いいね~おいしいね~

自腹で買ったり食べたものなど実体験に基づき厳選紹介!ぜひ参考にして頂き、より良い人生や日本経済等活性化につながれば幸い♪

「まっぷる名古屋’17」はとてもオススメ!

2016年12月02日 01時00分00秒 | 
「まっぷる名古屋’17」の購入はコチラ

 1泊2日で名古屋へ旅行し、「まっぷる名古屋’17」がとても活躍したので紹介したいと思います♪

「まっぷる名古屋’17」は「るるぶ」と並ぶ、有名な観光情報誌ですが、毎年更新されて、いつも最新情報が掲載されているのが素晴らしいですね♪

 今回の「’17」では、最新情報として2016年3月9日にグランドオープンしたばかりの大名古屋ビルヂングや2016年6月17日に開業したKITTE名古屋についても付録1で詳しく紹介されていました♪

 また、読者限定の無料スマホアプリを利用でき、スマホにこの本の内容をダウンロードすることにより、この本なしで、スマホでこの本の内容を確認することができます♪
 具体的には、この本の中で袋綴じになっている部分を開くとQRコードがあるので、それで読み取るだけです♪

 この本を持っていくのが重くて大変であれば、このスマホアプリを利用するのも便利だと思います♪
(今回の私の場合は、結構地図を見ながら歩くので、あえてこの本を持っていきました♪)


 「まっぷる名古屋’17」の内容についてですが、「なごやめし」について、まとめられているのは素晴らしかったですね♪

具体的には以下の種類となります♪

・みそかつ
・手羽先
・ひつまぶし
・味噌煮込みうどん
・きしめん
・モーニング
・台湾系グルメ
・名古屋チェーン
・居酒屋
・小倉スイーツ
・レトロ喫茶
・個性派グルメ

 私の場合は、これらを利用して、ひつまぶしは「いば昇」、モーニングは「旅籠茶屋かやかや」を楽しめましたね♪

「いば昇」は老舗らしい風格があり、おいしく「ひつまぶし」はうな丼など3種類の味を楽しめましたね♪


↑いば昇の「ひつまぶし」

また「旅籠茶屋かやかや」は朝食食べ放題で、特になごやめしの「どて煮」や「エビフライ」も楽しめたのは良かったです!


↑旅籠茶屋かやかやでの食事

 そのほかの食事としてはは、最初のページの方に掲載されていた手羽先サミット2015金賞受賞の「鶴八」や、栄周辺ご褒美ランチとして掲載されていた「旬彩 神楽家」で美味しく頂けました♪

「鶴八」では手羽唐揚やどて煮、みそ串かつなど、なごやめしを堪能できましたね♪
まさしく創業40年の老舗のザ居酒屋でしたね♪


↑「鶴八」での手羽唐揚

また、「旬彩 神楽家」は上質な料亭で、個室だし、店内が綺麗なだけではなく、料理も美しく、そして美味しくてとても素晴らしかったです♪
さすが料亭です♪


↑「旬彩 神楽家」の料理


 それから、観光としては、「メーグルでめぐろう 名古屋観光スポット」の案内が素晴らしかったですね♪

「メーグル」とは、名古屋中心部の主要観光スポットをめぐるルートパスで、このバスを利用して、名古屋テレビ塔や徳川園、ノリタケの森を楽しむことができました♪


↑メーグル


↑名古屋テレビ塔

特に徳川園は、大名庭園で、ちょうど紅葉もあり、美しくて、ゆっくり癒せてとても良かったです♪


↑徳川園

また、「ノリタケの森」もとても素晴らしかったですね♪
園内はどの施設も綺麗だし、公園も広くて綺麗でした!
ウェルカムセンターでノリタケや日本の明治時代からの歴史も学べましたし、ショップでは、真っ白でデザインが良い陶器のお皿も購入できて、とても嬉しかったです♪


↑ノリタケの森の美しい庭


↑ウェルカムセンターでノリタケの歴史を学ぶ


↑購入したお皿

 そのほか、観光としてはこの本を参考に、以前から念願の熱田神宮を楽しむことができたのは嬉しかったですね♪


↑熱田神宮

この熱田神宮は、織田信長が桶狭間の戦いの直前に祈願して、大勝した後はそのお礼として信長塀を建て、それが現在まで残っているというのは感動ものでした♪


↑信長塀

なお、この本でも紹介されていた「ドニチエコきっぷ」を利用して、600円で、地下鉄やバス、上記のメーグルが乗り放題なのは、嬉しかったですね♪
おそらく、半額以下の運賃に抑えられたと思います♪


↑ドニチエコきっぷ

「まっぷる名古屋’17」は、この1冊で名古屋観光を十分楽しめ、とてもオススメです!!

良かった本まとめ(2016年上半期)

<今日の独り言> 
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イタリアのフィレンツェでのトスカーナ風料理はオススメ!

2016年11月30日 01時00分00秒 | 外食
イタリアのフィレンツェにある「Rubaconte」というリストランテでランチを楽しみました♪


↑店構え

ツアーで指定されているレストランで、いつものように日本語のドリンクメニューを見て、ドリンクを注文します♪


↑日本語ドリンクメニュー

今回は白のスパークリングワイン3ユーロを注文し、すぐ運ばれました♪


↑白のスパークリングワイン

少し辛目でスッキリとして美味しいです♪

そして、フィレンツェはトスカーナ地方なので、トスカーナ風前菜が運ばれます♪
フィレンツェは肉が有名なようで、生ハムやサラミなど肉が盛りだくさんです♪
どれも美味しいですが、塩分が多めかもしれません^_^;)
それにしてもボリュームたっぷりです♪


↑トスカーナ風前菜

そして、ピザが運ばれますが、その巨大さに驚き!
日本のLサイズが一人分として運ばれます♪


↑シェフの気まぐれピザ(カプリチョーザ)

シェフの気まぐれピザ(カプリチョーザ)とのことで、オリーブやイタリア独特の野菜、そしてチーズがたっぷりな焼きたてピザで、アツアツで美味しい♪

日本のように丸い刃物でピザを切るのではなく、ナイフとフォークでピザを食べます♪
なかなかうまく切れず大変です♪
しかし、この巨大さは大変で、端の堅いピザ生地まで食べるのはあきらめました^_^;)
中央部分の柔らかくてチーズたっぷりで美味しいところをメインに頂きます♪

ちなみにピザのメニューは以下となります♪
マルゲリータが5.5ユーロなので日本円で700円程度でしょうか。
リーズナブルですね♪


↑ピザのメニュー

 そして、最後にデザートのタルトが運ばれますが、これはごめんなさい。もうお腹いっぱいです^_^;)


↑タルト

 フィレンツェにある「Rubaconte」というリストランテは、トスカーナ風前菜やピザをお腹いっぱい堪能でき、オススメです!
ピザはシェアすることをオススメします^_^;)

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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コロッセオ(イタリア ローマ)へ行って来ました!

2016年11月28日 01時00分00秒 | イベント・外出
 コロッセオは、ローマ帝政期の西暦72年にヴェスパシアヌス帝の命により、4万人の奴隷を使って、ティトゥス帝の西暦80年に現在のイタリアのローマに造られた円形闘技場で、外観は4階建てで、高さ57m、長径188m、短径156m、周囲527mと巨大な建物で、当時収容人員5万人以上を誇ったようです。

実際に目の前で見ると、想像以上の大きさで、とても驚きましたね♪
しかも約2千年も昔に造られたとは本当に驚きです。


↑コロッセオ全体


↑コロッセオ左側拡大


↑コロッセオ右側拡大

 英語で競技場を指す colosseum やコロシアムの語源となっていますね。

 観客席は、身分・性別により仕切られ、猛獣と剣闘士、または剣闘士同士の凄惨な戦いが見せ物にされたようで、こうした見せ物を提供して庶民の人気を稼ぎ、社会に山積する問題から目をそらせることは、当時の支配者の重要な政策の一つだったようです。
 
当時はそのような見せ物を庶民は無料で観戦できたようです。

 剣闘士は、捕虜となった兵士や解放を目当てにした奴隷で、負けた剣闘士は観客に命乞いをし、観客がその剣闘士の生命を決めることもあったようです。
罪人の処刑も見せ物として行われたようです。

 ただ、5世紀の中頃、ホノリウス帝のキリスト教の公認後はこうした血なまぐさい見せ物は次第に下火になったようです。

 建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場とのことで、現在ではローマを代表する観光地で、映画ローマの休日でも主人公たちがバイクのベスパに二人乗りで疾走しますね♪

 ヴェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡目指しながら首都の再建を進めている時期で、緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討されたようです。

 当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアやキルクス・マクシムスしかなかったのも背景にあるようです。

 この新円形闘技場(コッロセオ)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなったようです。
この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため、円形闘技場建設時には基礎工事をいくらか省略することができるというメリットがあったようです。

