碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (67)  妹 テルについて ②

2017年07月16日 13時50分34秒 | Weblog

 

           ebatopeko
  
      

  長谷川テル・長谷川暁子の道 (67)    妹 テルについて ②
       

     (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子『二つの祖国の狭間に生きる』同時代社(2012)、長谷川テル編集委員会『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』せせらぎ出版(2007)、家永三郎編『日本平和論大系17』「長谷川テル作品集」(亜紀書房、1979)、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」などを中心として記す。

   (前回まで)

 ユダヤ系ポーランド人「ザメンホフ」は世界平和のために世界語の「エスペラント」を1887年に創始した。その生まれの成り立ちから言っても、エスペラントは本来民主主義的なものである。

 しかし、20世紀には1914年から18年にかけての第一次世界大戦、そして1939年から45年までの第二次世界大戦と大戦争が起こりました。犠牲者の数は第二次大戦は、ソ連が2,000万人、中国は1,300万人、ドイツ約700万人、日本はおよそ300万人と言ったところであった。

   お姉さんの「西村幸子(ゆきこ)」さんが、妹テルのことを記しておられる。

 それを次に紹介したい。

 尚、女優の吉永小百合さんは、長谷川テルの遠縁にあたるといわれる。

 

  (以下今回)

 
 小学校三年のころ、四キロほど離れた所沢に転居した。となりに天理教があって、そこの娘がなかなかの頓知のある子で、テルと仲良しになり、毎日のようにママゴトをしている。

 その会話のやりとりが実におもしろいので、私はじっと聞いてはつづり方に書いて出した。テルはそれを知って、「書かれるからいやだ」といって、私の前ではママゴトをするのを止めてしまった。

 とにかく、いいだしたら絶対きかない子で、小学校五年のときこんなことがあった。そのころは村山貯水池の工事もだいたい終わり、父はふたたび本庁勤務となって、東京にもどっていた。

 母方の祖母の実家が茨城県にあって、私たちは夏休みに遊びに行っていた。利根川の支流の小貝川に沿った田んぼにシジミがたくさんいるのだが、その年はたくさん穫れるというので、みんなで出かけた。

 雨が幾日も降りつづいたあとで、つるつるすべるアゼ道をはだしで渡ってドロ田におりると、顔までドロがはねる。妹はいや気がさして「帰る」といいだし、いくら説得してもきかない。

 そのうち、さっさとひとりで引き上げ、荷物をまとめて東京まで帰ってしまった。私たちはあとでそれを知って大騒ぎをしたのである。

 テルの文才は小学校のときから目立った。三、四年ごろから、購読している雑誌によく投稿していた。その中で、講談社かどこかの雑誌に『冠句』というのがあって、「けちん坊」という題で、「けちん坊 今日も消しゴム 借りている」というのが二等に入選した。

 高学年になってからのテルは性格がガラリと変わり、すっかり無口に陰気になり、ひねくれて、父母のいうことは少しもきかず、叱られてばかりいた。母よりは、いっそう父に反抗的であった。父というより男性一般への反抗のように見えた。

 私にはさほどでもなかったが、弟にはとくに強くあたり、けんかの絶えたことがなかった。テルが小学校六年のとき関東大震災があったが、あとからあとから襲ってくる余震にみんながブルブルふるえているのに、テルは平然としてせせら笑っていて、母に、ずぶとい、としかられていたのを記憶している。

 笹塚小学校を卒業したテルは、私の後を追って府立第三高女(現・都立駒場高校)に入学した。女学校時代のの彼女はいっそう内攻てきになり、月に一度くらいしか家族に顔を見せず、部屋にこもったまま、食事にも出てこないことがあった。

 病気と偽って学校を休むこともたびたびある有様なので、心配のあまり私が彼女の日記を盗み見してみると、そこには驚くべきことが書かれていた。

 世の中に対する懐疑と不信、男性や権威のあるものへの反感などた書きつづられ、学校に行くとみせて一日神宮外苑をぶらついたり、あるときは化学教室から劇薬を盗み出して自殺をはかったことさえ書かれていた。

 あまりのことに私は胸もつぶれんばかりであったが、だれに相談することもできずに、
ただじっと見守っているほかはなかった。

 テルはこれに気づいてか、毎日、日記の置き場所を変えたが、私はたちまち捜し出して読んでしまった。彼女の日記は簡潔ながら、なかなかよい文章で書かれており、現在一冊も残っていないのが残念である。

 中国へ渡るとき全部焼きはらっていったらしい。彼女の日記によって、私はテルの心を理解できたと信じている。高学年のころは勉強もろくろくせずに文芸書ばかり読みふけっていて、受け持ちの先生に母が呼ばれて注意をうけたことがあった。 

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