碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (54) エスペラントによる小説 ①

2016年12月14日 14時04分05秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

       ebatopeko
  
      

      長谷川テル・長谷川暁子の道 (54)  エスペラントでの小説  ①

       

     (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 
 長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子『二つの祖国の狭間に生きる』同時代社(2012)、長谷川テル編集委員会『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』せせらぎ出版(2007)、家永三郎編『日本平和論大系17』「長谷川テル作品集」(亜紀書房、1979)、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」などを中心として記す。


 

  (前回まで)

 ユダヤ系ポーランド人「ザメンホフ」は世界平和のために世界語の「エスペラント」を1887年に創始した。その生まれの成り立ちから言っても、エスペラントは本来民主主義的なものである。

 しかし、20世紀には1914年から18年にかけての第一次世界大戦、そして1939年から45年までの第二次世界大戦と大戦争が起こりました。犠牲者の数は第二次大戦は、ソ連が2,000万人、中国は1,300万人、ドイツ約700万人、日本はおよそ300万人と言ったところであった。


       
    短歌 ①       (注:長谷川テルの短歌を一部紹介する)
                      (注:仮名遣いをわかりやすく書き改めた)
 

    (晩春初夏誦(うたう))    

 

 髪あまた 櫛にまつわる 朝なあさな 粛々として 母をしおもう

 うすら陽の 窓近くいて たわぶれに 睫(まつ)毛の先を 切りてみしかな

 はたと閉じし その瞳かも 夜となれど 君が部屋には 灯もまたたかず

 灯(ともし)あまた またたく中に しんとして 暗く冷たき 一つ部屋ぞも

 蒼茫(そうぼう)と 暮るる野中の 一つ径(みち) うたい歩きし 人いまはなし

 ほそぼそと 今日も小雨の 降りしきる 薮蔭(やぶかげ)に紅き 落椿かも   

 送られて 行くは誰ぞも 佇(たたず)みし まがきがもとに 紅椿一つ

 春逝くや 大和み寺の 夕まぐれ かたりことりと 段(きだ)を下(お)りくも

 若葉香る 夕べしまうや 紫の 袂(たもと)にあせし 桜葩(はなびら)

 陽うらうら 木の葉微風に ささめきぬ 草にまろべば 青き感触

 花もなき 瓶(びん)の冷たさ 灰色の 壁に吸われて ゆく吐息かも

 赤松の 木肌を照らす 夕陽影 かさこそと紙食う 鹿一つあり

 燃えもえし 陽もいつしか隠(かく)ろいて 薄紫に 山たそがるる
 

    <短  歌>  ②


 しめ土を しめしめに踏む 山の旅さ 霧の中ゆ 杉の葉匂う

 蒼(あお)ぐろき 杉の葉色に こむる霧 そぬちに消ゆる うねり道かも

 霧小雨 そぼ濡れにつつ 山坂を たどれば和む この心かも

 菩提樹の 数珠など求め 小夜更(さよふけ)に つまぐりみつつ 微笑める人

 一夜濡れて 緑葉は美しき 山の朝 読経ききつつ 外の雨見やりぬ

 これがかの 昨日(さよ)の山路か 真日の下に さらし出されし 赭土(あかつち)の肌 

 切開きし 赭土(あかつち)山の 肌荒ぶ 高野の道に 憂き旅疲れ

 冷(さむ)ざむと 石より云(つた)う 海の夜 島浪にまぎるる 旅の歌かな

 どどどっと 大波立ちね あまりにも 静けき海は 狂おしきもの

 若葉若葉 光りかがよう 丘の上に 故(ふる)夢むなし 城ただに立つ

 紀のくにの 緑の旅や 古城の おぼしまにいて 浮雲を見つ

 紀のくにの 五月半ばの 旅の夕 春夫の詩など くちずさみけり 


 

        (以下今回)

 長谷川テルは短歌も詠ったが小説も書いた。その中で「エスペラント(世界語)」で書かれたものがある。そのうちの一つをご紹介したい。


 

  (エスペラント(世界語)で書かれた小説)  ①

 