 工事はウェスパシアヌス治世の70年に始まり、ティトゥス治世の80年に、隣接するティトゥス浴場と同時に完成・落成したとのことです。

 使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としたようです。

 なお、続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事が続けられ、一般市民や女性が座る観客席の最上層部と天幕が完成した。
地上から50mもの高さに天幕を張るために、ミセヌム海軍基地から派遣された海軍兵士が工事に従事したようです。

 構造はローマン・コンクリート(火山灰を利用したコンクリート)で出来ていて、鉄骨を用いないコンクリートにも関わらず幾多の地震の際も崩壊しなかったのは、全体が円筒形で力学的に安定していたためのようです。
素晴らしいですね。

ただ当初は鋼鉄は入れられていたようですが、後世で使用するために引き抜かれたようです。
そのため、コロッセオはたくさんの穴があるように見えるようです。


↑コロッセオの穴

 コロッセオの柱の様式には注目のようで、4Fはレンガを積み上げて柱に見立てたコリント式で、かつては日除けの天幕を張るために外壁にロープを渡していたようです。
 3Fもコリント式で、柱頭にアカンサスの葉をモチーフにした彫刻が施された柱が特徴で、装飾が細かく、繊細で優美な印象を与えるとのことです。
 2Fはイオニア式で、柱頭の左右に垂れ下がる渦巻き模様の彫刻が印象的です。完成当時は各アーチの下に彫像が1体ずつ置かれていたようです。
 2Fのもう一つはドーリア式で、装飾の少ないシンプルな柱が特徴で、ドーリア人がもたらした建築様式で、下部へゆるやかにふくらみ力強い形となっています。


 ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたようですが、、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残され、また地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたようです。

 コッロセオに使用されている建材は、実は中世を通じて白大理石やレンガが他の建築物に流用され、一種の採石場とされていたようです。
 その大理石はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されているようです。
 それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていることから、一種の聖地となっていたためのようです。

 ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになったようで、現在外周は半分程度が残っています。

 19世紀にようやく歴史的価値が認められ保存体制が進んだようです。
 ただ古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくようです。

 1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまいましたが、コロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけていますね♪

 なお皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されていて、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように工夫がなされていたとは素晴らしいと思います。

 それから円形闘技場に入るアーチは全周で80箇所あり、そのうち皇帝や剣闘士専用のものを除く76のアーチには番号が付されていたようです。
これはテッセラ(入場券)にその番号を記して混乱せずに入場できるようにするためのものと考えられています。
なるほど!

 初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能で、後には複雑な舞台装置を設置したためにそのような大規模演出は不可能となったようです。

 水を引き込んで海戦もしていたとは驚きですね♪

また人力エレベーターも存在し、剣闘選手の入場に用意されていたようで、現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っているようです。
また、猛獣はせり上げ式で登場させるなど高い技術が用いられていたようです。
エレベーターは80もあり、当時の観客は、どこから猛獣が出てくるのかも楽しみの一つだったようです♪

それから、コッロセオの横には噴水が作られ、それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」といわれ、闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと伝えられているようです。

なお、コロッセオの隣には凱旋門があり、キリスト教を国教としたコンスタンティヌス帝の時に、戦争に勝って315年にミルヴィオ橋の勝利を記念として建てられたとのことです。
(ただこれには異説もあるようです)


↑凱旋門


↑凱旋門

それから近くには皇帝たちが宮殿を建造した地であるパラティーノの丘が見えます。


↑パラティーノの丘

また少し離れたところには「フォロ・ロマーノ」が見えましたね。


↑フォロ・ロマーノ

イタリアのローマに行った際には、コロッセオ見学はとてもオススメです!

お勧めなお話(2016年上半期)

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「食をめぐるほんとうの話(阿部尚樹×上原万里子×中沢彰吾)」という本はとてもオススメ!

2016年11月25日 10時00分00秒 | 
「食をめぐるほんとうの話」の購入はコチラ

 「食をめぐるほんとうの話」という本は、「本当に食の安全を脅かすものは何か、本当に効能がある食品は何か、本当に食べてはいけないものは何か」といった疑問に真摯に答えた初めての書籍と自負されたもので、具体的には以下について書かれています♪

・炭水化物抜きダイエットの顛末
・食中毒
・食品添加物の実態
・たんぱく質・炭水化物・脂質の三大栄養素とビタミン
・トクホ
・ポリフェノール、イソフラボン、リコペン、セサミン等
・農薬
・遺伝子組み替え(GM)
・放射線
・東京農業大学の学食

 特に、食品添加物が食中毒を防ぐために活躍してその毒性については科学的に毒性試験等が行われていること、健康のためには三大栄養素やビタミンを幅広く摂取する必要があること、イソフラボンやリコペン、セサミン等の科学的効果、農薬や遺伝子組み替え、放射線等の実態について興味深かったですね♪

また、東京農業大学の学食の1つ「すずしろ」は以前行って美味しかった東京の渋谷の「松木家」が経営しているとは驚きました♪

「食をめぐるほんとうの話」という本は、現状の食に関して真摯に真実を追求したもので、健康的な食を考える上で、とても参考になると思います♪

とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・ここ数年、ダイエットには炭水化物を食事から抜くのが一番という説が広まっています。炭水化物は万病の元だから食べないほうがいいという説まで聞かれます。はたして炭水化物悪玉論は本当に正しいのでしょうか?筆者(中沢)は2014年4~7月の4カ月間、断続的に炭水化物をほとんど摂らない生活を試みました。その顛末をご紹介します。ちなみにこのトライアルには切実な理由がありました。会社勤めをしていた40代のころの体重は58kg。その後、主夫として家で家事をしている時間が多くなると、約10年で70kgを超え、その分が腹部に集中したため会社員時代に買ったスーツがすべて着られなくなりました。体を元に戻して服に合わせることにしたのです。まず、食事の回数を1日1~2回に制限。朝は起き抜けに市販の野菜ジュースを1杯。昼はなにも食べずブラックコーヒーや水などで紛らせました。夜は気の済むまでたくさん食べましたが、肉や魚をメインにし、野菜はサラダか、野菜炒め、味噌汁の具などとしてできるだけ多く食す。炭水化物はせいぜいが小麦粉を原料とする餃子の皮程度。すると、2~3日たって体が徐々に慣れてきたせいか、昼間はさほど空腹を感じなくなりました。体重は見に見えて減っていき、毎日、体重計に乗るのが楽しくなり、その喜びがさらに我慢を後押ししました。ところが、2週間もたつと体に変調が表れます。一般に暴飲暴食して内蔵が弱ったよき、唇の両端がただれて痛むことがあります。その症状がひどく出て口を開けられなくなり、さらに口内炎もできて、ものが食べにくくなりました。これはとても意外でした。「1日に必要な野菜の栄養が摂れる」とうたっているジュースを毎日飲んでいましたし、夕食にトマトやキャベツ、人参、ダイコン、シシトウ、ホウレンソウなどを輪番で食べ、ワカメやコンブも食べていたので、必要な栄養は摂れていると思っていたからです。意外なことがもうひとつ。夕食でたっぷり食べても飢餓感がなくなることはありませんでした。肉や野菜は見るのもいやなのに、白いご飯やうどんが無性に食べたくて、それはのどの渇きにも似た切実な渇望で、テレビでおいしそうな丼ものの映像など見てしまうと、もう我慢できません。深夜営業している牛丼屋に走ったものの、外の風にあたると気分が変わり思い直して途中で引き返すという、無駄なことを何度か繰り返しました。そうこうするうちに体調はどんどん悪化。朝、ベッドを出る際は、必ず立ちくらみを起こし、時折何かの拍子に動悸を感じることも。大便の回数は2日に1回から、出ない時は1週間に1回になり、ひどい便秘に苦しむことに。体重は2カ月程度で目標を達成しましたが、体調はますます悪くなり、じっとしているのに疲労感、倦怠感、脱力感が増し、ついにはモノを摂るために腕を上げることすらおっくうになってしまいました。手先がしびれたり震えたりしてキーボードを打てず、仕事ができなくなったため、このダイエットは中止せざるを得なくなった-。炭水化物は悪玉のはずなのに、どうしてこんな惨状になってしまったのでしょうか。

・食品添加物はどのような基準に照らし合わせて使用が認められるのか?指定される条件として以下のような要件があります。
①安全性が実証または確認されていること
②使用することで消費者に利益が与えられること
 ・食品の製造・加工において必要不可欠であること
 ・食品の栄養価を維持させること
 ・微生物による腐敗や酸化による変質など科学的な変化を防ぐこと
 ・食品の見た目を美しくすることなどで嗜好性を高めること
 ・その他、消費者に利点を与えること
③すでに食品添加物として指定されているものと比較して同等以上の効果を示すか、あるいは、まったく異なる効果を与えること
④原則として科学的な分析法などにより、添加されている用量などを確認することができること

