いいね~おいしいね~

自腹で買ったり食べたものなど実体験に基づき厳選紹介!ぜひ参考にして頂き、より良い人生や日本経済等活性化につながれば幸い♪

富士見屋(東京 築地場内)の蕎麦はとてもオススメ!

2016年07月24日 01時00分00秒 | 外食
東京の築地場内で唯一の蕎麦屋で10号館にある富士見屋へ早朝7時ごろに行って来ました!


↑富士見屋

生蕎麦と書いてあるのでおそらくそば粉100%の蕎麦だと思います♪
この店はさすがに外国人の観光客はいないようです^_^;)
せっかく築地に来るなら寿司か海鮮丼を食べたいですからね・・・・。

空いているカウンター席に座り、さっそくメニューを見ます♪


↑メニュー


↑メニュー

お得なセットメニューがあるのでそれから選ぶことにします♪
そのメニューから目につくのは「ホタテ丼セット」1130円!
ホタテ丼とは珍しい!
さすが築地ですね!
普通の蕎麦屋であれば「カツ丼セット」ですが、さすが魚河岸築地ならではの「ホタテ丼」ですね♪
ここは迷わず「ホタテ丼セット」を注文します^_^)
もう夏で暑いので「もりそば」で注文しますが、何とサービスで海苔を付けてくれるとのこと♪
「ざるそば」ですね♪

テーブルに置かれているスポーツ新聞を斜め読みしていると、しばらくして「ホタテ丼セット」が運ばれました♪


↑ホタテ丼セット

おぉぉ蕎麦は透明感があり、そしてホタテ丼も美しい♪
蕎麦は表面がツルツルで、もちろんひんやりしていて、コシがあり美味しい!
さすが生蕎麦!

そしてホタテ丼も確かに厚く柔らかいホタテが入っていて、そして出汁がよく効いていて、卵も柔らかくて美味しい♪
美味しくてついつい食が進みますね♪
冷ややっこがあるのも嬉しい♪

築地場内で唯一の蕎麦屋である富士見屋は、上質な蕎麦や築地ならではのホタテ丼を堪能できとてもオススメですね!


美味しかったものまとめ(2016年上半期)

<今日の独り言>
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ふぢの(東京 築地場内)の中華はオススメ!

2016年07月23日 01時00分00秒 | 外食
東京の築地場内の1号館にある「ふぢの」へ行ってきました!
私のような一般客が魚市場である築地へせっかく来たのに、魚以外を食べるのは勇気が必要ですが、思い切って入ってみました♪
さすがにこのお店は観光客は少ないようです^_^;)


↑店構え


↑メニュー

7月に入り、蒸し暑くなってきたので、ここは「特製冷し中華」850円を注文しました♪


↑特製冷し中華

さっそく冷し中華が運ばれますが、おぉぉ何だか美しい♪
麺はしっかりとコシがあり、スープはひんやりしていて、酢が甘く美味しい♪
想像以上に美味しくて、朝から食が進みます♪
きゅうりやもやし、卵焼きもいい感じです♪

想像以上に「ふぢの」の特製冷し中華は美味しくてオススメです♪

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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「小説家という職業(森博嗣)」という本はとてもオススメ!

2016年07月22日 01時00分00秒 | 
「小説家という職業」の購入はコチラ

 「小説家という職業」という本は、著者が小説家となった経緯や、小説家になるにはどうすれば良いのか、小説家として続けるための心構えや姿勢、小説執筆のポイント、出版界の問題等について自らの体験を踏まえて分かりやすく正直に書かれたものです♪

 「小説家になりたいのだったら、小説など読むな」というのには驚きましたが、人の作品を研究したところで生まれる作品など、たかが知れるようです。
 オリジナリティのあるものを生み出すことが最重要のようです。

これは、他のいろんな世界でも共通ですね♪

 そのため小説を楽しく書こうと思うのではなく、金儲けのために小説を書くという決意が重要なようです。

 そして、どうすれば良いかと考える暇があったら、とにかく小説を書くこと、これに尽きるようです。

 著者は、初めにトータル20時間ほどで原稿用紙300枚程度の小説を書き上げ、出版社に応募し、そしてその結果を待つまでにも次々と小説を書き、半年後には4作目から小説家としてデビューし、最初の1年で3冊の本が出版され、その年の印税は当時の本業(国立大学勤務)の給料の倍にもなり、それで驚いていたら翌年には4倍になり、3年後には8倍、4年後には16倍となったようです♪

 売れる作家というのはすごいですね♪

 そのためにも作家を続けることが大切で、ビジョンを持って長い目を持つことが重要なようです。

 「小説家という職業」という本は、そのほか小説家や出版社の世界もよく分かり、とてもオススメです!

 なお、以前このブログで紹介した同じ著者の続編?の「作家の収支」という本も小説家の具体的な収支が分かりとてもオススメです!

以下は本書のポイント等です。

・最低限守らなければならないことがある。それは、「意味が通じる」ということ。あなたが書いたものを読んでくれる人に、あなたが書きたかったものが理解されること。これこそが、文章の最も重要な機能である。もちろん、100%伝わるということはありえない。個人の能力的なこともあるし、また知識や価値観の差もある。それでも、書かれている文章の示すところがまったく伝わらないのでは話にならない。また、読むに耐えないといった悪文も問題がある(これは実は微妙だ。というのも、意図した悪文には、それなりの効果が認められる)。言葉が通じるということは、人間関係においても重要なファクタであって、信頼は、すなわちこのコミュニケーションの確かさから築かれる。作家と読者の間のコミュニケーションも、まずは「通じる」レベルから始まり、しだいにもっと深いもの、もっと多様なもの、というレベルへ至る。読み手は、自分がなにかを感じることができると、それをもたらした作り手に信頼感を抱く。通じない、あるいは通じにくい作品でも、何度か繰り返し読んでもらえれば、いずれは通じるようになるかもしれない。しかし、世の中にはいくらでも作品が存在するわけで、わざわざ通じにくいものを続けて読んでくれる人は少ないだろう。当たり前のことを書いているようだが、このポイントは実にクリティカルである。なにしろ、「小説家になりたくてもなれない」という人の大半は、この部分をクリアしていない。もっと具体的にいえば、自分だけが読める作品を書いている。それでは暗号文を作っているようなものだ。

・デビューをして、そのあと作家専業で一生食べていける、という人が割合として非常に少ないのは事実なのだ。それどころか、編集者たちが話すところでは、10年以上続けられる人が、既にほんの一握りだという。これを聞いたとき、僕は「一握りって、具体的にどれくらい?」と尋ねた。すると「10人に1人くらい」という答えが返ってきた。もちろん、統計データが示されたわけではなく、編集者たちの「感覚」なのだとは思う。だから、「作家であり続けることは難しい」という表現にもなるわけである。

・作家が続かない理由を考えてみよう。一般的なものとしては、ほぼ3つではないかと想像する。まず、デビュー作に全力を注いだために、後続の作品がそれを超えられなかった、という理由である。最初の作品というのは、それ以前の人生の長い時間において蓄積されたものすべてがネタにできるため、情報量が豊富であるし、また作家になりたい時間が長かった場合には、それだけ熟成期間も長くなる。練りに練った作品になった下地がある。よく聞かれるものに、「誰でも1作は小説が書ける」という格言(?)がある。創造をしなくても、自分自身の経験を記録すれば、それが物語になる、という意味もあるだろう。だが、2作目となると、処女作で出し切ったあと、まったくゼロの状態から書かなくてはならない。

・2つ目の理由とは、「読者の慣れ」によるものである。読者も、1作目は初体験の作家なので、そこには必ず何かしらの新しさが発見できる。また、どんなものを書く人なのかわからない、予備知識のない白紙の状況は、まさに「無心」の境地と同じ。この理想的な読書体験をするわけだから、作品が気に入ったときの感動の度合いは増幅される。2作目になると、もう好きなことはわかっている作家になるので、もっと面白いものを、という期待が自然に生まれる。そこそこ同じ程度のものならば、インパクトに欠けるものの、「やはり思った通りの面白さ」と好意的に見てくれるかもしれないが、それでも、「1作目よりは落ちる」という評価を受けるだろう。まして、1作目よりも冴えない作品であれば、がっかりされることは間違いない。その2作目を最初に読んでいれば「面白い!」と叫んだかもしれない読者であっても、である。人間は飽きる動物だ。

・3つ目の理由は、僕自身は感じたことがないもので、これは何人かの人を観察して見出したことだ。特にそれは、「作家になりたい」という強い動機によって突き動かされた結果、運良くデビューした人に見られる傾向である。簡単にいえば、「作家になりたい」一心で努力をしてきた、まさにどの動機が、作家になったことで失われる。つまり、作家になること、自分が書いた作品が出版されることがゴールだったわけで、処女作が本になった時点でゴールインしてしまうため、その後の動機が見つけられなくなる、という症状らしい。これに似たことは、「結婚」でもあるようだ。結婚にあまり憧れていると、結婚したことでゴールインしてしまい、そのあと生き甲斐を失ってしまう。そのゴールだけを思い描いていたため、その先のことがビジョンとして頭になかった、あるいはその思い(もっと正確にいえば計画、予定、方針)に欠けていたということである。作家になるというイメージは、「自著が書店に並ぶ」「他人が自分の作品を読んでくれる」「印税がもらえる」「ファンレターが届く」など、いろいろあるだろう。これらは、最初の一冊が出るとすぐに実現することばかりである。案外、作家志望の人というのは、「書きたいものがたくさんあって仕方がない」というよりは、前記のようなあこがれの未来像を抱いている場合が多い。「とにかく書きたい衝動が抑えられない」というような人間ならば、本が出ようが、ファンレターが来ようが、無関係なはずだ。どんどん次の作品を書き続けるだろう。書いていれば、しばらくは必ず本になる。書いていれば、スランプに襲われることもない。一方、「作品を書きたい」よりも「作家になりたい」という思いが強い人は、作家になったあと、創作の原動力が弱まることは確実である。このタイプの作家志望の人は、「生涯に100作は発表したい」とか、「ベストセラー作家となって1億部は出版したい」とか、そこまでいかなくても、「最低でも20年間は作家活動を続けたい」というようなデビュー後の未来像を持っていない。デビューしたすぐあとのイメージは頭にあっても、作家生活数十年後の未来までは考えていない(これも結婚志望の人が、結婚して数十年後の生活を夢見ないのと同じだ)。無理もない。作家も結婚生活も、未然の立場からは、最初の関門が目前に立ちはだかり、どう見てもそこが最も難しそうだからである。その難関さえ切り抜ければ、あとはどうにだってなるだろう、という楽観が生じるのも人情といえる。しかし、ここで僕が述べたいのは、「人間というのは、自分が望んでいる以上のものには絶対にならない」ということである。「デビューができればそれで充分だ」と考えている人は、デビューして消えていくだろう。「○○賞作家になってやる」と思わない人は、そのとおり○○賞作家にはならない。芸術であれ、ビジネスであれ、この法則は適用できる。なぜなら、人間の行為というのは、自分の価値観と周囲の要求のせめぎ合いに常にさらされ、こうしたときの一つ一つの細かい判断によって道筋が少しずつ決まっていくからだ。本人が望まない方向へは、けっして進まない。「当たるかもしれない」と期待している人にだけ、くじは当たる。「当たる」ことが頭になければ、くじを引く機会さえ見過ごすからである。以上のような3つの理由に気をつけていれば、作家を持続することができるだろう。つまりは、早い段階からそれらを意識しておくことが重要だと思われる。

