仮設店舗に「絆診療所」 元病院長、きょう開設 南相馬
福島第1原発事故で休診中の福島県南相馬市立小高病院(小高区)の院長だった遠藤清次さん(55)が1日、同市鹿島区寺内の仮設店舗に「絆診療所」を開設する。
東日本大震災の被災地で、350を超す仮設店舗に診療所が開設されるのは初めてという。
近くの仮設住宅にはかつての患者が暮らしており、往診を通じて住民を見守る。
診療所の広さは約100平方メートル。
中小企業基盤整備機構(東京)が整備した仮設店舗「かしまの希望」に入る。
住民の被ばくの影響を考慮し、将来的に甲状腺検査に対応できる超音波エコーを備えた。
遠藤さんのほか、6人の看護師らでスタートする。
原発事故で小高区は警戒区域に指定されて休院に追い込まれ、遠藤さんは会津地方の医療機関に移った。
鹿島区に避難した小高区の患者から「戻って来てほしい」と要請を受け、診療所開設に心が傾いた。
医師不足を解消したい地元の鹿島商工会のサポートもあって開設にこぎ着けた。
原発事故が起きた際は混乱の中、68人の入院患者を福島県外の医療機関に移送した。
物流が途絶え、物資も人も来なくなり、病院に残るかどうかも本人の意思に任された。
「残ったスタッフは誰もが死を意識した」という。
そうした過程で感じたのは、絆の大切さだったという。同僚職員と共に極限状態を乗り切った連帯感があった。
自分を必要として呼び寄せてくれた小高区の住民にも感謝している。
絆診療所という名には「自分の役割を与えられた。震災前からある絆と震災後にできた絆。
それを大事にしたい」との思いを込めた。
遠藤さんは「ここでは住民の話を聞くのも大切な仕事。
往診も行い、そばで見守り続けたい」と意気込む。
(2012年05月01日火曜日河北新報)

住民の健康と安心を支えるのは医療、そして医師が大切な役割を担う。サポートする看護師などスタッフも大切だ。
何処の地域にも必要なはずなのに、すっかり忘れてしまっているのではないか?
南相馬鹿島地区寺内の「絆診療所」の開設は、とても勇気を与える取り組みである。医師の遠藤さんの決意やスタッフの皆さんの意気込むが伝わってくるようだ
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原点ともいうべきもの、大震災の体験で学んだこと・・これを地域のために活かさなければならない。
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岸(西)4勝、大隣(ソ)4勝、杉内(巨)5勝
被災地の現状はいっこうに改善されていない

実現することになり嬉しい。久々に良い話題だ。
水道管凍結の問題、結露の問題、暖房設備の問題、断熱材等の問題・・・・丸1年間、四季を経験して、その都度、解決のために誠意ある対応をすべきだ。
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本年に入り「生活支援相談員」との連携もうまくいくようになった。
むしろ、民生委員1人でやれる仕事ではないと思い、協力・連携を求めた。
当地区でも高齢化が刻々とすすみ、上記記事「被災者の生活相談や孤立化を防ぐ見回りなど民生委員活動の重要性は高まる」・・・がプレッシャーとなる。
「地域の暮らしを良くしていくために!」
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へ。明日は
へ?

・・・・。
岩手県は「療養所」もないために、県民の関心も希薄です。その中でモチベーションを維持するのも大変。「無責任な態度になってもいけない」と自己嫌悪、マイナス思考になります。残念
叶さんの言う「願い」は身近に共通するものがある。私たちが住む足元の社会や地域をより良くしていく活動が必要だ。
昨夕から突然、上下唇が腫れフグのような顔に・・・悲しいです。
「経過を観察しましょう
」徐々に回復へ向かっていることは確か
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国・政府は障がい者施策について、どんな態度・姿勢で望むのか。その理念・お考えも聞きたいものである。
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皆様もお大事に!
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30年前、西ヶ丘団地ができた頃はスーパーや魚屋、薬局、食堂もあり活気があったが、今では小さな食堂だけだ。
津波の心配なし。
雨の予報も
当初は、宿泊場所がなくて市外、県外のボランティアはお断りしていたし、土日に限定する、ガレキ処理などの力仕事が中心・・・真に、勝手な判断が横行していた印象であった
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被災にあっていない学校や公共設備を開放して、全国各地から来るボランティアの受入ができなかったのか!ガレキ撤去や力仕事などを全国から来られた人々と交流しながらできなかったのか!
宮古市ではボランティア組織の立ち上げが早かっただけに、初動の対応には疑問が残るとこである。
早急な解決策の提示を求めたい。
三陸鉄道・島越駅の惨状は見るに忍びない。島越地区や机浜は壊滅的だ
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・大切だ
竜巻被害も怖い

唐川(ロ)5勝、摂津(ソ)5勝

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要は、自分に必要な情報だけを見聞き、収集したいのだと思うと、しっかりと受け止める側の姿勢が重要になる。
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地方の復興に関することは地方の議会や首長、市民の総意で決めて実行していく。その形が見える、この実感がなければ不信感は払拭されない。