・本来、三大栄養素と主要なビタミンは、その化学的組成からヒトの体内での変化、各器官への作用など、全容がほぼ明らかになっています。ヒトが健康を維持するために必要な量も解明済みです。毎日一定量の摂取が必要ですが、科学の成果に基づいて策定された標準的な食生活をしていれば問題はありません。三大栄養素と主要なビタミン・ミネラルの作用の仕組みや必要摂取量を知り、心身のバランスを維持することこそが、健康の基礎なのです。炭水化物をまったく摂取しないダイエットは、病気の原因になり得ます。脂質も同様です。肉類だけ、海藻だけ、野菜だけといった極端な偏食も、体調不良を引き起こします。無理なダイエットでビタミンが不足し、未病、疾患に至る人がいる一方、逆にサプリメント(栄養補助食品)などによる特定のビタミンの過剰摂取で体調を崩す人もいます。

・ヒトの体を構成するタンパク質を作るのに必要なアミノ酸は約20種類。そのうち体内で合成することができないアミノ酸を「必須アミノ酸」と呼び、食物から必要量を摂取しなければなりません。タンパク質を多く含む食品であっても、必須アミノ酸が少ないものは栄養価が十分とはいえません。一般に動物性タンパク質のほうが、植物性タンパク質よりも栄養価としてはすぐれています。人間が一日に摂取したほうが良いタンパク質の量は、ざっくりいって男性が60g、女性が50g程度とされていますが、では、タンパク質の摂取にはどんな食品が効率的なのでしょうか。アミノ酸スコアという比較データがあります。WHO/FAO/UNUが決めた理想的なアミノ酸パターンを100とした場合の数値で、牛乳や肉類、魚類はいずれも100、大豆も100ですが、エビやアサリは約80、精白米は約60、小麦粉は約40。ご飯などの主食だけではタンパク質の摂取量は不十分ということになります。また、ヒトが病気になると、多くの場合、体内のタンパク質の分解が増加するため、必要量が増えます。肝炎や肝硬変では通常の1.5倍、がんの場合も体全体のタンパク質の分解が増加するので、タンパク質の摂取量を増やしたほうがいいのです。一方、腎炎などの腎臓疾患に限っては、タンパク質の摂取が腎臓の負担を増加させるため、減らす必要があります。なお、糖質や脂質が不足した場合、タンパク質にはさまざまに形を変えて利用されるという性質があります。小型の糖であるグルコースに変わり脳や赤血球に、また、脂質の代わりにケトン体となってエネルギーを供給します。

・炭水化物は、構成する分子の数によって単糖類、少糖類、多糖類に分類されます。このうちもっとも小さな単位が単糖類で、エネルギーは単糖類が代謝されることによって産出されます。同じ炭水化物でも、ヒトの体内で消化吸収されにくい食物繊維はエネルギーになりにくい物質です。また、「糖」質と呼ばれてはいますが、その多くは甘みを感じません。確かにサトウキビの茎などに含まれるショ糖(スクロース)は甘く、砂糖の主成分となりますが、糖質は甘くても甘くなくても重量あたりのエネルギー量はほとんど変わらず、100gあたりの炭水化物含有量は砂糖100%に対し、米は約80%です。ヒトにとってもっとも重要な糖質は、米や麦に含まれるデンプンで、デンプンは唾液や膵液に含まれるα-アミラーゼによりマルトースなどの少糖類に分解されます。少糖類は小腸でさらに分解されグルコースなどの単糖類になり、小腸の吸収細胞で吸収され肝臓に運ばれます。グルコースは体内の様々な組織に素早くエネルギーを供給できるように血液中に血糖として流れていきます。ヒトは食物中の糖質のうち98%を吸収し、大部分は多糖類であるグリコーゲンとして肝臓や骨格筋に貯蔵します。エネルギーが必要になると、グリコーゲンがグルコースに分解され、さに酸化・分解されてエネルギーを発生させるのです。ヒトの脳は重量にして全身の2%に過ぎませんが、エネルギーは全体の20%を消費します。ところが脳にはグリコーゲンとしてまったく貯蔵されていないため、血糖値が下がり過ぎるとヒトは意識を失ってしまいます。物騒な話ですが、首を絞められたヒトが、心臓や肺が機能していても意識を失ってしまうのは、脳にエネルギーが供給されなくなるためで、血流が回復すれば再び意識は戻ります。糖質の摂取量が足りない場合、体のタンパク質や脂肪組織が分解されてエネルギーとして利用されます。逆に糖質を摂り過ぎると、余分なものは脂質に変換され体脂肪となるのですが、その変化の過程は複雑です。デンプンが腸でグルコースとなり肝臓に運ばれピルビン酸に、ピルビン酸はアセチルCoA、さらに二酸化炭素と反応してマロニルCoAという物質になり、これらから脂肪酸が合成されます。こうしたメカニズムは、食糧不足でもすぐに餓死しないように獲得した遺伝体質とみられ、「倹約遺伝子」などと呼ばれますが、飽食の時代の今日では脂肪の過剰蓄積をもたらしています。

・食物繊維は栄養源にはなりにくいのですが、健康を維持する上で大切な効果があります。唾液と混ざると体積が十数倍になり、胃に到達して胃液と混ざっても膨潤。小さじ一杯の食物繊維が胃の中ではコップ一杯分にもなり、これによって満腹感が得られれば、肥満やメタボリックシンドローム(メタボ)を防げます。ただし、食物繊維には水溶性のものと水に溶けないものと2種類あり、両方がそろっていないとこの効果は小さいとされています。小腸に達した食物繊維は、グルコースをからめとってグルコースの吸収を阻害するため、血糖値の急上昇を避けられます。本来、その役目を担うのはインスリンで、肝臓や脂肪細胞にグルコースを取り込ませて血糖値を下げるのですが、その取り込み機構が壊れると血糖値を下げられず、インスリンの過剰分泌が起こり、糖尿病の発症につながります。つまり食物繊維をたくせん摂取すると、インスリンの過剰分泌を抑え糖尿病にかかりにくくなります。食物繊維にはコレステロールの排泄を促す機能もあり、動脈硬化や高血圧を予防します。また、大腸内では腸内細菌によって弱い発ガン性を持った物質が生成されますが、食物繊維はこれを早めに体外へ排泄する効果があります。とにかく食物繊維は膨らみながら各所で有害物質を取り込んで、さらに一緒に便として体から排出してしまう性質があります。

・ヒトの腸内には100兆個あまりの細胞が住んでいます。これは、体の全細胞より多い数です。この莫大な量の腸内細菌があるために、病原菌は容易には繁殖できません。ただし、腸内細菌には善玉と悪玉があり、何らかの原因によって悪玉菌が多くなると発がん物質が生成されオナラの臭さが増しアレルギーを引き起こすとみられています。ビフィズス菌や乳酸菌は善玉菌で食物繊維をよく食べ、乳酸や酢酸などの酸を生成します。悪玉菌は酸性に弱く、ビフィズス菌や乳酸菌は酸性に強いので、食物繊維をたくさん摂取すると悪玉菌を減らせます。ヨーグルトなどのビフィズス菌や乳酸菌は、胃酸で死んでしまうから無意味だと主張する人もいますが、それらの菌が食物繊維の間にあれば、胃酸から保護されて生きたまま大腸に達します。到達する菌が一個だけだとしても、活発に細胞分裂して一日もたたずに1億個に増えて有効にはたらきます。

・日本で食物繊維の重要性が叫ばれるようになったのは、食生活の欧米化が背景にあります。肉を多く食べるようになり、穀物や野菜の摂取量が少なくなりました。食物繊維の多くは植物から摂るので摂取量が減ってしまい、これが糖尿病やがん発症の増加原因のひとつとみられています。食物繊維が適正に摂取できているかどうかは便でわかります。尋常ではない嫌な臭いがする場合は論外ですが、便が水に沈むかどうかをチェックし、完全に浮きも沈みもしない状態なら適正です。なお、ゴマはすりつぶして食べなければダメといわれる理由は、果皮が食物繊維でできているため、そのまま食べるとヒトの消化器官のどこでも分解されず体内を素通りしてしまうからです。ゴマをそのままふりかけるより、すりゴマを提供している店のほうが健康効果を期待できます。

・脂質はメタボのイメージに直結し、摂り過ぎは禁物とされています。確かに、脂質は糖質やタンパク質に比べて、単位量あたり2倍以上のエネルギーを含んでいます。摂取した場合に熱として消費される割合は、糖質が6%、タンパク質が30%に対し、脂質は4%に過ぎません。そのため脂質の摂取が最も太りやすいことになります。また、水になじまない性質なので、消化に最も時間がかかります。肉類を大量に食べると胃にもたれる感じがするのは、そのためです。脂質、特にコレステロールは細胞膜や神経組織の構成成分であり、血液や脳、神経などの細胞形成に必要不可欠です。また、体内のホルモンのはたらきを正常に保つ役割を担っています。栄養学者は「健康を保つ上で脂質ほど重要なものはない」とさえ言い切ります。それは人間の体の全細胞をかたり作り、正常に機能させるために脂質が欠かせないからです。単純な脂質排斥論は、危険な極論に過ぎないことがわかります。