・まずはその作家がどんな本を出しているのか、という情報を整理したホームページが必要だろう。本の巻末や見返しなどにリストが載っていることはあるけれど、それは同一出版社内のラインナップでしかない。読者は「その作家の本」について知りたいのに、出版社側はそういった情報を提供していなかった。さらに、過去の情報だけではなく、僕は先々の予定についても公表すべきだと考えた。いつどんな本が出るのか、1年くらい先までは予告をした方が読者の期待も高まるだろう。その予定に従って遅れることなく本が発行されることが、ビジネスとして最低限必要な姿勢ではないか、とも思えた。それが、信頼というものだ。こんな当たり前のことが、出版界では実現されていなかったのである(現在もあまり変わっていない)。

・僕は「近況報告」なるものを自分のホームページで公開することにした。デビューして半年後(1996年夏頃)だった。そして、最初からその「日記」を本にして出版するつもりで書いた。当時、ネットで無料で見られるコンテンツをわざわざ印刷するという発想はなかった(あるいは無謀だと認識されていた)けれど、その後、僕はこの形式で、日記を18冊、日記以外でも10冊以上出版した。今では日記h(入力方式の簡素化によって)「ブログ」と呼ばれるようになり、ブログ本もごく一般的な存在となった。そのほか、僕はファンからのメールにはすべてリプライすることにしていた。郵便で届いたファンレターには一切返事を書かないことに決めて、そのかわりにネットで応答をする、と公表したのだ。全リプライは、読者にはかなりの驚異だったと思うし、出版界でも「よくやりますね」と呆れられた。けれど、小説家というビジネスを考えたとき、これは宣伝効果があったと自己評価をしている。この全リプライ作戦は約12年間続けた。2008年末で終了したので、現在は行っていない(理由は、宣伝の必要がなくなったためだ)。1日に届くメールは200通以上になったし、新刊が出れば、その1冊について何千通もの感想メールが届くようになった。

・出版社は自分たちが作った書籍という商品に対して、そのユーザの意見を集める努力を熱心にはしていない。出版社(特に営業)が「お客」だと認識しているのは、「書店」であって、「読者」ではない。そこの意識がまるで間違っている。なにしろ、出版社はその商品をコピーしているだけで、自分たちで創作しているのではない。メーカーではなく商社なのだ。だから、こうなるのも仕方がないかもしれない。

・小説は、家庭用品などの実用品ではない。人間の感性を売り物にした芸術的な商品であり、歴史的に見ても特殊な存在である(この種の商品は数百年の歴史しかない)。便利さや使いやすさ、あるいはそれらの性能向上が売れるベクトルではない。では、何を目指して作るのか?それは大変難しい問題だけれど、あえて一言でいうならば、「新しさ」である。今までにないもの、珍しいもの、そういうものを消費者は無意識に求めている。また、整ったもの、安心して消費できるものは、既に「名作」として膨大な数のストックが揃っていることも念頭に置かねばならない。「さらに生産する理由」がどこにあるのか、を生産者は常に考える必要があるだろう。

・僕が採用した方針はマイナーな路線であり、「隙を突く」作戦だった。大当たりはしないけれど、「今までにないものならば、ある程度のニーズがある」という観測に基づいている。これまでの世の中では、このようなマイナーなものは、大宣伝でもしない限り存在さえ気づいてもらえない。しかし、今はネットがある。発行部数が少なくて、目にする機会がほとんどなくても、ネットの口コミでその「新しさ」なり「珍しさ」なりが必ず伝わる環境になった。ここが昔と全然違う点である。マイナーは、競争相手がいないという状況で、それを求めている消費者を確実に引きつける。むしろ、メジャーな商品よりも安定して売れるだろう。このことは、インターネットが普及する以前からは兆候はあった。ガンダムがそうだし、コミケット(同人誌即売会)がそうである。「そんなマイナーなもの」とマスコミが取り上げようとしないものが、いつの間にか、とんでもない人数を集める一大勢力になった。数でいえば、メジャーなものをとっくに凌駕していたのだ。ネットの普及によって、それらがより明確になり、より確実になり、さらに世界へと輪を広げるようになった。これからも、このような状況が当分は続くだろう。

・ネットの活用に関して、僕が小説の執筆に取り入れたものは多数ある。一例を挙げるなら、ミステリーにおいて「結論をしっかりと書かない」結末や、作品の中にちりばめられた答のない謎である。このようなものは、それまでのミステリーにはほとんど例がなかっただろう。ミステリーとは、読後にすべての謎がすっきり明かされるものだった。そうでないと、解答編のない問題集のように、爽快感は味わえない、気持ちが悪い状態のままになる。だが、ネットがある世の中ではそうではない。気持ちが悪いままの読者たちは、きっとネットにアクセスするはずだ。そこで、作中には書かれていなかった解答を、他の読者が導いていたり、あるいは大勢が議論していたりするのを見ることになる。「ああ、そうなのか」とようやく納得すると同時に、「他の読者」の存在を体感し、大勢の仲間に入れたという安堵を感じる。そもそもこの感覚は、読後に「ほかの人たちは、これを読んでどう感じるのだろう?」という好奇心として昔から存在したものだ。ネットは、そういった欲求m同時に解決する機関(新しい社会)なのである。

・僕は、図書館や古書店の問題には、「何度も読みたくなるような作品」で対抗するしかない、と考えた。作品の随所に、簡単には読み解けないものを織り混ぜておく。その作品ではなく、別の作品でそのヒントを見せる。ネットで、こういった部分が話題になれば、「もう一度読みたい」と思う人が増えるだろう。再読するためには、本を手許に置いておかなければならない。「いつかもう一度読んでみよう」と思わせるような作品とは、初読時にはすっかり消化ができないようなものだ。そういう理屈になる。また、ネタばれについても、簡単にそれができないような機構を盛り込むことで対処ができる。一言で説明できないネタにすれば良い。あるいは、人によって解釈が異なるようなネタにする。他人の意見が自分と違っていれば、もう一度確かめたくなるだろう。さらには、わざと問題点を忍ばせておく、という手法もある。誤解を誘うようなものでも良い。「なんか、おかしい」「これ、間違っているんじゃないか?」と思わせるような部分を故意に入れておくのである。読み手は、これで苛立つことになる。そしてネットでそのことを指摘したり、あるいは「間違っている」と糾弾するような書き方もするだろう。しかし、それが作品を広める。つまり、宣伝効果があるという計算である。

・「小説家は芸術家なおであって、良い作品を書いていればそれで充分。商売をするのは、出版社の役目である」という主張も当然ながらあるだろう。僕だって、そういうものだと最初は少なからず信じていた。しかし、それは間違いである。なぜならば、作家を将来にわたってプロモートするようなビジネス戦略を出版社ではまったく誰一人考えていないのだ(せいぜい、目の前の一冊だけについて、オビやポップのキャッチ文など、効果の極めて小さなものに優秀な頭脳を使っている程度である)。小説家には、マネージャがいない。出版社はしてくれない。だから、自分で自分の作品のマネージメントをしなければならない。それをしないでも売れる人も、もちろん一部にはいる。運が良ければ何かのブームに乗って、自然にマネージメントが機能することもある。しかし、ほとんどの場合は、まったくの放置といって良い。今から小説家になろうという人は、このことを肝に銘じてほしい。あなたの作品は、値段をつけて売られる商品になるのだ。読んでくれた人のうち、有志だけがあなたに寄付をするのではない。これはどう見たって、立派なビジネスなのだ。きれいごとでは済まされないはずなのに出版界には芸術的なきれいごとがまかり通っている。

・ネットでもう一つ重要な要素は、読者の個々の意見が直接作者に伝わるということである。読者との関係というのは、作家という仕事を継続する上で非常に重要だからである。結局のところ、この信頼関係が上手く成り立っていれば、作家として長く活動ができるのではないかと想像する(僕にはまだ十数年の経験しかないので想像する以外にない)

・もし読者の多くがある作品に対して「ここが良かった」と指摘してきたら、同じことはやりにくくなる。「もっとこうしてほしい」と書いてきたら、そちらへ進んではいけない。逆に、読者が「ここがつまらなかった」と批評してきたら、もう一度それに挑戦してみる。そういうあまのじゃくの方針が、より「創作」にふさわしいと僕は考えている。極端にいえば、「たえず読者の期待を裏切ること」が作家の使命なのだと信じる。

・けなされている書評の方が、僕にとっては価値がある。そういうのを読んでいると、頭がにやけてしまうほどだ。明らかに誹謗中傷とと取れる類もあるけれど、それも含めて面白い。「どうして、この人はここまで人の悪口を言いたいのか」と考えると、人間の心理がさまざまと垣間見えてくる。まるで小説のように面白い。意外なものの一例を挙げると、たとえば「こんな主人公は好きになれない」という理由で作品をけなす人がいる。これには、目からうろこが落ちた。何だろう、小説の中に恋人でも見つけようというのだろうか。嫌いな人間が出てくるものは読めない、というのであれば、小説の大半は読めなくなる。主人公だけには感情移入したい、という気持ちはわからないでもない。そういう読者がわりと多いこともわかった。ついでに、ミステリーにおいては、ネタばれを望んでいる人の方が多数だということもわかった。犯人が最後まで誰かわからないような話は読めないという意見も多い。人間というのは本当にバラエティに富んでいる。しかし、そういう批判には耐えられないという純真無垢な作者も、きっといるだろう。僕が天の邪鬼なのであって、そういう素直なタイプが普通かもしれない。ただ、そういう人は小説家には向かないような気がする。たぶん、小説家にはなれないだろう。これをもう少し突き詰めると、自分の作品を人から批判されて腹が立つ人は、もう書くのをやめた方が良い、ということだ。腹が立つこと自体が自信がない証拠だし、笑って聞き流せない思考力、想像力では、創作という行為においては明らかに能力不足だろう。

