テニスプレイヤーの日記

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城巡り 近江 金ヶ森城跡

2017年05月14日 | Weblog
城巡りは、滋賀県守山市の金ヶ森城跡へに行きました。
カーナビの目的地は、善立寺<ゼンリュウジ>です。

金森といえば、福井県にゆかりのある人物、そうです。越前大野城の城主金森長近です。この金森長近の住んでいたのがこの地だとか。狭い道を入っていくと住宅地の中に、お寺や堀跡の水路がありました。
案内板がありました。






歴史的には、インターネットから引用するとhttp://www.geocities.jp/yamajirooumi/2520703.html

金森には、鎌倉時代に在地土豪の川那辺氏が居館・金森城(砦)を構えていたが、室町時代に入ると川那辺厚春が本願寺第五世綽如に帰依し、天台宗から浄土真宗に信仰を変え、その子在貞が永享3年(1431)金森城の跡に「金森惣道場」を構築するに至った。さらにその子矩厚(1399~1488)は第七世存如(1396~1457)に帰依し、道西と名乗るようになり、この頃に金森惣道場を中心として周囲の民家を含め惣村全体を堀と土塁で囲い込み要塞化したと考えられている。
道西は、寛正6年(1465)比叡山の僧兵による「寛正の法難」によって京都の大谷本願寺を取り壊された第八世蓮如上人を金森に迎え、蓮如上人は金森に寄住し3年をこの地で過ごし、湖南各地への布教に務めている。
しかし、翌寛正7年正月には金森も山徒日浄坊の襲撃を受け、蓮如上人は赤野井坊に難を避け、「金森の城衆」は赤野井の慶乗等が将となり応戦(第一次金森合戦)したが、赤野井坊や堅田への山徒押防は止まなかった。こうした中で蓮如上人は文明3年(1471)道西らを伴って北陸・吉崎へと移っていた。その後、東山道と志那港を結ぶ交通の要衝に位置する金森は、寺内町へと発展していった。
永禄11年(1568)江南が織田信長の手に落ちた後、元亀元年(1570)5月綣村から農民一揆が蜂起するが、信長は稲葉一鉄を守山に、同貞通を勝部に、佐久間信盛を浮気に置き、守山城に押し寄せた一揆勢は死者一千二百余人を出し崩れ、6月には一揆勢は六角軍とともに野洲川の戦いで佐久間信盛と激突するも780人の死者を出し敗退した。
また、6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺第十一顕如は三好三人衆、浅井・朝倉氏と手を結び、各地の一向宗門徒に檄を飛ばして織田信長に宣戦布告し、石山本願寺(大坂)を拠点に10年におよぶ石山合戦が始まった。これに呼応して、元亀2年(1571)8月末大坂側から派遣された川那辺藤左衛門秀政の指揮のもと金森惣道場は三宅城と共に蜂起し佐久間信盛と対決するが、8日間の攻防の末に人質を交換し和睦した。
しかし、翌元亀3年(1572)3月に信長は江南の一向宗徒が金森・三宅両城と内通しない旨の起請文を出させて、7月再び金森、三宅などを攻めこれを落城(第二次金森合戦)させた。9月には朱印を持って金森に「定 條々」を発し、楽市楽座を開き、諸役を免除し、一揆の拠点金森寺内町の解体を図るとともに商業都市金森を新興した。
なお、織田、豊臣、徳川に仕え、豊臣秀吉から飛騨一国を与えられた「金森長近」は、美濃土岐氏の支流で、父の大畑定近が金森に居住したことから青年期をここで過ごし、ここの地名から金森姓を名乗ったと云われる。
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