・脂質は体をかたち作る重要な成分ですが、必要な必須脂肪酸は体内で作ることはできず、食物から摂取するしかありません。この点でも極端な脂質制限は危険です。脂質には動物の脂、植物の油、魚の油の3種類があり一般液に4対5対1の割合で摂取するのが理想とされています。

・脂質で問題になるコレステロールは、細胞膜、胆汁酸、アレルギー治療などに使われる副腎皮質ホルモン、および精巣、卵巣での性ホルモンの材料となります。血液中のコレステロールが増え過ぎると動脈硬化のリスクが上がります。コレステロールを運んでいるLDLが活性酸素により酸化されると、異物除去の役割を持つマクロファージに異物と認識されて食べられてしまい、ともに血管の外側で泡状になり硬化します。それが内側に押し出されて動脈を圧迫するのが動脈硬化で、心疾患など重大な病気の原因になります。ひとくちにコレステロールといっても役割によって善玉と悪玉とがあり、動脈硬化を引き起こすのは悪玉のほうです。コレステロールはある種のタンパク質(LDL)とのセットで、肝臓で作られ、末端の組織へ運ばれます。一方、HDLとのセットは、末端の組織で余ったコレステロールを肝臓へ運びます。つまり、HDLが体の各部で余ったコレステロールを除去するから「善玉」なのに対し、LDLはコレステロールを血中を通って各組織にどんどん供給するのは生体にとって必要なことですが、血中であまってしまって参加するため「悪玉」なのです。一般に動物性脂肪は血中コレステロール濃度を高め、植物性脂肪は血中コレステロール濃度を下げる働きがあります。

・脂質のうち、体に悪いことが確認されているのがトランス脂肪酸です。マーガリンなどを作る際、液状の脂肪酸を固形化するために水素を添加します。その過程で発生するのがトランス脂肪酸で、自然界にも存在しますが、その量はごくわずかです。ヒトの体内で悪玉コレステロールを増加させて病気のリスクを高め、虚血性心疾患(あるいは心臓病)の原因といわれています。さらに、細胞を覆う生体膜になるほかの脂質の動きを邪魔して、全身の細胞の機能を阻害するとされています。スウェーデンやスイスでは、食品中のトランス脂肪酸の含有量が規制されていて、米国では2015年6月、FDAが、トランス脂肪酸の食品添加の全面禁止を発表、「食品から排除すべき有害物質」と明確に規定しました。日本ではトランス脂肪酸の規制はなく、食品パッケージにトランス脂肪酸の表示義務すらありません。食文化の違いから、摂取量は欧米人の半分以下だから大丈夫と政府は主張しています。しかし、日頃からフライドポテトやスナック、菓子パン、コーヒーフレッシュ、マヨネーズなどをよく食べる人は欧米人並みに摂取している可能性があります。注意が必要かもしれません。

・ビタミンは人体をかたち作るものではありませんが、健康を維持するために必要不可欠な成分です。三大栄養素が体内で効果的に機能しエネルギーを生み出すためには、そこに働きかける酵素が必要となりますが、ビタミンはその酵素の活動を助ける役割を担っています。必要な量はごく少ないので、三大栄養素が多量栄養素と呼ばれるのに対し、ビタミンは微量栄養素と呼ばれます。

・ビタミンが必要量より足りなければ確実に病気になりますが、注意しなければならないのは、欠乏したからといって急に症状が出るわけではないことです。まず体の臓器や筋肉など組織レベルのビタミンが不足し、次いで血液や細胞レベルのビタミンが不足します。最初は何の症状もなく、潜在性欠乏症と呼ばれる状態。それが進行すると倦怠感やめまい、頭痛などの不定愁訴(疾病までには至らない不調)が出現しますが、医師に診てもらっても原因がわからないケースがほとんどで、このあたりは臨床的欠乏症といわれる段階。その先は症状がひどくなり、放置していると最終的には死に至ります。

・ビタミンには、脂溶性(A、D、E、K)と水溶性(B1、B2、B6、B12、ナイアシン、パントテン酸、葉酸、ビオチン、C)とがあります。脂溶性ビタミンは、肝臓などにある程度蓄えられますが、摂り過ぎると水に溶けにくいため、尿に混じっての排泄はされず、胆汁と一緒に腸内に排出されます。すると再び腸が吸収してしまうため、体内にたまりやすく過剰症が起こりやすいとされています。一方、水溶性ビタミンは、血液中の濃度が高くなっても腎臓から尿と一緒に排泄されます。そのため、これを単純に解釈して「多量に摂取しても害はない」とされてきましたが、近年ではやはり過剰に摂取すると体に悪影響があることがわかってきました。

・和食で大豆を多く食している日本人は、もともとイソフラボンが欠乏している可能性は低いとみられています。食品安全委員会の基準では一日あたりの必要摂取量は75mg。300gの豆腐一丁に含まれる量は80mgもありますから、体が特に変調をきたしていなければ、基本的に豆腐一丁で十分です。日本でも1990~99年に40~59歳の女性約2万人に食生活について追跡調査したところ、イソフラボンの摂取量が多いほど、乳ガンの発症率が低く、特に閉経後でエストロゲンが不足する女性の場合に顕著であるという結果になりました。循環器疾患、更年期障害、骨粗鬆症に対しても同様に効果があるとされています。

・実はイソフラボンの多様な機能の多くは、イソフラボン本体ではなく、その代謝によって生じる物質が担っています。そのひとつが1932年に妊娠した馬の尿から検出されたイソフラボン代謝産物の一種エクオールです。エクオールを体内で産生する体質の人は疾病にかかりにくく、エクオールは疾病にかかりやすいかどうかのバイオマーカーになるとされています。骨粗鬆症の場合。症状が出たマウスの皮下にエクオールの投与を4週間行ったところ、骨量の減少の抑制が確認されました。子宮重量などに変化はなく、これは生殖器官に副作用がなかったことを示しています。また、骨量の減少が顕著にみられる閉経後の女性が、大豆イソフラボンを通常の食事で摂取する量より多めに1年間毎日食べたところ、エクオールを体内に持っている場合は骨量の減少率が著しく低くなりました。エクオール産生は、腸内環境=腸内にどんな種類の細菌がいるかによって決まります。牛や羊、ヤギ、鶏、ラット。マウスなど、多くの動物が産生能力を持っていますが、ヒトの場合、日本人では半数、欧米人の場合は20~30%しか持っていません。エクオールを産生可能な人に限ると、乳がん、前立腺がんの罹患率低減、更年期障害の軽減、骨量減少の抑制作用が強いことが統計的にも確認されています。今では、排卵誘発剤や乳がん治療薬として使われているほか、骨粗鬆症や心臓血管の疾患に対して副作用のないサプリメントとしての効能が期待されています。

・エクオール産生に関わる腸内環境の改善には、フラクトオリゴ糖が役立つとされています。主にタマネギやゴボウなどの野菜に含まれる糖で、グラムあたりのカロリーは、砂糖の約半分の2kカロリー。多くの善玉菌にとってバランスの良い栄養源となっていることから、これをイソフラボンとともにラットに投与したところ、24時間後のエクオール濃度がフラクトオリゴ糖を投与しなかったラットに比べ倍になりました。

・強い抗酸化活性が知られるアスタキサンチンとは、ロブスターから見つかった赤色色素で、マダイ、サケ、マスなど身が赤い海の魚や、エビ、カニなどの甲殻類の色素として存在しており、多岐にわたる生理作用を持つ色素の総称であるカロテノイドの仲間です。アスタキサンチンはタンパク質と結合すると青緑色になるため、エビのブラックタイガーは黒っぽい色をしています。ところが、茹でるとタンパク質が熱変性して結合が切れ、鮮やかな赤色が現れます。それがアスタキサンチンです。アスタキサンチンの抗酸化活性の強さは、ビタミンEの100~1000倍といわれています。また、培養細胞を用いた試験では「がん細胞の増殖抑制」「炎症反応抑制」、実験動物を用いた試験では「発がん抑制」「固形がん成長抑制」「胃粘膜障害抑制」「糖尿病抑制」、さらにヒトを対象とした臨床試験で「皮膚の色素沈着防止による美白効果」「視機能改善効果」なども報告されています。多くの機能性が期待されるアスタキサンチンですが、さらにもうひとつ、ユニークな活性として「疲労改善効果」があります。

・カトチノイドの一種であるリコペンは、リコピンとも呼ばれ、食品因子として最も注目されている食品成分です。他のカロテノイドと比べシンプルな化学構造のため、生体膜中で自由に有効にはたらき高い抗酸化活性能を付与しています。含まれている食品は、トマト、スイカ、カキ、パパイヤ、金時人参、ピンクグレープフルーツ、マンゴー、杏子などに限られ、100gあたりの含有量は多い順にトマト、金時人参、スイカです。たばこなどに含まれる強力な発がん物質をラットに投与する試験で、リコペンは大腸がんの発がんに抑制傾向を示したという報告があります。リコペンの発がん抑制の作用の仕組みは、やはりその強い抗酸化作用による活性酸素の消去とされています。リコペンは美白作用も知られています。