・人間を観察することが、小説を書くための基本的な下準備である。常日頃から、できるだけ多くの人を観察することを心がける。ドラマや小説の中の登場人物ではない。現実社会で生きている人たちを見て、「リアル」や「ナチュラル」を取り入れること。これらが、創作に不可欠な素材となる。

・人間というのは、自分が弱い部位を、相手に向かったときも攻める傾向がある。自分が言われたら腹が立つ言葉を、相手を攻撃するときに使う。その言葉にダメージを与える効果があると感じているからだ。したがって、悪口を言ったり、いじめたりする人間は、自分が悪口を言われたり、いじめられたりすることを極度におそれている。いじめる方も、いじめられて傷つく方もこの点で共通している。いじめられても気にしない人は、人をいじめない。悪口を言わない人間は、悪口を言われても腹が立たないのである。こういう人間の「傾向」というのも、「リアル」な世界を創り上げる基本になるものであり、すべてが現実の観察から導かれる。

・仕事には〆切がある。いつまでになにを書くのか、そのあとのシリーズの展開はどんなふうにするのか。近いものは3年くらい先まで、すべて予定を決め、遠いものは10年くらいさきまで、だいたいの方針考えておいた方がよい。予定を立ててもその通りに行かない、という人は多いけれど、だからといって、予定を立てなければ、そのまま予定どおり、なにもできないだけである。予定を現実に歩み寄らせて、「予定どおりだ」と満足することに価値があるのではない。たとえ予定どおりにいかなくても、現実を多少でも予定(つまり理想)に近づける努力をすることが、有意義な人生というものだと思う。もし、予定のとおりに現実を築くことができれば、それが「自由」というものではないか。予定を守るということは、第一には自分に対してであり、また、ビジネスであるからには、仕事関係(つまり出版社や読者)に対しても、約束を守ることが結局は自分の利益につながる。驚いたことに、この業界では、作家が〆切を守らないのが日常だ、といった風潮がある。それを許す体質も間違っているし、それに甘える精神も腐敗している。おそらく、「芸術というのは仕事ではない」という主張なのだろうけれど、そういうことを言うのは二流の芸術家に決まっている。もし、あなたが小説家を目指して頑張っているのならば、〆切を守る誠実な作家になってほしい。それには、まず自分で立てた予定を守ること。その習慣をつけることが大事だ。1度でも破れば、10回守り続けてきたことが無になる。信頼というのは、築くに難く、崩れるに易いもの。1回くらいは、と考えているとしたら、それは信頼の意味がわかっていない不誠実な人間である。どんな仕事をしても中途半端になるだろう。根本的に考えを改めなければ、今以上の状況は望めない。

・僕は常々、フィクションを読む人よりも、ノンフィクションを読む人の方が多いと感じていた。僕の周囲にいる人間はほとんど小説を読まないからだ。現に、書店に行っても、雑誌やビジネス書の前に立っている客が圧倒的に多い。小説のコーナーは閑散としている。ところが、僕の本は小説の方が圧倒的に売れる。エッセイを出しても10分の1くらいしか部数が出ない。小説家が書くエッセイは面白くないものばかりだという風潮があるのかもしれないけれど、出版社もとにかく小説を出したがる。このギャップが不思議だなと感じていた。その理由は、一人が読む冊数の違いにあったのだ。ノンフィクションを読む人は1ヶ月に2冊くらい読むかもしれない。それに比べてフィクションを読む人は1日1冊は読む。前者の人口が10倍多くても、本は後者の方が売れる道理だ(この数字は説明のための仮のもので実際のデータではない)。

・これだけ年心なマニアに支えられている小説であるけれど問題もある。この頃では人気作家の新刊が図書館で読める。ベストセラー作家の本になると、図書館は何冊も同時に仕入れる。また古書の流通が当たり前になったからよく本を読む人ほど、節約のために古書を買うことになり、出版社や作家の利益が損なわれている。その構図は、自分たちの望む環境を自分たちで崩すものだ。傍から見ていても、良い状況とはけっしていえない。こういった流通の問題が将来どうなっていくのかといえば簡単である。小説は音楽のようにネット配信になる。近い将来のことだろう。そうなると極端な話、出版社も印刷会社も取次も書店も必要ではなくなる。古書店も図書館も成り立たない時代がすぐに来る。安泰なのは作家と読者だけだ。作家から読者へコンテンツが直接配信されるといったことも可能であり、事実増えるだろうけれど、もちろんなんらかのマネージメントをする機構が現れるはずである。利潤を生むところには、人が集まるからだ。

・作家としてはどうすれば良いだろうか?簡単だ。たくさん売れること、ベストセラーになることをねらわず、地道に作品を発表する。これだけである。10万部売れる本を作ることは非常に難しい。しかし1万部売れる本を10冊出すことなら、それよりは容易だ。5000部売れる作品を20作書くことなら、さらにずっとやりやすい。結局、大きなものを狙わず、まじめに自分の仕事をすれば良い。そうしていれば、なにかのチャンスが巡ってくることもあるだろう。そして、作品の数が多いほど、そのチャンスは増えるのである。

・僕の場合、たとえば「スカイ・クロラ」の映画化がそうだった。売れないシリーズだったのに、押井守監督のアニメ作品になったおかげで、シリーズで100万部を突破した。本の印税のほかにも、さまざまな商品の原材料として収入につながる。映画化のおかげで1億円以上いただいた計算になるだろう。新たに書いたわけではない。なにも仕事をしていないのに収入になる、というのは著作権の素晴らしいところだ。「創作」の価値は社会でこれほど認められているのである。もちろん、狙ってできることではないが、宝くじよりははるかに確率は高い。確実なのは、こういったチャンスも、作品を書かなければ訪れない、ということだ。

・たくさん書こうにも、一つの出版社ではそんなに続けざまに本を出してくれないかもしれない。そんなときは、数ある出版社を広く利用し、他社とも仕事をしよう。お世話になっている出版社を裏切らないように一社だけとしか仕事をしないというのは危険である。他社で本を出すメリットは印税が同じなのだからほとんどない、というようなことを書いたけれど、もし一社としか仕事関係を結んでいなければ、作家の立場は非常に弱い。なにかトラブルがあったとき(たとえば編集者とケンカになったりした場合)に、別の出版社と仕事関係がある場合とない場合では、かなり違ってくる。作家にとっては、「どうしてもダメなら他社で書きます」という選択肢だけが唯一の交渉の切り札なのだ。

・娯楽のコンテンツを生産する仕事の中で、小説家は最も個人的な職種の一つといえる。音楽のように仲間を必要としないし、マンガのようにアシスタントもいらない。同じ文章でも、ノンフィクションのように文献調査や取材をする必要も少ない。元手はまったく関わらないし、いつでも書ける。特に日本語というのは日本人にとっては書くことが容易な言語だ。英語が母国語の人が英文を書くことに比べて格段に簡単なのである(英文を書くプロになるためには、並はずれた知識と才能が必要だ)。話し言葉と書き言葉が、現代の日本語はほとんど一致していることもあるし、国民のほとんどが読み書きできる、という文化も条件としてプラスである。絵を描くこと、曲を作ること、あるいは詩を書くこと、などに比べても、小説は敷居が低い。道具の使い方を覚える必要もないし、なによりも、非常に自由でルールがない。何をどう書いても良い。そういうものを小説というのである。

・僕がここでいいたいことは、作家を目指すとしたら、なんらかの「売りもの」が不可欠であるというこおだ。作家志望の人は、自分の「ウリ」が何かをしっかりと自覚していなければならない。それが即答できないようではデビューはおぼつかないだろう。もし、「ウリ」がないのなら、今からすぐにそれを作るべきである。

・プロの小説家になれば自分の作品が評価されることになる。実は最重要の評価指標とは、「どれだけ売れたか」であるけれど、個人による批評が文章で示されるケースも無数に存在している。たとえば、最近はネット書店に素人の書評や採点が表示されている。作家も読者も、人によっては気になる数値かもしれないが、売れる本と評価値はむしろ反比例していることをご存じだろうか。僕は自著に対してデータを集計したことがある。すると、売れている本ほど、読者の採点が低くなる傾向があることに気づいた。理屈は簡単である。採点が低いからよく売れるのではなく、よく売れるほど、その作品に合わない人へも本が行き渡るから、低い評価を受ける結果になる。逆に、ものすごくマイナーで部数の少ない本は、コアなファンだけが買うので評価が高い。そもそも、ファンというのは、「自分にだけわかる価値」を無意識に欲しがるものであり、「珍味」のように特別性を高く評価する傾向にある。だが、珍味に美味いものなし、というではないか。誰にとっても美味いものならば、もっと広く普及するから珍味にはならないのだ。ネット書店で、100万部突破のベストセラーに対する書評を読んでみると良い。「どうしてこんなものがベストセラーになるのか」と大勢が怒っているのが眺められ。アイドルだって、人気が出るほど悪口をいう人が増えるだろう。売れるほど酷評を受ける道理がここにある。このような「読者の声」が直接聞こえることは、メーカーである作家にとっては、とても有用な環境である。どんな消費者がいるのか、という調査が簡単にできるからだ。相手が見えることは何事につけても有利である。しかし、相手の意見をそのまま作品に取り入れる必要はない。ここは注意が必要だ。なぜなら、読者というのは素人であり、創作者ではない。意見というのは千差万別さまざまであって、すべてに対応していたらキリがないし、多数の意見に応じれば、どっちつかずの製品を作らされてしまうだろう。

