅館に泊まったが、「道路に埃、堆積山積し、臭気紛々法事も何もあったものにあらず」(九月三十日妻への書信)であった。

 で、倉皇(そうこう、注:蒼惶であるが、これはあわてふためくさま、あわただしいさまを表す)として帰京したが、

 当時故旧(こきゅう、注:古くからの知り合い、昔なじみ、旧知のこと)に義太夫をきかせるといふので(注:代水は義太夫を披露出来るだけの技術を持っていたのである)

 肩衣見臺(かたぎぬけんだい、注:義太夫をするときの書見台と肩衣のこと)を用意してゐたが、その目的は達せられなかったと親族の人の談である。

 義太夫では、「鎌倉三代記」「一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき、注:文楽・歌舞伎の演目の一つ。三段目の「熊谷陣屋」が特に著名で、熊谷直実の陣屋に入って来た妻相模と、後白河院のもとにいた藤の方の話である)」「三十三間堂」が得意であったらしい。

 代水の浄瑠璃趣味は、文藝研究の余技でもあらうが、父源八は田舎浄瑠璃の常連であったので、見やう見まねが元になって、師匠につくやうになったものであらうが、これが代水のなつかしき郷里への最後の訪れであったが、いたましくも心残りであったらうと思ふ。 

 時の情況、彼の心事は当時の新妻壽賀子に送ったハガキ通信で知ることが出来て面白い。

 彼の生活は晩年病気勝ちであったが、病をおして引きつづき著述を出しに出した。生活の大部分は読書著述であったが、趣味としては浄瑠璃の外に、将棋は田舎初段と称した位強く、

 端唄(はうた、注:江戸時代の庶民に広く流行ったものが多く、通俗的なものが多い。特に幕末期に広がった)も時々口ずさんで気鬱(きうつ、気の憂さ)を晴らした。

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