・βカロテンは代表的なカロテノイドで、人参の黄色色素として多くの方が耳にしたことのある食品成分だと思います。ニンジンのほかにもめろん、グアバ、ケール、ビワ、赤ピーマン、ピーマン、カボチャ、ほうれん草など、多くの野菜や果物に含まれています。β-カロテンには、リコペン同様の作用機構により、発がん抑制や動脈硬化の抑制といった効果が知られているほか、抗アレルギー作用も報告されています。

・アントシアニンはフラボノイドという代表的なポリフェノールの一種で、pHの変化や金属とのキレート錯体を作ることなどにより赤、紫、青色など、さまざまな色調を示す植物色素として知られています。ブルーベリー、ストロベリー、ラズベリーなどのベリー系フルーツやナス、紫イモ、黒大豆、赤シソ、ブドウ、サクランボなどにも含まれています。アントシアニンも強い抗酸化活性を持っています。そのため、期待される機能性としては、抗動脈硬化作用に基づく老化防止作用、循環器系疾患の予防効果、抗潰瘍効果、抗炎症作用、抗がん作用などがあげられます。とりわけ最も注目されているものに、眼精疲労回復作用があります。ただここで注意しなければいけないのは、アントシアニンを摂取したからといって視力が良くなるとか、どんな目の病気にも効果があるというわけではないということです。

・クルクミンはアキウコンの根茎に含まれる黄色色素ですが、ウコンから作られる香辛料のターメリックの色素(カレー粉の素)といった方が読者のみなさんにはなじみ深いかもしれません。ウコンは古来、漢方薬の止血剤や健胃剤として使われてきました。ウコンの効果はそのほかにも、抗菌活性や抗炎症活性などが広く知られていて、機能性食品として特に期待の高い成分を含んでいます。クルクミンについて、現時点で科学的にわかっている主な生理活性としては、試験管内試験でのラジカル消去活性や脂質過酸化抑制活性、強い抗酸化活性による皮膚での酸化ストレス抑制作用があります。また、培養細胞を用いた試験でのがん細胞増殖抑制作用並びにアポトーシス誘導作用、マクロファージなどに対する免疫修飾作用、さらに動物試験におけるさまざまな臓器での発がん予防効果なども報告されています。

・ポリメトキシフラボノイドは、柑橘類に含まれるカンキツフラボノイドと呼ばれる共通の構造を持つ化合物群のひとつで、ノビレチンという物質が最も高濃度で含有されています。夏みかん、バレンシアオレンジ、温州みかんなどにも含まれていますが、シークワーサー、ポンカンなおのマンダリン類に特に高濃度で含まれています。果肉にはほとんど含まれていないため、市販の果汁飲料からの摂取は期待できませんが、シークワーサー・ジュースのように皮も一緒に圧搾する製法の果汁からは比較的高濃度に摂取できます。ノビチレンの生理活性としては、化学発がんモデルでノビレチンを塗布したら腫瘍発生抑制作用が認められたほか、作用の仕組みを検討する試験においても酸化ストレスの緩和など発がん抑制につながる試験結果が得られました。ほかにも血糖値の上昇抑制、慢性リウマチの予防効果なども報告されています。最近特に注目が集まっているのはノビレチンの抗認知症効果です。

・カプサイシンは、唐辛子の辛味成分として知られる食品因子です。これは、バニリルアミンというシンプルな化合物が炭素数10個の脂肪酸とアミド結合という形でつながった化合物ですが、唐辛子には、カプサイシンと脂肪酸部分のみ構造が異なる類縁体と呼ばれる化合物も複数含まれており、これは、総称としてカプサイシン類と呼ばれています。このうち、含有量が最も多く辛味強度が最も強いのがカプサイシンで、唐辛子がヒトの粘膜を刺激するのは、このカプサイシンに昇華性があり常温でも気化するからです。生理作用としては、体熱産生、神経興奮、減塩、抗酸化、抗菌、発汗などが知られています。最近では、免疫関連の生理活性として抗炎症、肥満誘発性炎症応答抑制、がん細胞増殖抑制などが明らかとなりました。これらの生理作用は、カプサイシンが、脂肪細胞、マクロファージ、ヘルパーT細胞などの細胞において炎症性サイトカインの産生を制御するためと考えられています。サイトカインとは免疫担当細胞から分泌され、局所および全身の炎症反応を制御する物質で、炎症性サイトカインと抗炎症性サトカインのバランスが崩れると炎症が持続し、自己免疫疾患などの症状を引き起こすため、カプサイシンの制御が効くのです。ただし、カプサイシンを高濃度で強制的に投与した場合には、免疫抑制につながる一方神経障害を起こすことがあります。

・ゴマは高品質な食用油脂の供給源になりますが、酸化されやすい不飽和脂肪酸を多く含むにも関わらず、高い品質が長く保持されることから、セサミンなどの成分は抗酸化活性を持つとみられていました。最近になってゴマリグナンは予想通り強い抗酸化活性を持っていることがわかり、老化防止やがん予防などの効果が期待されています。また、ゴマリグナンが生体内で代謝産生するものの中に、エンテロラクトンなどの植物エストロゲン効果を持つ化合物を見いだされ、骨粗鬆症などの更年期障害の改善や乳がん抑制作用も期待されています。さらにコレステロール吸収阻害効果、抗高血圧作用なども報告されています。もうひとつ、ゴマリグナンが最も注目されている生体機能の一つに、肝機能改善効果があります。ほとんどのポリフェノールは腸から吸収された後、肝臓に到達する前に抗酸化活性を一部消費してしまいます。それは、抗酸化活性を示す成分が消化・吸収の途中で活性酸素を消去するために使われるといったことで酸化されるからです。それに対して、セサミンはそのままでは試験管内でほとんど抗酸化作用を示しませんが、その特殊な化学構造で酸化されることなく肝臓まで運ばれ、肝臓で代謝を受け取るや、初めてきわめて強い抗酸化活性体となります。生体内の活性酸素の約80%は肝臓で産生されますから、肝臓で効果的に活性酸素を除去できるセサミンは、きわめて有効な抗酸化食品因子なのです。またアルコール代謝促進という意味でも肝機能の改善に役立ちます。

・農薬は百害あって一利なしなのでしょうか。農業の原点から考え直してみましょう。農薬や化学肥料を使わない農業に「自然農法」という言葉を使うことがあります。ですが、この言葉の使い方がそもそもおかしいのです。人間がある土地を「畑」にする、つまりもともと自然に生えていた草木をすべて撤去し、単一の作物だけを植えたら、それはもはや自然の状態ではありません。1種類の植物しかない畑には、その植物を好んで食べる動物が殺到し大繁殖します。自然のままの雑木林なら多様な植物と動物が競合していますから、1種類の害虫が大繁殖できる条件はありません。畑で育てる作物自体、野生のものとは異なります。野生のサクランボは実がたくさんついて華やかですが、鳥も小鳥も虫もほとんど食べません。すっぱいだけで甘みに乏しいからです。本来、自然の植物は自分を動物から守るために、酸っぱみ、えぐみ、苦み、毒素まで持っています。病害虫に強いと家庭菜園で唐辛子が人気なのは、害虫が辛味を嫌うから。甘く美味しく改良された農作物は害虫や鳥に対してきわめて脆弱です。また、きれいに整地された畑には、何種類もの雑草が短期間にどんどん伸びます。人間の目には畑が雑草に侵略されたように見えますが、事実はその逆で、人間に土地を侵略された自然が、ありのままの状態に戻ろうとしているのです。農薬をまったく使わなかったら、畑はどんな有様になるのでしょうか。1960年代の関東地方。夏に枝豆が育つと蛾の幼虫が大繁殖し、さやの中に仕込まれた卵が幼虫になって豆を食い荒らしました。枝豆をゆでると、半分以上のさやに長さ5mmほどの白い幼虫がいまsた。このころ農家では暑い夜は窓を全開にし、羽根虫が入ってこないよう電灯を消して食事をしていましたから、虫も豆も区別せずに食べていました。冗談抜きで、そのころの農村のタンパク源は枝豆より幼虫でした。丹精込めて育てたイチゴ畑では、実が赤くなってきたと思ったら昆虫やナメクジが大発生し一夜にして全滅です。美味しそうに色づいた実が、くりぬかれようにモソモソ食べられていましたが、対抗しようにも手段がありませんでした。

・1971年、農薬取締法が改正され、人体および環境への毒性試験が義務付けられるようになると、毒性が低く体内への残留も少ない第二世代農薬に替わりました。さらに最近の第三世代では、天敵や微生物を使った毒性のない生物農薬の開発が進められています。ハチなどの昆虫やダニ類が農薬として登録され、ホームセンターで市販されているほか、古来伝わる、石灰、米ぬか、尿素、塩、ミネラル、納豆菌などの菌類、蒸気消毒、昆虫が嫌う光など、多様な研究が行われています。