・小説から教訓を見出そうとしたり、小説の中で新たな知識を得ようとする人もたまにいるが、これは本来の小説の機能ではない。そういったものは、小説以外から得た方が効率が高く、なによりも「正しい」ものが手に入りやすい。小説に書かれているのは、たとえば、登場人物が話したことであり、考えたことであり、認識しているだけのことなのである。登場人物が誤解をしている、間違っている、勘違いしている場合もあるから、真偽はまったくわからない。作者にも責任はない。小説はなにを書いても、わざと「嘘」を書いても責められないのだ。だから、そんな小説から、教訓や知識を学ぼうとするのは、(副次的なお特感はあるけれど)できればやめた方が良い、と僕は思う。学んだ気がする、得をした気がする、という錯覚に一瞬微笑む程度が適切だろう。本を閉じれば、酔いは急速にさめる。

・僕は分厚い小説のブームのときに、読者の多くの反応から「もっと本を薄くしなければ」と感じたので、自分の新シリーズでは、シンプル、ショート、スパイシィという3Sを目指して書き始めた。編集者からは「時代に逆行しているのでは」と言われたけれど、それは編集者が「遅れていた」だけのことである。ネットのおかげで、今では編集者よりも作家の方が読者に近い。その分、プログレッシブだ。否、それどころか、読者だって作家に比べれば遅れている。作家は常に時代をリードしなければならない。ニーズに応えるのではなく、ニーズを新たに作る、それが創作である。

・人は、結局は「人に感動する」ものである。それは、自然の中にあって、最も自分自身に近い存在だkらだ。人間の行為、その行為の結果がもたらしたものを通して、その人間の存在を感じる。はるか昔の人よりも、同時代に生きている人の方が、存在を感じやすい、というのも「近さ」のためだ。作品を通してその人の存在を感じ、それを感じた自分を対面に置き、反響させて感動を増幅する。芸術の起源はここにあるといっても良いし、僕が「小説には将来展望がある」と考える理由もここにある。そう断言できるのは、一人で創れるものだから、人件費がかからない、比較的時間も労力も少なく、効率が高い、というビジネス上の有利さ以前に、このジャンルの基礎部分に、非常に固い、崩れることのない構造が成立しているからである。

・僕がデビューした頃、講談社の担当者だったK氏は小説についていろいろなことを教えてくれた。その中で一番印象的だったのは、「決まりはありません」というものだった。「全部、作者が自由に決めて下さい」と言われた。文章に関するあらゆる約束ごとは、あくまでも平均的なものであって、厳守する必要はない、という意味だ。ときには、文法だって無視して良い。漢字を普通とは違う読み方にしても良い。なにをどうしようが、自分のルールさえしっかりとしていれば問題はない、ということだった。「そうか、それが小説というものか」と僕は納得した。簡単にいえば、やりたい放題なのだ。

・文章が上手くなるためには、とにかく文章を書くこと。そして、自分の書いた文章を何度も読み直してシェイプアップすることである。書いたすぐあとに直すのではなく、せめて1日、できれば数日置く。これは料理だったら「寝かせる」というところだが、文章はただ寝かせてコクが生まれるわけではない。ようするに、書いた本人が忘れるだけのこと。忘れることが非常に重要なのだ。すなわち、書いた人間ではない別人になって読み、より客観的に文章を捉えることになる。ときには、自分の書いた文章がわかりにくかったり、もっと酷いときは意味不明だったりするだろう。誤解を招くような表現だったりすることも、矛盾していることも、くどかったりすることも、発見しやすくなる。

・小説全般にいることかどうかわからないが、ミステリーなどでは、「ネタ」になる発想がいくつか必要で、それをあらかじめ準備しておく書き方が一般的なようである。僕はそうではないが、聞いた話ではだいたいそうらしい。ネタ帳のようなものを作り、ときどき思いついたアイデアを書き留めておく。それを執筆のときに使っていく、という手法である。これはパーツをあらかじめ用意し、それを利用してものを作る、というやり方だ。僕の場合も、それに近いことを試した経験はある。しかし、上手くいかなかった。ネタがあらかじめ存在すると、書いているときに、それらに拘束される。「これを使わなければならない」という観念に囚われてしまうのだ。使いたいネタがあったとしても、もっと緩やかに考え、それを必ず全部使おうと思わない方が良い。ネタに関しては、「もったいない」なんて気にしないことだ。無駄を出し、「贅沢」であるべきだと思う。書いているときには、その作品世界の空間が広がり、時間が流れている。その中における「自然さ」を尊重すべきである。その自然さが、読者に与える「リアルさ」になるだろう。ネタというのは、トリックばかりではない。たとえば、こんなキャラクタ、こんな言い回し、こんな比喩、こんな会話、などなど、ほんのちょっとしたことまで、小さなパーツとして小説の中にちりばめられている。執筆以外の時間にそれを思いついたら、すぐメモをしておかないと、いざ書くときに思い出せない、という不安を持つ人が多い。おそらく、忘れてしまうということが、ある種の恐怖なのだろう。しかし、僕はそうは考えていない。忘れるものは、忘れるだけの理由がある。自分では素晴らしいと感じても、忘れてしまうことがあって、すばらしさだけが印象として残るから、思い出せないことが腹立たしい。「もったいない」とまたも感じてしまう。だがここでも「創作は贅沢であるべき」だ。もったいないものをどれだけ捨てられるか、良いネタを大盤振る舞いで浪費できるか、がむしろ作品のレベルを高める。使いたいネタがしっくりこないと少しでも感じれば、潔く捨てよう。同様に、忘れてしまうようなものは、そもそも印象が薄い証拠である。忘れたままにする方が得策だ。こんな理由から、僕はメモを一切取らない。ネタ帳はない。事前に作品の構想を考えることはもちろんある。細かい表現についても、シーンについても、あれこれ思い浮かべることは頻繁にある。だが、それをその場でメモとしてアウトプットしてしまうと、発想はそこで終わってしまう。頭の中に入れたままにしておく方が育つ。もっと形を変えて、もっと的確なタイミングで思い浮かぶかもしれない。無理に「これを使おう」と自分に課さないことである。たとえば、会話に表れるしびれるようなフレーズとは、これをしゃべろうと待ちかまえていたものではない。流れの中でふと思いついて自然に出るから輝くのだ。執筆においても、あらかじめ考えておいたものをいつ使おうか、などと考えていては、自然な会話にはならないだろう。

・会話を活き活きと書くためには、そこに登場している人物たちそれぞれになりきること、これに尽きる。どんな履歴を持った人物なのか、今はどんな状況なのか、相手をどう思っているのか、何を考えて話しているのか、といったことを思い描くことは基本であるが、さらに大切なのは「流れ」だろう。現実の会話も、「流れ」に大いに従っている。くどくどと説明をするようなことはない。親しい間柄になればなるほど、どんどん省略される。それでも通じるからだ。小説では、読者に通じなければならないので、多少の「丁寧さ」が必要な例外があるものの、それでもとにかく「切れるだけ切って」ちょうど良いくらいだと僕は思う。それぞれの人物になりきると、当然ながら、会話が途切れたり、別の話題に急に飛んだり、口にしたもののすぐに後悔したり、あるときは嘘をついたり、いい間違えたりする。人物になりきらず、客観的な(たとえば監督や脚本家の)立場で書くと、そういったリアルさが出にくい。

・下手な会話シーンというのは、作者が一人で問答をしている結果でとても別の個人どうしが言葉を交わしているとは感じられない。まるで片方が悩み相談のカウンセラーか、インタビュアーか、太鼓持ちのようだ。実際の会話というのは、一つの話題のときも、それぞれは別々のことを考えている。人間は常に勝手に考えるという特性を持っているのだ。それを素直に表現するだけで、自然にキャラクターの個性がにじみ出る。読み手に「生きている」と感じさせることができるだろう。もちろん、会話だけではない。考えているからこそ、それが行動や仕草に出る。関係のないことを突然したり、勘違いをしたり、忘れたり、失敗したりする。普通の人が当然するこれらの無関係で無駄な行為が、生きている証拠でもある。ストーリーを説明するために動いている役者ではあるけれど、そう見せないことが小説家の技量といえるだろう。

・書き始めを印象的にしようと思い悩むとちっとも始められないので、それはまたあとで修正するとして、とにかく書き進めよう。ここがやや問題だなとか、ここが上手く書けないと感じたら、そこを飛ばして先へ進む。ワープロなのだから、いくらでもあとから補填ができる。気楽に文字数を増やそう。難しいのは終わり方である。小説のラストは、かなり難しいと思う。一番難しいのは最初にタイトルを決めることで、その次に難しいのが、この最後の一文だろう。こだわらなければ、別に気にしなくても良い。終わり方に決まりがあるわけではない。句点で終わらせなくても良い。なんだって「あり」だ。

・書いている途中では、自分が退屈しないことが大事で、退屈しそうになったら、面白いことを考えて、それを書く。こうしておけば、きっと読者も眠くならずに読んでくれるにちがいない。たとえば、どうしようもなく退屈だなと感じたら、「そのとき、背後から迫りくるものがあった」などと書いてみる。書いてから、「はて、なにが迫りくるのだろう?」と考えれば良い。まさに成り行きである。面白いストーリーというのは、このような流れの中で生み出されるもの。だからこそ臨場感がある。書いている本人が臨場感を抱く必要があるだろう。ただ、同時に、小説家は常に「読者どう読むのか」という視点を持たなければならない。舞台を作る人間は、客席の視点を常に意識している。文章に落とす行為が、その視点への伝達なのだ。

・一年中執筆をしているわけではない。たとえば僕の場合、1作を書いている期間は、長くても2、3週間だ(1日にせいぜい2時間程度しか書けない)。この執筆している期間には、僕は小説を読まないし、映画も観ない。なにもしない時間が必要だ、と感じるためだが、別にあれこれ考えているわけではない。ただ、ふと思いつくことはある。一番良いのは、散歩をしたり、ドライブをしたり、手を動かしてなにかを作ったり、といった比較的抑揚のない平坦な時間だと思われる。本を読む人は、本当に暇を惜しんで読書をする。どこでも読めるように、いつも本を持っている。文字通り「暇を潰す」行為であるけれど、創作期間中はそうではなく、できる限り「暇を潰さない」方が良いだろう。頭は、外から刺激があれば、それについてしか考えない。リラックスしていれば、ちゃんと自分から発想するものである。