      「六ヵ月」  

        1

 正午のサイレンが鳴る。ざわめきが起こる。みんな待っていたように分厚い帳簿を閉じ、おしゃべりをしながら廊下を走る。
 そんな空気の中で、永井はまだ実直に自分の仕事ー記帳をつづけていた。彼がこれで最後と思ってペンをインクつぼにつっこんだとき、小使が近よってきた。
  ーー課長がお呼びです。すぐおいでください。
 永井は周囲の同情の眼が自分に注がれるのを感じた。課長が彼のような下っぱを呼びつけるときはロクなことがないのを、みんな知っているのだ。永井は乱視のめがねのほこりをぬぐい、水っぱなをふき、力なく立ち上がった。
 どんなことだろうか。きつい小言か、それとも罰か。しかし、思い当たるったくない・・・。うなだれたまま、彼は課長室にはいった。課長はひとりだった。
  ーーやあ、どうも。
 課長は型通りのいんぎんさで彼を迎えいれ、あごでそばのいすをさした。
  ーーそこへしわりたまえ。
 ためらいがちに、すぐにも出て行きたい、という感じで永井はそこに腰かけた。じぶんより年輩の部下をじっと見つめながら、課長はゆっくりと口を開いた。
  ーー君にきてもらったのはほかでもない・・・
 数分がすぎた。その間に課長はながながと尊大なことばをつらねたが、永井の頭の中ではただ一つのことばだけが、荒あらしくたぎってかけまわっていた。ー「解雇」
 しっかりしろ、日本男児じゃないか。彼はやっとのことで自分にいい聞かせ、ひざの上の手を組みなおした。が、その手は奇妙にうちふるえ、いまにもはりさけそうな心臓の鼓動が、はっきりと聞こえるのだった。
 ーー君は五十三歳で。仕事をするには、もうかなりの年齢だね。ーー課長の話は続いていた。ーーそれにもう三十五年もこの教育部で働いている。まれなことだよ。まわりを見てみるがいい。君と同期の人たちはもう一人もいないだろう。僕だって、君にくらべたら青二才同然だ、ハハハ。もうそろそろ、きみの番なんだよ。僕としても、たいへん残念に思うけれどもね。
  ーーでも、課長・・・・。
 永井は小さな声でいった。
 ーー私の家族のことも考えていただけませんか。子供たちが・・・。
 ーー子供たち?
 課長はいぶかしげな顔をした。
 ーー君のところは息子さん一人だけと聞いているが、十歳の。
 ーーええ、い、いいえ、課長・・・もう一人、娘がいます。昨年の夏に生まれました。
 ーーどうしてそのときいわなかったんだね?そういうときは多少のお祝いが出ること、知っているだろう。
 ーー知っています。でも、孫みたいな娘ができたのがはずかしくて。 
 ーーそんなことはない。"いつも元気いっぱい"が われわれ男のモットーだよ。
 課長は意味ありげに笑い、永井はいっそうみじめに赤面した。
 ーーさて、話題をもどそう。君は実直な人だから、子供さんたちのためにもう十分貯えたことと思う。給料はまああまり高くはないが。それに郷里には田畑も持ってるそうじゃないか。君はつまり「不在地主」というわけだ。ワッハッハ。
 ーーそんな、困ります、課長。ーー永井はへどもど。ーー私はそんなに貯えてはいません。田畑といったって申し訳程度のものですし、このごろじゃ、小作人たちもいっこうに小作料を払ってはくれません。
  ーーそれは僕には関係のないことだ。
 課長はわざとらしくあくびをし、意地悪くいってのけた。
 ーー僕は個人的な話をしているんじゃない。君は国家の命令に従わなくちゃならん。なぜなら君は・・・。
 彼は一瞬ちゅうちょし、タバコに火をつけ、紫煙の輪をはき出した。
 ーーそう、官吏だからね。
 課長は金製の懐中時計をとり出すと、さも驚いたようにいった。
 ーーや、もう半時間以上もたったか。もうケリをつけよう。僕はまだ用事があるんでね。とにかく、君がここにいるのは二十一日までだ。その間に、山田君があとで困らないように引継ぎをしたまえ。二十一日は正午に、いつもとは違うぞ、正午に会計に行って今月分の給料と退職金を受け取るんだ。あとは自由にしていい。じゃ、元気でな。
 どうしょうもなく、永井は立ちあがり、ていねいに頭をさげると、「ありがとうございました」と口の中でつぶやくようにいった。そして涙をこらえながら、いつか中学で習ったように、「神様や人様を恨んではいけない」と自分にいいきかせた。
 その日ーー
 六百円ばかりの金と、金の縁取りをした二枚の紙と。一枚は永井の勤続に対して、もう一枚は退職に対してーー解雇ではなかった。余計な出費をおさえるため、彼が「一身上の都合により」退職を申出たことになっていた。
 文句の持って行きどころはない。国の命令は絶対なのだ。
 その夜ーー
 場末の飲み屋に彼の黒い影があった。飲めば飲むほど気分はしらけ、憂愁がつのった。早春の風が冷たかった。



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