・厚生労働省では家庭の日常的な献立にあわせて市場から食品を買い集めて実施する「食品中の残量農薬等の一日接種量調査」を毎年実施しています。その基準となるのが添加物と同様、ADIで、「一生涯にわたって毎日食べ続けても体に害のない体重1kgあたりの農薬量」。計算法は、マウスなど数種類の実験動物に一定期間毎日、農薬を餌に混ぜて食べさせ、さらにその子孫2世代以上にも与え、生育状況や生殖機能をチェックしています。この調査では、過去20年間、問題は報告されていません。2014年の調査では、際立って多かったものでもADIの5%で、大多数はADIの0.5%以下でした。

・厚労省は2006年5月から残留農薬について、それまでのネガティブリスト方式からポジティブリスト方式に変えています。ネガティブリストは原則、規制がなく、規制するものだけを表示するため、リストに載っていない農薬はいくら残留していても規制対象になりませんでした。しかし、ポジティブリストはいったんすべてを禁止し、残留してもよい農薬だけをリストアップします。残留基準は国内や欧米のそれまでの基準を参考にし、基準が見あたらないものには0.01ppmという一律基準を設けました。これは農薬の付着した手で野菜にちょっと触れただけで基準を超えてしまうごく微量の数字です。一方、日本では使用が禁止されていますが、米国などの諸外国から輸入される植物には、生育段階で使用された農薬とは別にポストハーベスト、つまり収穫された後、かびなどによる品質劣化を防ぐために使用される農薬もあり、これについても基本的にADIが設定されています。水洗いでは半分ほどしか落ちませんが、柑橘類などは皮をむくと残留ゼロになります。従ってレモンの皮を擦って料理にかける場合は注意が必要ですが、グレープフルーツの中身を食べる場合は心配する必要はありません。

・2011年の農林水産省補助事業報告書によれば、農薬をまったく使用していない有機栽培農産物の生産量は主に小規模農家で全農産物の0.35%でした。無農薬の環境保全型農業を全体の3割程度の農家が目指していますが、難しいのが実状です。99.65%の国産作物に農薬が使われていますが、健康被害は報告されていません。

・日本は単位面積あたりの農薬使用量は米国の約6倍で、作物の本数あたりの使用量も米国の2倍-、米国が日本より農薬使用量が少ない理由のひとつが、GM(遺伝子組み換え)作物の割合が高いこと。GM作物の中にはそれ自体が害虫や病気に耐性を持っているものがあり、農薬をあまり必要としないからです。一方、日本では多くの農家がGM種との交雑を嫌って、試験用以外には生産されていないため、米国に比べて農薬使用量が多いのです。GM作物は米国などから日本に大量輸入されていますが、新聞などで安全性を危惧する報道も多く、日本人の6割以上が不安視しているそうです。

・この分野で最もメジャーな企業は米国の化学メーカー「モンサント」
です。モンサント社は変圧器の絶縁冷却油として使われたPCBを大量生産し、北米大陸の生態系に悪影響を及ぼしたと非難されました。ベトナム戦争では猛毒のダイオキシンを含んだ枯れ葉剤を製造し、胎児異常など深刻な被害をもたらしました。モンサント社が農業分野に進出したのは、意外と遅く1990年代です。日本では80年代から種苗開発がブームになっていましたから、モンサント社の開発力は他を圧倒していたのでしょう。分子生物学を応用し遺伝子を改造した種子で知的所有権を得ました。農家はモンサント社の種を買うと、それで成長した作物そのものからは種をとることができないため、モンサント社が生産する種子は毎年必ず売れるという仕組みです。最も有名なのが強力な除草剤である「ラウンドアッップ」(一網打尽という意味)と、それに耐性を持つように遺伝子組み換えをした大豆の種子「ラウンドアップ・レディ」のセットです。モンサント社のスローガンは「食物・健康・希望」。遺伝子組み換えによって今後15年間で大豆、綿、トウモロコシなどの収量を倍に増やす一方、水や肥料の使用量は3分の1にし、世界の爆発的な人口増加に対応できる唯一の企業と自称しています。

・GMとはどんな技術なのかー簡単にいえば、Aという生物のDNAの遺伝子を、別のBという生物のDNAに組み込むことによって、BにAの機能を持たせることです。たとえば、寒い土地で育つ植物のDNA遺伝子を、本来、寒さに適さないイネや小麦のDNAに移植すると、寒い土地でも育つイネや小麦になります。現在までに特に成功したGMの性質は除草剤耐性。強い除草剤をまいても枯れない植物のDNAを大豆やトウモロコシに移植、除草剤をまくと雑草だけが枯れるようにしたというものです。さらに現在、研究が進められているのが、かんばつ耐性GM。地球温暖化によって気候変動が極端になり、大雨が降る地域がある一方、ひどいかんばつに見舞われる地域も増えています。かんばつは農作物の生育に致命的な影響を与えますから、雨が降らなくても平気なかんばつ耐性GMが完成すれば世界中で需要が見込めるというわけです。

・現在、GM農作物の安全性評価は、日本や欧米諸国でそれぞれ独自の行われていて、主な評価項目は以下の通りです。
 ・生殖・繁殖特性に影響はないか
 ・毒物を生成しないか、導入された遺伝子のタンパク質に毒性はないか
 ・導入された遺伝子は安定しているか
 ・周辺の他の生物の成育に影響を及ぼさないか
 ・新たな遺伝子がアレルギーを誘発しないか
 ・基になった植物と比べて栄養素に変化はあるか
こうしたチェックを経た上で、GMで作られた種子は各国政府に認められ、量産されていますが、安全性判断の基準は未だ各国ばらばらのまま。安全性の評価が、国によってまるで異なるからです。欧州では「GMを排除すべし」という声が相変わらず多いのですが、米国ではたとえば2014年11月4日、オレゴン州で行われた住民投票で、食品の原料がGM作物かどうかの表示を廃止することが決まっています。食品安全上、もはや意味がなと考えている人が過半数を占め、同様の動きは全米に広がりつつあります。

・今、日本では驚くほど大量のGM作物が輸入、消費され、ナタネや大豆は消費量の9割です。サプリメントや添加物、香料、酵素の原料の製造にもGM技術が多く使われています。法律で分別生産流通管理が適切に行われていれば意図せざる混入があっても「遺伝子組み換えでない」と表示できるので、事実上、日本人の全員が摂取しているでしょう。

・はたしてGM作物の遺伝子は私たちの体内に本当に残らないのか?大豆やナタネから作られた食用油の場合、そもそも遺伝子どころか、タンパク質も製造過程で取り除かれますから、食用油の場合「遺伝子組み換え」も表示義務はありません。醤油の場合もタンパク質が製品に含まれないことに加え、仮に残っていたとしても調理で熱処理されれば変性し胃でも消化されますから、人間の遺伝子に影響を与えることは少ないとされています。以下は農水省の安全性評価で適合と確認されたGM農作物です。
 ・害虫抵抗性-トウモロコシ、ダイズ、ワタ、ジャガイモ
 ・病気に強い-イネ
 ・除草剤耐性-トウモロコシ、ダイズ、セイヨウナタネ、ワタ、アルファルファ、テンサイ
 ・ウイルス抵抗性-ジャガイモ、パパイヤ
 ・色の変化-カーネーション、バラ
これらが日本で生産されれば、それぞれ生産性が高まるといったメリットがあるのでしょうが、農家の反発が強いとして実際には生産されていません。ちなみに現在のGM対策は農水省と厚労省との分業体制です。

・日本で生産されるほとんどのジャガイモには放射線が照射されています。ジャガイモの芽はソラニンやチャコニンという毒物を含み、食べれば腹痛や下痢などの健康被害が生じるため、放射線照射で発芽を抑えているのです。海外では放射線の殺菌作用が注目され用途が増えています。加熱は食品内部の殺菌に時間がかかりますが、放射線なら一瞬で処理できるからです。放射線処理は乾燥・加熱・冷凍といった食品処理と同様なものと考えられ、50以上の国々でニンニク、小麦、果実、冷凍魚、冷凍エビなどに幅広く行われています(日本でジャガイモ以外に放射線照射が行われていないのは、歴史的な国民感情への配慮があるからとされている)。