・僕は執筆期間中でもパソコンから離れると、今どんな小説を書いているかを忘れてしまう。思い出すのに20秒くらいかかる。だから、作品について考えるということは見かけ上はない。むしろそれ以外のことを考える。ところが、執筆作業に戻ると、全然関係のなかった発想が、次々と結びつく。これに近いのが夢を見る行為だろう。夢は、寝る前に「これについて考えよう」とテーマを決めているわけではない。しかし、起きたときに夢を覚えていて、「ああ、これは使えるな」ということが多々ある。僕は、夢をとても丁寧に見るようにしている。起きるときも、忘れないように慎重にゆっくりと目を開ける。夢から見た発想は実に多い。起きているときにも、夢見心地になれれば素敵だ。ただし、酔っていてはダメである。頭はできるだけ冴えていないと。

・一作の執筆を終えると、他の芸術に触れたくなる。アウトプットしたため、飢えるのだろう。他者の目を通すなと書いたけれど、優れた才能に出会うことは、美味しいものを食べるのと同じで、人間の基本的な欲望といえる。ただ、お腹がいっぱいになると、自分で料理を作る気がしなくなる。ものを作るときには、少しハングリーな方がコンディションとしては良いという意味だ。こういった自分のコンディションをコントロールできるようになれば、プロとして非常に有利である。

・これは一般的ではないかもしれないが、僕が一番時間をかけて考えるのは、タイトルだ。作品のタイトルを考え始めてから決定するまでには、3ヶ月から半年くらいかかる。タイトルさえ決まれば、もう半分以上は書いたも同然と思えるほどだ。よく「どんなふうにしてタイトルを決めるのか」と問われる。しかし、「これです」というルールはない。とにかくひたすら「考える」。そして、納得がいくまで決めないことにしている。僕は、タイトルが決まらない状態で小説を書き始めることはない。あとで決めれば良い、というふうには考えない。本文ができてしまったあとに適切なタイトルをつけるなんて、それは無理な話だ。タイトルを決めれば、それに相応しい小説がかける。その反対はきわめて困難だ、と少なくとも僕は思う。

良かった本まとめ(2016年上半期)

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豊ちゃん(東京 築地場内)の食事はとてもオススメ!

2016年07月21日 01時00分00秒 | 外食
東京の築地場内の1号館にある「豊ちゃん」へ行って来ました!


↑店構え

このお店は他の店と違って2店舗分の大きさがあるので、それだけ人気店ということでしょうか。
とんかつや洋食のお店ですが、特筆なのは、かつ丼のカツとご飯を分けて提供する「あたまライス」というメニューがあることです♪
メニューの一番上が「かつ丼」で、その次が「あたまライス」なので、この2つはかなりの人気メニューのようです♪


↑メニュー

やっぱり「かつ丼」がいいかなぁ?と思いつつ、せっかくなので思い切って「あたまライス」を注文しました♪
なお、7時以降に来店したのでこの「あたまライス」は値引きされ950円というのは嬉しいです♪

しばらくして、その「あたまライス」が運ばれます!


↑あたまライス

ボリュームあるカツが柔らかく卵とじで煮込まれ、少々塩分多めですが、アツアツで美味しい♪

ご飯も別にしっかりと食べることができ、これはアリかもしれませんね^_^)

十分煮込まれた出汁と卵と一緒に肉厚なカツをかみしめ、これは旨いです♪

想像以上に美味しくて、これで950円はリーズナブルだと思いますね♪

「豊ちゃん」の「あたまライス」はオススメです!!

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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おかめ(東京 築地場内)のお寿司はオススメ!

2016年07月20日 01時00分00秒 | 外食
知人がオススメと行っていたので、東京の築地場内の「おかめ」へ行って来ました!


↑店構え


↑店構え

といっても、行ったのはずいぶん昔で、その内容はすっかり忘れてしまっていますが、美味しかった記憶はあります♪
店の前には、天然マグロにこだわっていると書かれていますね♪

「旬おまかせにぎり」3600円と「特上にぎり」2500円がありますが、おそらく「特上にぎり」を注文したのではないかと思います。
ネタには醤油が塗られているので、そのまま食べることができますね♪


↑お寿司


↑お寿司と味噌汁

ホタテが丸く握られているのが興味深いですね♪

あまりにもたくさん築地場内の寿司屋に行ったため、この「おかめ」の細かい内容はすっかり忘れてしまっていて申し訳ありませんが、とても美味しかった記憶はあります^_^)

オススメです!

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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すし処 おかめ寿司 / 築地市場駅築地駅東銀座駅

昼総合点★★★☆☆ 3.5

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センリ軒(東京 築地場内)のヒレカツサンドはオススメ!

2016年07月19日 01時00分00秒 | 外食
東京の築地場内には3店ほど喫茶店がありますが、その中でもセンリ軒のヒレカツサンドは人気NO1でオススメです♪


↑センリ軒

さっそく、店に入ってメニューを見ます。
店内はかなり狭く、また一人で来たので、隅の一人席に座ります♪
店内は昭和な感じがして、個人的には大好きです♪
だみ声のこれまた昭和なおばちゃんが、優しく注文を受けてくれます♪


↑メニュー


↑メニュー

やはり、ここは人気NO1のヒレカツサンドを注文し、飲み物はヘルシーにトマトジュースを注文しました♪

比較的すぐにヒレカツサンド700円とトマトジュースが運ばれます♪


↑ヒレカツサンドとトマトジュース


↑ヒレカツサンドの拡大

分厚いパンに、かなり肉厚のヒレカツが入っていて、これはボリュームがありますね♪
これは人気NO1でしょう!
ヒレカツが柔らかく、美味しい♪
これは素晴らしいですね♪
だみ声のおばちゃんが、ティッシュも折って渡してくれて、ホスピタリティも素晴らしいです♪

築地場内のセンリ軒は、美味しい肉厚なホットサンドを堪能でき、オススメです!!

なお、こちらから10%割引券をダウンロードできるので、ぜひご利用ください!

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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中山道六十九次 街道あるき 日本橋~板橋 ③六地蔵~近藤勇

2016年07月18日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「中山道六十九次 街道あるき」の第1回目の日本橋~板橋 ③六地蔵~近藤勇について紹介したいと思います。

巣鴨に到着し、真性寺へ行きます。
六地蔵の一つがあります。


↑六地蔵の一つ

六地蔵の一つは旧東海道の品川寺にありこのブログでも紹介しましたね♪

 江戸深川の地蔵坊「正元」(しょうげん)が24歳の時に不治の病にかかってしまい、地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、その感激のあまり京都の六地蔵に倣って、約7万人から浄財を集め、江戸市中街道沿いの6箇所に地蔵菩薩を12年かけて建立したものです。
その六つとは以下とのことです。
いずれも街道沿いにあり、旅人を見守っていたのだと思います。

第1番 品川寺 現存 旧東海道 東京都品川区南品川三丁目5-17
第2番 東禅寺 現存 奥州街道 東京都台東区東浅草二丁目12-13
第3番 太宗寺 現存 甲州街道 東京都新宿区新宿二丁目9-2
第4番 真性寺 現存 旧中山道 東京都豊島区巣鴨三丁目21-21
第5番 霊巌寺 現存 水戸街道 東京都江東区白河一丁目3-32
第6番 永代寺 現存せず 千葉街道 旧:東京都江東区富岡一丁目(深川公園内)


↑六地蔵の地図

どうして六かというと、以下の仏教の六道からのようです。

天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

勉強になります♪

それから巣鴨商店街に入り、とげ抜き地蔵にいきます。
この辺りはすっかり晴天となり良かったです。
しかも、天候が良くなかったので、珍しくおばあちゃんの原宿である巣鴨商店街が空いていました^_^)


↑とげぬき地蔵


↑とげぬき地蔵の説明

とげぬき地蔵の由来は、毛利家の女中の一人が、誤って口にくわえた針(とげ)を飲み込み苦しんだが、地蔵尊の御影一枚を飲むと、その飲み込んだ針(とげ)が出て来たことから「とげぬき地蔵」と言われるようです。

それからせっかく商店街を歩いたので、「昔ながらの味 日本一のあんぱん」に惹かれて「あんぱん」216円を食べてみましたが、美味しい♪


↑KIFUKUDOのあんぱん

それからかなり老舗そうな「むさしや」の「元祖 地蔵尊 せんべい」のごませんべい12枚入り?400円も堪能しました♪
昔ながらの固いせんべいです^_^;)
この隣は目黒でも有名なウナギの「八つ目や にしむら」ですね。
巣鴨が創業のようです。


↑元祖 地蔵尊煎餅 むさしや 

それから、巣鴨商店街を歩いていると、巣鴨の種子屋の説明がありました。
中山道の旅人は、この辺りの農家で見慣れない野菜を見つけて、その種子を欲しがる人が多かったため、農家は副業として種子を販売するようになったとのことです。
この先の中山道沿いにも種子屋がありましたね♪
明治時代中期には種子問屋が建ち並んだようです。


↑巣鴨の種子屋の説明

そしてしばらく歩くと庚申塚(こうしんづか)がありました♪


↑庚申塚の入口


↑庚申塚の説明

庚申塚は庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いようです。
庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、60日に1度訪れる庚(かのえ)申(さる)の日の夜の寝ている間に、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習のことです。
まあ個人的には宴会の口実だったのだと思います^_^;)
申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がここでは彫られていましたね。
神道では猿田彦神とされ、この庚申塚も猿田彦大神と書かれていました。
この巣鴨の庚申塚は板橋宿の一つ手目の立場として旅人の往来が激しく、休息所として賑わっていたようです。

そういえば、旧東海道にも至る所にこの庚申塚はありましたね。

なお、庚申塚の建立が広く行われるようになったのは江戸時代初期(寛永期以降)とのことで、多数の庚申塚が建てられたようです。
しかし明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進め、さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになったようです。

それから、JR板橋駅の近くに板橋処刑場(近藤勇墓所)がありました。
新選組で有名な近藤勇局長は板橋宿の入口にあった平尾一里塚近くの馬捨場で斬首され、胴体はここに埋められ、供養碑が建てられたとのことです。
近藤勇雄の首は京都まで運ばれたようです。
なお、新選組副長の土方歳三も併記されています。
この供養碑には新選組戦死者40名やその他病死者等64名の名前も刻まれているとのことです。
また、供養塔の建立者で新選組の永倉新八の墓もあります。
土方歳三の生家の資料館には行ったことがあるので感慨深いものがありましたね。


↑近藤勇墓所


↑近藤勇、土方歳三、永倉新八


↑供養塔の説明等

中山道の旅も、地理や歴史の勉強になりとても良かったですね♪


お勧めなお話(2016年上半期)

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磯寿司(東京 築地場内)は、休市日でもオススメ!

