テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

福井県こしひかりH28産新米

2016年09月19日 | Weblog
福井県のコメ、こしひかりの新米 玄米30キロを、もらって帰りました。
もともと「こしひかり」は、福井県で出来たお米とか、玄米のままなので、精米しないと
いけませんが、10月のお祭りには、精米していただきます。

////////////////////http://www.fukuimai.com/sub65.htm//////
昭和19年(1944年) 新潟県農業試験場(当時、農事試験場)の高橋浩之技師により、晩生の「農林22号」を母に、早生の「農林1号」を父に人工交配される。
しかし、初代のコシヒカリは、背丈が高く倒れやすく、いもち病に弱いと言う大きな欠点があり、当時、戦後の米不足時であったため、あまり脚光を浴びなかった。

昭和23年(1948年) F3(雑種第3代)が誕生。一部が福井県農業試験場に渡る。
当時の、福井県農業試験場(当時農事試験場)は、発足したばかりで、育種材料が乏しく、当時の所長が親交のあった、新潟農業試験場(当時、農事試験場)の所長から、新潟で交配された材料を譲り受けた。ただし、この時代、各農事試験場では、多収と耐病の品種育成で、熾烈な開発合戦が行われ、当時、新潟で脚光を浴びなかったこの稲は、「くれてやる」と言った感じで、福井に渡って来た。これは、当時の、農林水産省幹部の発言でも「捨てるようなものがあったら、福井にやってくれ。」と言う発言からもわかる。
しかし、この中に、コシヒカリの先祖となる、F3(雑種第3代)が含まれていた。この、F3(雑種第3代)は、当時20粒しかなかったと言う。そして、ここで、コシヒカリの開発の中心的な役割を果たす、石墨慶一郎氏と出会う。
また、この年の6月には、福井地震が発生し、福井市は壊滅的打撃を受けたが、強湿田で育成されておったため、枯れなかったなど、コシヒカリの強運に関するエピソードは多い。
この頃、コシヒカリは「越南17号」と呼ばれていたが、倒れやすく、いもち病に弱い点で、お蔵入り寸前であったが、食味の良さと、熟色の良さにひかれ、細々と育苗されていた。ただ、コシヒカリを最終的に品種固定したのは、石墨慶一郎率いる、福井県農業試験場(当時、農事試験場)とされてる。

昭和28年(1953年) 系統名「越南17号」として、新潟はじめいくつかの県で適応性試験が行われる。しかし、倒伏といもち病に弱い点で、評判は今一つだった。育成した、福井県においても、奨励品種にならないほどであった。
この、越南17号であるが、長岡農業試験場の杉谷文之技師の、「越南17号の欠点は、栽培工夫によって克服される」と言う英断と、青年農業家の小林正利などにより、栽培工夫がなされた。
昭和30年(1955年) 越南17号が新潟県、千葉県の奨励品種となる。
昭和31年(1956年) 育成県である福井県農業試験場は、新潟県の奨励品種採用の通知を受け、農水省に対して農林登録の申請輪を行い、農林100号として、農林ナンバー登録される。当時、農水省の所轄の試験地で育った品種が県の奨励品種となると、農林登録されるかどうかの審査にかけられることになっていましたが、当時の農水省では、倒伏などによる収量の低さが問題となり、農林登録に反対する意見も出されたが、新潟県が採用をためらっていた千葉県を誘い出し、2つの県の採用で農林省の責任も軽くなりようやく日の目を見たと言う裏話も存在する。
農林登録されると、カタカナ5文字以内の日本語の品種名を付ける事になっておりましたが、コシヒカリは福井県で育成されたが、拾ってくれたのは新潟県である事から、感謝の意をこめ、新潟農業試験場に命名をお願い、越前と越後の共通の越から「越の国に光輝く」こめであってほしいと言う願いを込め、「コシヒカリ」命名された。
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