・厚生労働省では原発事故の半年後から、福島や東京を中心に北海道から長崎まで全国15の地域で、食品中の放射性セシウムから受ける年間放射線量を計算しました。スーパーなどで実際に売られている商品を購入し一版家庭と同じように調理するというもので、対象となった食品は200種類。その結果、2013年9・10月では最も高かった福島県浜通りで年間放射線量は0.0027ミリシーベルト、平均値は0.0015ミリシーベルト程度で、現在の基準の1ミシーベルトの1%にも達しませんでした。主食である米について、農林水産省では2015年も、米に含まれる放射性セシウムが100ベクレル(基準値)を超過した地域では作付制限を行い、50ベクレルを超える場合は事前出荷制限区域とし、「全量全袋検査」が義務付けられました。なお福島県では、国が一部抽出検査で良しとしている地域の米でも全袋検査を実施しています。福島県の2014年産米について、計測した1075万袋に関してはいずれも基準値以下でした(2012年は71袋、13年は28袋が基準値を超えていた)。また麦、野菜、果実類は50ベクレル以下でした。福島沖で取れる水産物は、試験操業によって安全が確認されたものだけが市場に出荷されています。

・たとえば街中のラーメン屋さんの厨房をのぞいてみてください。豚骨などのこってりラーメンには、大さじか小さじかの違いはあるでしょうが、添加物を加えているところがほとんどでしょう。動物の骨でだしをとろうとすると、同じものは二度とできません。動物に個体差がある以上、まったく同じ骨は存在しませんから。毎日、提供するスープの味の均一さを保つためにあ、どうしても添加物が必要なんですね。テレビのグルメ番組などで、ラーメン店の大将ができあがったスープの味を自分の舌で試してみるや、顔をしかめて寸銅鍋の中のスープをすべて捨ててしまうシーンをご覧になったことがあるでしょう。ずいぶんもったいないことをするなと思われるでしょうが、添加物をまったく使わなければ、ああなるのが当然なんです。ラーメンに限らず、どんな料理でも同じだと思います。業務用として毎回、同じ味のものを大量に提供するのはとても難しいんです。

・ひところ純米酒がもてはやされ、日本酒に米と米麹以外のものを入れるのは悪だ、邪道だと決めつけられました。でも、そんな単純な問題ではないんですよ。高価な銘酒なのに醸造用アルコールが添加されているお酒はたくさんあります。純米酒がもてはやされているのに、なぜあえてそんなことをするのでしょうか?味を均一に調え、品質の変化を抑えるためです。大きな酒蔵は通年で大量出荷しなければなりません。いつも同じ品質です。何も加えなければ、瓶詰した後に発酵が進んで味が微妙に変わってしまいます。高級なうまい酒だからこそ、味と品質を保つために少量の醸造用アルコールを加えるのです。お酒は蔵元のある地元で飲むのが最高といわれますね。遠くへ運ぶのに時間がかかったり、酒瓶のまわりの温度や日光などの環境が変わったりすると品質が変わってしまいます。以前、別の店に勤めていたとき、飛騨高山の蔵元で飲ませていただいたお酒がとても美味しかったので、一箱仕入れたことがありました。でも、クール便で東京に運んだだけで味が壊れてしまいました。日本酒はそれくらい繊細です。味覚調味料も同様に味を調えて均一にするために使います。使いすぎはあり得ません。ちょっと入れてもたくさん使っても効果はあまり変わらないとわかっていますから。たくさん入れすぎるとしたら、そもそも料理人としておかしい。

良かった本まとめ(2016年上半期)

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イタリアのヴェネツィアのノエミのイカスミパスタはとてもオススメ!

2016年11月23日 01時00分00秒 | 外食
イタリアのヴェネツィアの雑踏にあるノエミでランチを楽しみました♪

このヴェネツィアのサンマルコ広場の奥にある雑踏は、ベニスの商人の時代からの街並みと考えると感慨深いものがあります^_^)


↑雑踏の中のノエミ店構え

ツアーに盛り込まれているお店ですが、客は西洋人も多く、また想像以上に綺麗で、お店の方も明るく優しく接してくれます♪
イタリア人は陽気なのが良いですね^_^)


↑店内

料理はあらかじめ決まっていますが、飲み物を日本語メニューを見ながら決めます♪
なお、イタリアでは日本のように無料でお冷やが運ばれることはありません。水が飲みたい場合はミネラルウォーターを注文する必要があります♪
また、蛇足ながらイタリアは公共のトイレは有料なので、レストランなどお金を使うところでトイレを済ますことがポイントのようです。


↑飲み物メニュー

せっかくイタリアへ来たので、イタリアのビールを注文しました♪
5ユーロなので600円ほどでしょうか。
なおこのヴェネツィアは有名な観光場所なので、ドリンクのお値段は他の店と比べると高めのようです。

食事の日本語メニューは店頭に貼られていました♪
日本人観光客も多数訪れているんですね♪
ちなみにイカスミパスタは15ユーロですね♪
日本円で1800円ほどでしょうか。


↑食事の日本語メニュー


↑食事の日本語メニュー

そしてすぐビールが運ばれますが、さすが美味しく感じます♪
パッケージも明るくて良いですね♪


↑イタリアのビールとパン

そしてさっそくイカスミパスタが運ばれますが、この墨が輝いた黒色で驚き♪
しかも食べると、歯や唇が真っ黒となってしまい、笑ってしまいますね♪
麺はイカスミのために少しぱさついた感じがしますが、想像以上に美味しいです♪
また、イカが日本のイカと違って分厚く、それでいて柔らかくて美味しいです♪
日本のイカと種類が違うのでしょうか?
それにしても、イカスミパスタは美味しかったです♪


↑イカスミパスタ

そして、サラダとエビとイカのフリットが運ばれます♪
これはまあ普通に美味しいです^_^;)


↑サラダとエビとイカのフリット

そして最後に、おぉイタリア本場のティラミス♪
クリームが柔らかく、そして中心にあるスポンジがしっとりしていて、あぁ美味しい♪
さすがイタリアのおいしさですね♪
金属の器でティラミスが作られているのも、なんだか良い感じです♪


↑ティラミス

ヴェネツィアのノエミは、美味しいイカスミパスタ等を堪能でき、とてもオススメです!

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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ピサの斜塔(イタリア)へ行って来ました!

2016年11月21日 01時00分00秒 | イベント・外出
 ピサの斜塔は傾いている建物として有名ですが、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂(ドゥオーモ)の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオーモ広場」を構成する観光スポットです。

 ピサは近くにガリレオ・ガリレイ空港という国際空港や客船が止まる場所があり、また海岸は砂浜で海水浴ができ、そしてこの斜塔もあることから、人気観光スポットのようです♪

 ピサの斜塔はガリレオがここで重力の落下実験を行ったことが有名で、その後ガリレオの実験に対して行われた異端審問の弾圧に関連して、ローマ法王が侘びの公式声明をこの塔の頂上で行った事も有名です。

 ガリレオは地動説を唱え、天動説のキリスト教の弾圧から仕方がなく天動説を表明しましたが、死ぬ間際に「それでも地球は回っている」と言ったことは有名ですね♪

 ピサの斜塔の高さは地上55.86m、階段は296段あり、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられています。
そもそも、窓も含めて重い大理石を用いたので傾いたようです。


↑ピサの斜塔

 工期は、第1工期1173年-1178年、第2工期1272年-1278年、第3工期1360年-1372年で、工期間隔が非常に長いのが特徴です。

 というのも、1173年8月9日の着工時には鐘楼は垂直でしたが、第1工期後には既に塔が傾きはじめ、第2工期でややその傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、その傾きはなおも止まらず、第3工期を迎えたようです。

 傾斜が修正できなかったため、最上階層のみ垂直に建てられたとのことです。
確かに実際にそのように見えますね♪
それにしても、想像以上に傾いて見えて驚きました!
特に下の階の方が傾いて見えます。


 実はオリジナルの建築計画上では、現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定だったようです。

 一時傾斜の増大と倒壊の危惧がありましたが、その後の処置により、当分問題ないと判断されているようです。

 5.5度傾いていましたが、1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.99度に是正されているようです。

 傾斜の原因は、1990年から改修工事前に行われた地質調査によれば、地盤の土質が極めて不均質であったためとのことです。

 南側の土質が相対的に柔らかいことから年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥ったようです。

 1935年には地下水が地盤を柔らかくしてしまうのを防ぐため薬液を注入して地下水の浸入を止めようとする応急処置がとられたようです。
しかし、現場の地盤は鋭敏比が非常に高く、攪乱によって強度が著しく低下し、沈下は更に進んでしまったようです。

 1960年代、現地の地下水汲み上げによって地下水位が下がり、またも傾斜進行という危機を迎え、1964年2月27日ついに、イタリア政府はピサの斜塔を崩壊から回避するための支援を世界に求めたようです。

 1990年1月7日、安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われたようです。
 当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしましたが、根本的な解決には至らなかったようです。

 その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされ、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られたようです。
他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もありましたが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかったようです。

そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し、ようやく公開が再開されたとのことです。

2008年5月28日、監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授によると、少なくともあと300年は倒れる危険がないと見解が示されているようです♪

 かつては一時立ち入り禁止となった時期もあったものの現在では塔が安定したため有料で最上階まで階段で登ることが出来ます。

 ただし混雑するために人数制限があり、入場券の枚数は限られています。
また通路が狭いので大きな荷物は持ち込むことはできず、奥の無料ロッカーで預けることができます。
ロッカーは一組ずつしか入れず、しかも係員が付きっきりですのでセキュリティはしっかり保たれていて、貴重品は安心して預けられます♪

 それから実際にらせん階段を登ってみましたが、斜めに建てられているので、登り難いです!
しかも、階段は大理石なので、濡れていないのにツルツル滑って大変でしたね♪


↑らせん階段を登る

 斜塔の上の方には、いくつか鐘がありましたね。
鐘楼なので、当然ながら鐘があります。
ここで鳴らすと相当大きな音が出るでしょう・・・。


↑斜塔の鐘

 斜塔の上からの景色は、天気に恵まれたということもあり、とても素晴らしい眺めでした♪
遠くには雪が積もった山も見えます♪
スタジアムがあるのには驚きましたね♪


↑斜塔の上からの景色


↑斜塔の上からの景色


↑斜塔の上からの景色


↑斜塔の上からの景色


↑斜塔の上からの景色

ピサの斜塔は、想像以上に傾いていることに驚き、観光にオススメですね!