2016年07月17日 01時00分00秒 | 外食
東京の築地場内に水曜に行くのは注意した方が良いです♪
というのは、ほとんどの水曜が休市日で、市場内のお店も休みのためです♪

ついつい築地初心者は、水曜に訪れてしまうんですよね^_^;)
私もついやってしまいました!

せっかく早起きして築地場内に行ったのに、いつもと違って築地場内が、がら~んと静まりかえっているのは愕然としてしまいます・・・

しかし、まっ、こういう市場を見るのも良いかと思い、中に入っていくと、何と2~3店舗だけ店が開いていました♪

その1つが磯寿司で、さっそく早朝7時ごろに店に入りました♪
諦めていただけに喜びは倍増です♪


↑磯寿司の店構え

 お店の方からは、やはり水曜が休市日とは知らなかっただろう?と言われ、正直にそうだと答えます^_^;)
もう1組の客も、知らなかったようで、大阪からはるばる来たとのことでした・・・

しかしながら、そんな休市日にオープンしていて、とても助かります♪
お店の方も、そういう客を狙って店を開けているようです。
ただ、店はいつもよりは早く閉めるとのことでした^_^)ナルホド!

さっそく、限定30食という2400円のコースを注文します♪
他の店が4000円前後ということを考えると安い♪

安いと言っても、穴子や、マグロも中トロや大トロ含めて三種あり、ウニ、イクラもあるのでかなり豪勢です♪

壁には1貫当たりの値段も書かれていましたね。


↑壁の1貫当たりの値段

握られた寿司は、笹の葉の上に置かれるのは嬉しいです♪

次々とテンポよく握られ美味しく頂きます♪


↑玉子


↑穴子


↑マグロ三種とイカ、シャケ


↑ホタテ、甘海老、アジ


↑イクラ、ウニ

ウニも最上級のものを用意しているとのことでしたね♪

「磯寿司」は休市日でも開店していて、リーズナブルに美味しいお寿司を堪能でき、オススメですね!

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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磯寿司寿司 / 築地市場駅築地駅東銀座駅

昼総合点★★★☆☆ 3.0

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市場の厨房(東京 築地場内)の食事はとてもオススメ!

2016年07月16日 01時00分00秒 | 外食
知人から東京の築地場内へ行くなら「市場の厨房」で食べた方が良いと聞いていたため、何度か青果側を探したのですが、見つからず悔しい思いをしていました。

もしやと思い、道路側のこんなビルには絶対ないなと思うビルに何と「市場の厨房」があるのを発見して驚きました♪
喜びもひとしおです♪


↑店構え

店内は、築地場内とは思えないほど綺麗でオシャレです^_^)


↑店内

しかも女性の店員がフレンドリーに接客してくれます。
築地で働く常連がほとんどのお店なので、店員さんも客がいつも何を注文しているのか把握しています♪


↑メニュー


↑メニュー

朝定が650円とかなりリーズナブルなのは嬉しいですね♪
日替わりのミックスフライが900円であるのでそちらを注文します♪
ネーミングが素晴らしいですが^_^;)、ランチメニューの「どんどん丼」1700円が気になりますね♪
たっぷりの海鮮丼が良さそうです♪


↑ミックスフライ定食

しばらくしてミックスフライ定食が運ばれます♪
フライがアツアツで、大きなアジフライが嬉しいですね♪
チーズささみもチーズがとろけて美味しい♪
ヒレカツもあり十分堪能しました♪
築地へ来て、肉?とは思いましたが、なかなか美味しいです。
「市場の厨房」はオススメですね!

次回は「どんどん丼」にチャレンジしたいと思います♪


美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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「ぼくたちに、もうモノは必要ない。(佐々木典士)」という本はとてもオススメ!

2016年07月15日 01時00分00秒 | 
「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」の購入はコチラ

 「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」という本は、本やCD・DVD・服・アンティークカメラ・よくわからないランプなどに埋もれた汚部屋に住んでいた著者が、不要な本や机・イス・テレビ・なども含めて約95%のモノを捨て幸せになったことから、そのモノを捨てるための心構えやテクニック、モノを最小限に減らしたことで変わった変化やポジティブな側面、どのような幸せになったかを冗長ながらも分かりやすく説明したものです。

 自分も比較的部屋にモノはない方で、スッキリして快適で幸せな生活を送っているつもりでしたが、著者は徹底的に本やCDだけでなく、本棚やテーブル、ソファなど器も徹底的になくすというのはスゴいと思いましたね♪

実際にその写真もあり、クローゼットも余裕だし、食器棚も余裕♪
とにかく部屋が清潔で美しい!

ここまで目指そうと励みになりましたね♪

特に部屋のものを捨てるポイントは以下かと思いました。

・1年間使用しないものは捨てる(特にホコリをかぶっているものは捨てる)
・本は必要なものはAmazonのKindleで読む
・収納からなくす
・写真はデータで保管する
・捨てづらいモノは写真に撮って捨てる
・ストックは置かない
・代理オークションを使って売る(Quick Do)
・出張買い取りを利用して売る

それから、モノを捨て変わることは以下とのことです

・時間ができる(買い物・家事・だらだらする時間・探す時間・掃除の時間等がなくなる)
・狭い部屋で住めるようになるので家賃も安くなる
・他人と比較することがなくなり精神上良くなる
・時間ができるので行動的になれる
・痩せる
・家庭内のケンカが減る
・感謝できる

 より良い人生にするためには、住んでいる部屋で不要なものはできるだけなくし、そうすることによりできる時間・お金を有効活用すると良いかと思います。

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」という本は、とてもオススメですね!

以下はこの本のポイント等です。

・かつての僕のようにみじめで、自分を誰かと比べてばかりの人、つまり自分のことを不幸だと思っている人にはモノから一度離れてみることが、とにかくおすすめだ。最初からモノに執着がない人や、モノのカオスの中から宝物を見つけられる天才はいる。だけど、ぼくが考えたいのは、「普通」の人が、もっと「普通」の幸せを感じられるようなあり方だ。誰しもが幸せになりたいと願っている。だが、そう願って手にしたモノは、ほんのわずかの間しかぼくたちを幸せにしてくれない。ぼくたちは幸せについて、あまりに無知である。増えすぎたモノを減らすことは、幸せについてもう一度、考えてみること。これもおおげさに聞こえるだろうか。けれど、ぼくは本気でそう思っている。

・モノを手に入れるため、手に入れたモノを維持・管理するために、ぼくたちは時間もエネルギーも使い果たしている。その努力があまりに賢明なので、道具だったはずのモノたちは、いつしか僕たちの主人となってしまう。

・モノを最小限に減らしてぼくの生活はガラリと変わった。仕事から帰ってきてお風呂に入る。湯船はいつもピカピカだ。お風呂から出ると、お気に入りの部屋着に着替える。テレビは手放したから、本を読んだり、書き物をする。お酒はもう一人では飲まない。モノを捨てて空いたスペースで、ゆっくりストレッチをしてから寝る。朝は太陽の光で起きる。目覚ましは基本的にかけない。朝の光が、モノのない白い壁紙に反射して部屋はとても明るい。おっくうでしかなかった朝起きることすら楽しみになる。ゆっくりと朝食をとり、マキネッタでコポコポと淹れたコーヒーを味わう。朝食で使った食器はすうに洗う。座禅を組み瞑想をすると、よけいなことに煩わされず、心がひとつに留まる。掃除機を毎日かける。天気がよければ洗濯をする。布団を整える。きちんとたたまれた服に着替えて、出かける。四季の変化を感じ取りながら、毎日同じ通勤の道を楽しむ。・・・自分でも、同じ人間の一日とは思えない。とにかくモノを捨てて本当によかった。

・今から考えると、ジョブズは完璧なミニマリストだった。マザー・テレサもミニマリストだった。マザーが亡くなったとき、残されていたのは着古したサリーと、カーディガン、古びた手提げ袋と、擦り切れたサンダルだけだったと言われている。「無所有」を説いたマハトマ・ガンディーの部屋にも何もなかった。あるいは古代ギリシャの哲学者ディオゲネスのことを考えてみる。布1枚を身にまとい、水を飲む椀だけを持っていたと言われているディオゲネス。ある日、子どもが水を手ですくって飲むのを見て、たった1つ持っていた椀すら叩き割ったという。

・捨てること自体には、時間はかからない。1日目はまずゴミを捨てる。2日目は本やCDの買い取り。3日目は家電の買い取り。4日目は大きな家具を粗大ゴミに出す。どれだけモノが大量でも、1週間あれば捨て切ることが実は可能だ。捨てる実作業でなく、モノを踏ん切るための時間が膨大にかかるだけだ。話せば話すほど外国語が上達するように、捨てれば捨てるほど、捨てることは上手になっていく。捨てる習慣が身につき、捨てるまでの時間が短くなっていく。捨てるための公式を縦横無尽に使えるようになってくる。捨てることは、正しく「技術」である。

・僕は汚部屋時代からすると、持ちモノを5%ぐらいまで減らしたと思う。1000個モノがあったとしたら950個は捨てたのだ。その中で、捨てて後悔したモノは本当にひとつもない。あったとしても全然思い出せない。そんな程度の小さなものだ。心の底から「捨てなきゃよかった!」と布団の中でギリギリと歯ぎしりしながら後悔するモノは本当にひとつもない。捨てる気持ちを邪魔するのは、捨てた後にやっぱり必要だったらどうしようとか、いつか捨てなければよかったと思う日が来るのでは?という不安だ。その不安はよくわかる。誰にでも当然湧いてくる不安だ。そんな不安にhこう言い聞かせよう。「「捨てて」後悔するモノはひとつもない」。後悔しないばかりか、「捨ててよかった」とすべての捨てたモノに対してきっと言える。

