碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (37)

2016年10月12日 15時21分58秒 | Weblog

      ebatopeko


 

       明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (37)


 

 今や忘れ られつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。 

          

 

    ( 杉谷代水の生涯 )   東京に於ける代水     

                                  松  下  政  蔵


 『杉谷代水選集』が故人の死後20年を経て出るようになった経緯は、故人の愛弟子で、県立鳥取女学校教諭であった松下政蔵教諭の年来の念願の達せられたものであった。

 その彼、松下政蔵氏が杉谷代水の生涯を、郷里でつぶさに見てきた杉谷代水の生涯を、この『杉谷代水選集』で記している。

 これが杉谷代水の生涯をもっとも身近に接し、かつ詳しく記した伝記と思われるものであると思われるので、次に記したい。

  この文も難しい言葉を使っておられるので、( )に読みと意味を記した。


   (前回まで)

  彼は明治七年(1874)秋八月、伯耆の国の北西端、境(さかえ)港に生まれ、虎蔵と名づけられた。父は源八、母はとしと言ったが、2歳のとき松江に移住し、9歳のとき鳥取の片原町に移つり、ささやかな飲食店を営んだ。

  虎蔵は幼時虚弱であったが、両親の寵愛を一身にあつめた。小学校も優等の成績を占め、性質は極めて温順で女のようだといわれた。

 高等小学校((注:当時の義務教育は4年で、その後4年の高等小学校があった。略して「高小」という。高等小学校は授業料を徴収していた)ではますます学業、図抜けており、家事のひまひまには、読書に耽(ふけ)った。また好んで自ら凧を作ってこれを揚げ、又附近の子供を集めて自ら舞台監督をし、芝居遊びを楽しんだ。

   両親に対する孝心は地方の模範児といわれた。父は提灯をつくり、節供のぼりや凧の絵柄を描いたりした。

 彼は学業優秀で、4年間の義務尋常小学校を終え、さらに授業料の必要な4年間の高等小学校も彼虎蔵は、特待生として授業料を免除された。

  14歳で成績優秀の彼は、当時鳥取県で唯一の「鳥取中学」に入学した。
 
 趣味も豊かで、生花・謡曲・詩吟・剣舞・端唄・明笛など、さまざまに通じていた。
 

 また体格も大きい方で、角力(すもう)に強く、年長者にも勝ちを譲らず、銃剣も極めて得意であった。

 すべて凝り性で、読書研究はもとより、些々(ささ)たる遊戯にも研究的で綿密な注意を払った。

 学科では最も数学、理科方面が得意であった。明治二十五年(1832)の七月、十九歳で鳥取中学校を抜群の成績で卒業した。

 そして学校の推薦で第三高等中学校(のちの第三高等学校、注:旧制の三高で、現在の京都大学総合学部と岡山大学医学部にあたる)理科に入学の運びになっていたが、学資の見込みがつかなかったので断念した。

 然し虎蔵は専門学校進学の志やみがたく、上京の希望を両親にもらしたが許されなかった。

 小学校につとめたのも家計の援助の考えがあったからであろう。

  虎蔵は、小学校在任三年目の明治二十八年(1895)八月三十一日に、小学校の解職を願い両親を説き伏せ、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)に入学すべく上京した。


 

 (東京に於ける代水)

 虎蔵は東京専門学校文学部に入学、のち熱心なる勉学周密なる研究の態度は、強く坪内逍遙博士)の知る所となり博士の信任を得た。

 此の頃も学資は乏しかったので彼は或る期間、早稲田中学の寄宿舎舎監を勤めたこともあった。

 
 かくして在学中常に学業成績に頭角を現してゐたが、病気を得て中途退学の止むなきに至り、病を養うために須磨寺に遊んだ。

 病ようやく癒えて明治三十一年(1898)九月、坪内博士の推薦により、冨山房編輯部に入り、坂本嘉治馬社長)の信頼をうけ、専心編輯事務を執り、傍ら、新体詩、和歌、俳句等の創作や翻訳に誠心した。
                                        
  明治三十年(1897)、坪内博士は尋常小学校および高等小学校の国語読本編輯に着手せられ、三十三年(1900)に完成されたが、材料の配列、挿図(そうず、挿絵)の工夫、口語文の採用等に苦心せられた。

 これに博士を助け大きな役割を果たしたのが、他ならぬ杉谷虎蔵であった。杉谷虎蔵が博士の意を受けて其のプランを立て、教材を起稿したのであった。


 また、代水は多くのオペラも書いたが、これらは当時各女学校の学芸会等に歓迎せられたが、現に「胡蝶」の如きは盛んに行われた。


  (以下今回)

 代水は常に居を逗子に占め、午前読書や執筆、午後は病を養いながら、文藝界に働いたが、逗子における養生は花卉(かき、観賞用の美しい花)の栽培と自製の凧揚げ(注:その凧の絵は自ら描いた)の運動と海岸の散歩であった。

 かくして月に一回は出京して執筆した。

 「新體(たい)詩人」としての名は、当時帝大派、文庫派、文学界派に対して詩人少なき早稲田派の一人として、繁野天来(注:1924創刊の『早稲田文学』で活躍した文学者)、星野天知(注:1926年創刊の『文学界』で活躍した文学者)とともに知られていた。

 『夕潮』、『行雲歌』、『海賊』などはその作品であり、「新體(たい)詩の将来を論ず」はその主張で、当時としては大きく認められていた。

 代水の代表作は、明治四十年(1907)(彼は三十六歳であった)の雑誌『早稲田文学』に発表の脚本「大極殿(だいごくでん)」である。同年文藝協会試演として、東京本郷座(文藝協会の上演年表によれば歌舞伎座)で土肥春曙、東儀鉄笛、水口薇陽、大鳥居古城、久保田金僊等により上演され喝采を博した作である。

 その他、「政敵」は安政五年(1858)八月の井伊直弼暗殺を取り扱った髷(まげ)もの、「大号令」は彰義隊事件を取材したもので、ともに当代としては稀に見る傾向のもので一般には進み過ぎて大衆受けのしなかったものだという。

 また、同年に教育脚本「功と罪」とを、通俗教育会のために執筆し、また雑誌「新日本」に脚本「棟木」を書いているが、これは三十三間堂棟木の伝説を取り扱った作品である。

 また、狂言の新作に筆を染め、「衣大名」(三十九年)、「つぼさか」(四十一年)、「堪忍争ひ」(同年)等を矢つぎ早に出し、この方面の研究をほのめかした。

 殊に「衣大名」は明治三十九年二月十七日の文藝協会第一回上演に、土肥等に演ぜられた。また、お伽史譚(おとぎしたん)数種を著し、多方面の趣味を発表した。

 かく多方面の作品を世に問うと同時に、その「新體(たい)詩」は逆転して、唱歌の多作となった。

 明治四十二、三年頃の彼は全く唱歌作者といってもよい程、多くかつ佳作を出し世に行われた(注:明治四十三年(1910)の『星の界(ほしのよ)』がもっとも有名で、文部省唱歌として、一歳年上の同じ鳥取出身の田村虎蔵→東京音楽学校の教授等とともに受け入れられた)。 田村の弟子に「堀内敬三」がいる。

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