・1年の四季を通して使わなかったモノは、今後も必要がないモノだ。1年を使わずに過ごせたモノは、来年もそれなしで何の問題もなく過ごすことができる。1年に1回も出番がないモノを手元に置く必要はない。ただひとつ災害に備える非常用の装備だけは別だ。ホコリは何度払っても溜まっていく嫌なものでもあるが、捨てるべきモノを教えてくれるサインでもある。ホコリが溜まっているモノは、必ず使っていない。1年使っていないモノは、来年も、再来年も、ずっと必要がない。3年に1度使うモノなどレンタルしよう。使っていないモノの維持・管理にお金もエネルギーもムダにするのはやめよう。

・フィルムのプリントも、もらった手紙もScan Snapですべてスキャンしデジタル化した。こうするといつでも簡単に見返すようになった。日付と場所だけしっかりフォルダ名にすれば、思い出を見返しやすい。ただしバックアップはしっかり二重に。クラウドストレージを利用すれば、世界中どこからでも自分の大事なアルバムにアクセスできる。

・普通は収納の中のモノを少しずつ減らしていき、中身がゼロになったところで、ようやく収納が捨てられると考える。だけど、たとえば害虫を駆除する場合のことを考えてみよう。虫を1匹1匹駆除した後で、巣の撤去にとりかかるだろうか?一匹ずつ駆除してもきりがなく、いずれ巣で増えて、元通りになってしまう。「収納という巣」があれば、モノを減らしたつもりでも、いつの間にかモノはそこに住み始め増えていく。だからまずは、「巣」である収納を叩くのだ。収納を捨てれば、もちろんモノはあふれ出す。その場所に直置きになったり、散乱したりするだろう。人はそれを見て、そのままにしておくことができない。だからどうにかしようとする。あふれだしたモノを減らし始める。収納がないモノは、巣をなくした哀れな虫のようにいつしか姿を消してしまう。

・僕が使ったのは、「Quick Do(クイックドゥ)」という代理オークションサービス。紙に簡単な内容を記入し、まとめて送るだけでオークションに出品してくれる。落札代金から手数料はかかるが面倒な出品作業や、発送のやり取りなどはない。オークションの様子を見られるのも楽しい。すぐにまとめて手放せる代理オークションはとても便利だ。

・買い取りの価格は代理オークションよりも下がるが、出張買い取りサービスもとてお便利だ。何しろ梱包もせず、業者の方に家に取りに来てもらうだけで買い取ってくれる。僕がよく使っているのは、「高く売れるドットコム」。売れるモノのジャンルは幅広い。僕はテレビなどの大物を手放すときにお世話になった。テレビは梱包するだけでも一仕事になる。一緒にPS3やホームシアターも買い取ってもらった。本もゆうに1千冊以上あったと思うが神保町の古本屋さんに来てもらい、まとめて買い取ってもらった。1冊1冊を見積もりをお願いすることもできたが、まとめてしめて2万円・・・。丁寧に売っていくこともできる。が、手間を最小限にした方が、手放すことに成功しやすい。

・ゆるりまいさんの「わたしのウチには、なんにもない。」でぼくが衝撃を受けたのは、ゆるりさんが卒業アルバムを捨ててしまったというエピソードだった。思い出ピラミッドの中でも頂点にありそうなモノを捨ててしまうなんて、さすが「捨て変態」。だけど考えてみれば卒業アルバムは普通、大体の人が保存している。同学年の数百人の人が持っている、実は貴重でも何でもないモノだ。どうしても卒業アルバムがみたくなり、夜も眠れず、頭をかきむしるほどになれば、友達に連絡を取り見せてもらおう。迷惑な気もするけど、友達にそんな風に頼まれて、冷たくあしらう人は友達ではない。感謝を忘れなければ、迷惑は迷惑ではなくなる。

・「365日にシンプルライフ」というドキュメンタリー映画が面白い。主人公の青年は、ある日すべての荷物を貸し倉庫に預け、そこから1日1つのモノを取り出せるというルールを作る。初日は、本当に何も持っていないので、大事なところを新聞紙で隠しただけの姿で倉庫までの道を疾走する。初日はコート1着を倉庫から取り出し、硬い床に寝る。大事なモノを見極めるための実験。同じことはできなくても、想像の上で実験をまねしてみることはできる。「持ちモノゼロ」から始めて1日1つしか取り出せないとして、このモノは何番目に必要だろうかと問いかけてみる。このモノが盗まれたとして、もう一度同じ値段で買いたいだろうか?来週引っ越すとして、このモノを持っていくだろうか?特に理由もなく、漫然と持っているモノは多いと思う。モノに問いかけてみることは重要だ。モノに問いかけてみることは、自分に問いかけてみることに他ならないから。

・スティーブ・ジョブズはいつも同じ服だった。ISSEY MIYAKEの黒のタートルネック、リーバイス501、足元はニューバランスのスニーカーで、公的な場のプレゼンもこの格好でこなした。フェイスブックの創設者、マーク・ザツカーバーグはいつもグレーのTシャツ。アインシュタインもいつも同じ形のジャケットしか着なかったという。彼らは、毎日服を選んだり、流行を追いかける時間を使って、自分が大事だと思うことに集中した。快適に、清潔に過ごすために必要な服の量は多くない。一番似合い、自分にぴったりの定番の服、いつも決まっている「制服」のような「私服」で過ごす。服のバリエーションを残すというおしゃれでなく、本当に似合う服だけ着るというおしゃれもある。

・今のところ手放してもう一度だけ買ったモノが一つだけある。オムロンの「フットマッサージャ HM-231」。お気に入りで型番まで覚えてしまった。母にもプレゼントしたし、兄の家にも自分のをあげた。ところがどうしても足裏マッサージの気持ちよさが忘れられず、しかも廃番だったので買い直した。そしてまた手放せる気がして売った。3回目に買いなおすことになったら、さすがにずっと持っているかもしれない。

・最近、家から「タオル」を手放してすべて「手ぬぐい」に変えてみた。手ぬぐいは素晴らしい。多用途に使えるし、何よりタオル界の常識を覆すほど乾くのが早い。使ったその場に吊しておくと次に使うときには乾いている。洗面所で手を洗ったら手ぬぐい、洗い物をしたら手ぬぐい、シャワーを浴びたら手ぬぐいで拭く。僕の場合だとバスタオルは洗濯物の3分の2ぐらいを占めていたようだ。かさばるタオルがないと洗濯物も極端に少なくて済む。手ぬぐいの肌触りはよくない、だが便利さに人が慣れていくように、不便さも人は慣れる。タオルを使う機会があると、その気持ちよさにいちいち感激してしまう。自分で幸せのハードルを下げるのは楽しい。タオルの代わりに、手ぬぐい、いってみますか!とやってみるのもとても楽しい。

・ぼくは最近、まな板や食器洗いスポンジも何でも「干す」というこんありさんに影響を受けて、スポンジを干し始めた。苦手だった吸盤つきのスポンジ置きを捨てられた。こんまりさんは、まな板やスポンジはベランダにはない、という常識にとらわれなかったのだ。このモノはこれだけに使う。何かするためにはこのモノが必要。便利さにとらわれえばモノは増える。モノの常識から離れられれば、モノはさらに減らせる。

・モノを減らすと家事にかかる時間は、本当に圧倒的に減る。部屋にモノを置かず、ミニマルにしていると、掃除にかかる時間は激減する。服を少なくすると洗濯の手間も減るし、今日何を着るか、迷う時間も減る。僕がかつて汚部屋に住んでいた頃、太陽の光が嫌いだった。明るい光で目立つホコリが嫌いだった。完全な夜型人間で、常に雨戸を閉め光をシャットアウトしていた。今は太陽の光で起きるようになった。目覚めると部屋はいつもキレイで、起きるのすら楽しい。自然と以前より早起きになる。早起きで生まれた朝の時間もぼくには大きい。

・この春、僕は引っ越しをした。事前にパッキングはなしで、普段生活しているままの状態から、荷物をすべて出すまで30分しかかからなかった。照明を外したり、洗濯機を外したり、そんな時間も入れて30分。着る服で迷う人は、普段出かける前に30分ぐらい使っているかもしれない。引っ越しに時間がかからないから、普段の外出と同じような気軽さで、これからは引っ越しができる。

・家の中が簡素でキレイだと、ダラダラしている時間も減る。以前は休日もよく夕方までベッドでダラダラしていた。「昨日の洗い物しなきゃ!あと掃除機もそろそろかけなきゃ、というかこのダラダラ寝てるシーツいつから洗濯してないのかな。よしやろう、どれからやるのが一番効率がいいかな、洗濯してる間に、掃除&洗い物をする。なるほど、これだ。・・・いや今この着てる服も洗いたいから、この服のまま掃除してから洗濯しようかな。・・・なんかめんどうになってきた。とりあえずテレビをつけて、スマホを開いて・・・」。以下、永遠ループ。モノが少ないと、毎日やらなければいけないことが少ない。目の前の雑用を次々片づけるので、溜まらない。すると何事に置いてもキビキビ動けるようになる。

・僕は持っているモノをすべて把握しているし、モノのあるところもいつも一緒なので、家で探しモノをする時間はゼロだ。持っているモノを把握していると、「どこにあるか」だけでなく「あるかどうか」もすぐにわかる。「えーと、ガムテープはどこかにあったけな?」などと考える時間もいらない。僕の家にはガムテープは置いてないので、すぐにわかる。何かの説明書も保証書も、一見重要そうに見える書類も、すべてすぐにスキャンするか、捨てる。「ない」ことがすぐにわかれば、実はいくらでも対応が利く。モノが少なければ、失くすモノ自体も少なくなる。ミニマリストは、外出するときに持ち歩くモノも少なくなるので、忘れなければいけないモノ自体も減っていく。忘れモノを取りに帰る時間も減る。

・次に引っ越すなら、さらに狭い部屋に引っ越したいと思う。今の部屋の20平米も僕には少々広すぎたようだ。ドミニック・ローホーさんのように12平米ぐらいの部屋が素敵に思える。狭い部屋の方がもはやぼくには嬉しいが、ありがたいことに部屋が狭くなれば家賃も下がる。あれを置くにはこれだけの収納スペースが必要、リビングには何畳必要、そんながんじがらめの検索条件から自由になえた。引っ越しにかかる時間もわずか。ぼくはモノを捨てて、思い立ったらいつでも気軽に引っ越せる自由を手に入れたのだ。

・僕は東京の不動前というところに住んでいて、家賃は6万7千円。iPhoneは手放せない。食事をすべて自炊にして、お弁当男子になれば、手取り10万円もあれば楽しく暮らしていける。図書館で本を読んだり、公園を散歩するだけで、もう充分楽しい。

・モノを捨てて、ぼくは自分を誰とも比べなくなった。以前は誰かと比べてみすぼらしい部屋に住んでいる自分が恥ずかしかった。欲しいモノを欲しいだけ買える人を見て、羨ましくもなったりした。今はもうそんな気持ちとさよならできた。永遠にインフレを起こしていく「持ってる天下一武道会」に参加するのをやめたからだ。

・もう時間はある。自分を人と比べず、人の目線も恐れない。日々の家事、雑事をこなせるようになることで、自分も好きになっている。すると自然と「行動」できるようになってくるはずだ。行動を阻むものは何もない。こうしてミニマリズムの好循環が始まる。小さな渦からスタートした好循環は、次第に大きな円を描き出すようになる。人目を気にしてばかりいて、何も挑戦できなかったぼくが行動したこと。
 ・初めてダイビングに挑戦した(勉強してから始めよう、と思い早数年経過していた)
 ・座禅を習慣にした(小池龍之介さんの座禅セッションに緊張しながら参加した)
 ・ジムのヨガプログラムに参加した(身体が硬いので、笑われるのでは?と恐れていた)
 ・会いたいと思った人に連絡して会えるようになった(有名人でも誰でも会ってくれる)
 ・全国で開催されているミニマリストオフ会に参加した(いつも本当に楽しい)
 ・ミニマリストオフ会を自分でも企画した(人見知りだったぼくが、よくもまぁ・・・)
 ・ネットを通して出会った人と、友人になれた(全国各地に会いにいける友人ができた)
 ・ウェブサイトを立ち上げた(以前は自己発信するような人間はクソだと思っていた)
 ・Twitterを始めた(以前は、Twitterなんてやる人間は・・・<以下略>)
 ・10年住んだ部屋からついに引っ越した(30分かかったが、次は20分かからないと思う)
 ・無理めの好きな女の子に思いを伝え、付き合えた(以前の自分なら絶対できなかった)
 ・何より、1冊の本を書いた(以前のぼくならこう言った。やめとけ、恥をかくぞ!)
付き合えた女の子には、その後こっぱみじんに振られたが、まだまだミニマリズムが徹底できてなかったせいだ、と自分を慰めている。相手がどう思うかばかり考えていたのだ。これからは、何もない部屋で英語を集中して勉強する。自分にとってまさかのサーフィン、登山などのアウトドア、バイクの免許も取ることも計画している。超クソインドアだったぼくは、どうかしてしまったのだろうか?知らない間に宇宙人に誘拐されてチップでも埋め込まれでもしたのか?違う、モノを捨てたのだ。

・アップルを追い出されたジョブズがカムバックしたとき、まず手始めにしたことは蜘蛛の巣が張ったような書類や古いマシンをすべて博物館に寄贈したことだという。ジョブズは最初の仕事としてモノを減らしたのだ。ジョブズは「世の中を変える商品を出す」ことに集中したかったので、それ以外の大事でにものは、すべて減らした。「何をやるか」ではなく「何をやらんか」を重要視した。ジョブズは本当に、完璧なミニマリストだった。とにかく「減らした」人だった。

・ミニマリストには、瞑想や座禅、ヨガを習慣にしている人が多い。考えてみるとこれはごく自然なことでもある。モノを減らすと、自分の意識は「外側」にあるモノで煩わされることが少なくなる。すると意識は自分の「内側」に自然と向かう。かつてぼくも「瞑想」なんて、スピリチュアルで、怪しすぎ!と偏見を抱いていた。そんなぼくも、僧侶の小池龍之介さんの座禅セッションに参加したことがきっかけで座禅を組み、瞑想することを習慣にした。なにせ効果がてきめんだったからだ。瞑想中にもついいろいろなことを考えて、勝手に飛んでいく自分の意識を、集中してただ呼吸することに連れ戻す。すると普段から集中力は高まる。普段の自分の意識の流れもはっきり掴み取れるようになる。ぼくにとって座禅や瞑想は、「自分OS」の再インストールぐらいの破壊力があった。グーグルもフェイスブックも、禅と瞑想に夢中だ。グーグルなどは瞑想の講座を開き、ついに歩行瞑想用の迷路まで社内に作ってしまったという。もはや瞑想、座禅、ヨガといった内省の時間なくしては、情報過多のノイズに「自分」が溺れてしまうのだ。

・何人ものミニマリストに会ってきたが、太っている人はいなかった。これはなぜだろうか?今までの片づけ本や、モノを捨てるための本にも、モノを減らした副次的な効果として「痩せる」ということが言われてきた。ぼく自身も汚部屋時代と比べて、体重は10キロほど減った。停滞していたモノが流れ出すと、気の流れがよくなり、体も痩せる、こんな風に言われてきた。モノを捨てると痩せる。これにはいくつか理由があると思う。太ってしまうのは単純に体が必要な以上に食べているからだ。そして必要以上に食べてしまうのは、食べることがストレス解消になるから。人は食べている間は、ストレスを忘れることができる。お酒を飲むこともそうだろう。モノを最小限にまで減らせば、モノに煩わされたり、ムダなエネルギーを吸い取られることもないからストレスは減る。人と比べることもなければ、自分を恥じることもないのでさらにストレスは減る。食べ過ぎる原因のストレス自体が減っているので、食で解消する必要はない。

・ミニマリストは何度もモノに問いかけてきた結果、自分の「欲望」をはっきり認識し、コントロールできるようになっていると思う。モノを最小限にまで減らすには、本当に「必要」なモノだけを残すことが肝になる。単に「欲しい」だけのモノは持たない。モノを最小限にすると、自分の「欲望」の認識力が高まる。どこまでが「必要」なモノで、どこからが「欲しい」モノなのかはっきり判別できるようになる。これはモノだけでなく「食欲」も同様で、必要な食事の量がはっきり意識できるから、必要以上に食べないのだ。必要なだけのモノを持つことで「自分にはこれで充分満足だ」という感覚もつかんでいる。だからたくさん食べなくても満足ができる。ミニマリストはモノがあることんほストレスもないし、自分に必要で、充分満足できる、必要な食べ物の量がわかっている、だから痩せるのだ。また「ちょこまかダイエット」という日常生活でちょこまか動いてカロリーを消費するというダイエット方法もあるが、部屋が広くなり、家事も楽しんでやっているので、確かに小さな積み重ねがダイエットにつながっているのかもしれない。僕も何もない広い部屋でよく野球のピッチャーの真似をしている・・・。さらには普段の荷物も軽く、行動的になれるので、ぼくはよく歩くようになった。モノを最小限にすると痩せる。嘘みたいだが、本当に痩せるのだ。ぼくは太っていたが、もうメタボになることはないだろう。

・禅には食事の前にするお祈り、「五観のげ」がある。簡単に現代語にまとめると
1 目の前の食事の来歴に思いを馳せる(どんな風に育ってきた食べ物か、誰のどんな手がかかってここまで運ばれてきた食べ物なのか、各行程を考えてみる)。
2 この食事に値する徳と行いを、今日の自分は積んだのだろうか?と自問する。
3 貪り急ぐことなく、他のことは考えず、目の前の食事だけに集中していただく。
4 おいしいか、まずいかというグルメのためでなく、この命を支えるために食べる。
5 自分が成し遂げたい目的のために、この食事をいただく。
このお祈りは強力だ。5万円のレストランに1千回行くより、このお祈りを1千回の食事ごとに問いかけてみた方が、はるかに豊かで満足した気持ちになれる。食事にだけ集中し、食事があることに感謝し、食事だけに集中する。それだけでなく食事ごとに自分の行いをチェックできるのだ。スティーブ・ジョブズは毎朝鏡を見ながら「今日が人生最後の日だとして、今日の予定を自分は行いたいだろうか?」と自問した。そしてこれを33年間も続けたという。毎日自分がぶれていないか、ジョブズはチェックした。この五観のげのお祈りも毎日それ以上の回数、自分の行動をチェックすることができる。

・今ぼくは通勤している、毎日飽き飽きしている通勤だ。前の乗客がSuicaの残高不足で改札でもたつく・・・しかしこのSuicaというやつは本当に便利ですばらしい、なんという発明だ。エスカレーターの両側を埋めている2人組みがいる・・・この片側を空けるという、日本の文化はなんと徳高いのか。電車に乗ればギュウギュウ詰めだ・・・いやたくさん人がいてありがたい、映画のように自分以外が絶滅した世界に住んでなくてよかった。今日はかなり暑い・・・けど会社に行けば扇風機もエアコンも効いているだろう。人に自慢できる給料ではない・・・でも毎月充分なお給料をもらっている。今日もいつもと同じ仕事だ・・・しかし集中すれば楽しく充実感もある。苦手な仕事相手がいつものように電話で小言を言ってくるだろう・・・それを自分の糧にすればいいだけだ、相手も疲れている。後輩にはもっとしっかりしてほしい・・・だがぼくの仕事を文句も言わずいつも手伝ってくれる。連日遅くまで働いているので疲れが溜まっている・・・だが病気でもないし、まだまだ元気で仕事ができる。ぼくはヤバイくらいの幸せを感じてしまった。あなたはどうだろうか?こんな風に「今」に「感謝」し続ける。すべての「今」を「肯定的に見続ける」人がどうなるかは明らかである。ポジティブで、寛容で、諦めない。親切で、優しく、何よりいつも幸せそうだ。いつしか「現実」を変えていくだろう。

・何よりぼくが変われたのは、モノを減らして気づけた「感謝」である。すべての「今」に感謝し続けたい。すべての「今」を肯定的に見続けたい。ミニマリズムは「目的」ではなく「手段」である。ミニマリズムを通して気づけた大事なことが僕にはたくさんある。だが、僕が気づいたことや、さらに多くのことにすでに気づけている人はミニマリストになる必要は、全然ないと思っている。ミニマリストになって気づけた大事なことを、その後も大事にし続けられるなら、モノをもう一度増やしたっていいのだから。

・僕が発見した大事なこと。それは「人」だ。家族や友人だけでなく。美しい人だけでなく、才能ある人だけでもなく。意見が合う人も、合わない人も。今日会うすべての人がぼくの目的だ。ぼくの目の前に、「今」いる人こそが、ぼくの「目的」である。

良かった本まとめ(2016年上半期)

<今日の独り言> 
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