お勧めなお話(2016年上半期)

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「旅の途中で(高倉健)」という本はとてもオススメ!

2016年11月18日 01時00分00秒 | 
「旅の途中で」の購入はコチラ

 「旅の途中で」という本は、俳優の高倉健さんのエッセイで、1996年から2000年まで5回にわたってニッポン放送で放送されたラジオ番組「高倉健 旅の途中で・・・」を基に新たに書き下ろしたものです♪

 本書は旅での出会いなどを基に、人生って捨てたもんじゃないな、生きてるって悪くないなと感じてもらえればと思って書かれたようです♪

 確かにどの逸話も心に響き、素晴らしいものばかりで、とても良いと思います♪

特にまとめると以下となります♪

・言葉は少ない方が自分の思いはむしろ伝わる
・見送りは最後まで行く
・どんな厳しい中にあっても寒青という松のように青々と人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるように生きたい
・心にゆとりがあるからこそ、雨をも愉しむ
・やると決めたからには持てる力を惜しげもなく注ぎ込み奮闘することは、自分自身のためにすることなのだ
・客は家の前で立って待つ
・夢中になって一つのことに突き進む人の目は素晴らしい
・一歩ずつ進めばいつの間にか乗り越え、そのとき初めて自信が持てる
・人間にとっていちばん贅沢なのは心がふるえるような感動
・あなたはあなた自信のフェラーリ(夢)を持っていますか?
・さりげない別れの表し方も心に残る
・拍手を受けるだけでなく、送る方も心が豊か
・人生は巡礼である
・人間の真価は何をしたかではなく、何をなそうとしたか
・自分の道を進めば進むほど独りになる
・独りの時間は大切で、その時にこそいろんな発想や発見ができる
・独りで生きることができる人が最終的に強い
・すべてに命がけは素晴らしい
・一日一生

「旅の途中で」という本は、より良い人生のヒントとなり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・僕が、美味しい鉄観音茶を飲みたいと頼んだら、何分か経って、凹凸だらけの大きなヤカンを持ってきた。鉄観音は、独特の急須で独特の淹れ方をしなければ本当の味が出ないことを専門家に聞いていましたから、じっと眺めていたんですが、そのセレモニーをまさしくその通りに正確にやるんです。使っている急須も鉄観音用の急須を使って、最初の一番出しのお茶で茶碗を洗うんですね。手でくるくると、とても器用に回しながら茶碗を温めて、雫を切ってから淹れる。お茶を淹れるその動作を見ているだけで、客をもてなす心遣いというんでしょうか、彼女の”気”が伝わってきて、パリにいる4日間、その店に毎日続けて通いました。日本に帰るという最後の日に、女主人のほうから初めて話しかけてきたんです。「あなたのことを私はよく知っています」小さな声でこちょこちょっと耳元で囁いた。それまでは表情ひとつ変えないで、美味しいお茶を淹れることだけに専念していた彼女の気遣いに、僕は、客をもてなすということはこういうことなんだと思いましたね。

・翌日、大使は空港まで見送りに来てくださった。足を悪くしていらっしゃるものですから、普段はほとんど車椅子で動かれるんですが、税関の所で富造君が気を遣って、「大使、ここでお別れしましょう、きりがないですから」と言うと、「何を言うんだ、富造君、私は這ってでも行きます」そうおっしゃったという。別れの瞬間、ぎりぎりまで、ステッキをついて歩いて、自分の友達を送るんだという強い意志というんですか、形なんかどうでもよいというその心に、僕はショックを受けました。

・よく、僕は無口な男、寡黙な奴とか言われますけれども、自分ではそうんなふうに思ったことはないですねラジオ番組でも台本なしで結構しゃべってますから、自分ではそれほど無口だとは思いません。今まで201本の映画で演じてきた役柄から、不器用とか無愛想とか寡黙とか、そういうイメージがあるんだと思います。しかし、言葉というのはいくら数多くしゃべってもどんなに大声を出しても、伝わらないものは伝わらない、そういう思いは自分の中に強くあります。言葉は少ないほうが、自分の思いはむしろ伝わるんじゃないかと思っています。

・「寒青」・・・。「かんせい」と読む。中国語で何と発音するのか知りませんが、漢詩の中の言葉で、「冬の松」を表すそうです。凍てつく風雪の中で、木も草も枯れ果てているのに松だけは青々と生きている。一生のうち、どんな厳しい中にあっても、自分は、この松のように、青々と、そして活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるようにありたい。そんなふうに生きていけたら・・・。とても好きな言葉です。

・プレゼントした方が、「この唐傘とか蛇の目をさすと、雨が降った時にパラパラ雨が当たる。その音がとっても待ち遠しい」という話をされたという。僕はその話を聞いて、凄い人だなと思いました。雨が降って嫌だな、と普通の人は思うんでしょうけれども、雨という自然の恵みを愉しむというんでしょうか、心にゆとりがあるからこそ、傘を単なる雨をしのぐ道具ではなくて、雨を愉しむ道具に変えてしまう。僕の友人のレストランのご主人に傘を贈られたその方の心の有り様が、とても素晴らしいと思いました。

・好きとか嫌いとかを尺度にして仕事をするのではなく、やるかやらないかを問題にするのであって、やると決め、引き受けたからには持てる力を惜しげなく注ぎこみ、奮闘する。仕事だから仕事らしい仕事をやってのけようとする。それは観客のためではなく、自分自身のためにすることなのだ。受けるとか、受けないとかはもちろん気になるが、最終的には「知ったことではない」の一言で蹴飛ばしてしまう。それが高倉健ではないのか。

・その折、十数年お目にかかっていなかった画家の横尾忠則さんから、「自分の家へ是非」と食事のお誘いを受け、ご自宅へ伺いました。地図までファックスで送っていただいているのに、僕は道がわからなくて、30分も遅れて行ったんですが、駐車場の入口に横尾さんご夫妻が、立って待っていらっしゃったんです。その姿に、人を招く礼節のようなものを強く感じました。

・一人の天才ヴァイオリニストが、どういうふうに磨かれていくのかが、とても感動的にまとめられていました。外国で、厳しくも優しい教師にしごかれている時の、歯を食いしばって練習している彼の目が、とてもいいと思いました。何て言うんだろう、僕の世代にとっては、日本人にもこういう人が出てきはじめたことに対して、心強く嬉しく思いました。本当に何かに夢中になって、一つのことに突き進んでいる人の目というのは、素晴らしいと思いました。

・ただ毎日毎日、1ミリでも進んでいけば、ジャンプなんかしなくてもいい。誰も助けてくれないなら、自分で一歩一歩進むしかないんですから。人生には苦しいこともあるし、嘘と言いたくなるほど辛いこともある。でも、神様は絶対に無理な宿題は出さない。その人に与えられた宿題は、絶対にその人自身がクリアできるものなんです。乗り越えようなんて思わなくても、一歩ずつ進んでいけば、いつの間にか乗り越えてしまっている。その時、初めて自分に自信が持てるんだと思います。

・人間にとって一番寂しいのは、何を見ても、何を食べても、何の感動もしないこと。感動をしなくなったら、人間おしまいだと思うんですね。こんなに寂しいことはないと思います。人間にとっていちばん贅沢なのは、心がふるえるような感動。お金をいくら持っていても、感動は、できない人にはできません。感動のもとは何でもいいんじゃないでしょうか。美しいとか、旨いと感じるとか、一日に一回でもいいから、我を忘れて、立ち上がって、拍手ができようなことがあればいいですね。今の世の中で、こんな幸せなことはないんだと思います。

・「あなたはあなたのフェラーリを持っていますか」という歌があるんですが、毎朝セットに入る前の何十分か、部屋で準備をしている間や、ロケの待ち時間、次の声がかかる間、ずっと聴いていました。フェラーリはご存じの通り、ほとんど神話になっているような、イタリアのスポーツカーです。「あなたはあなた自身のフェラーリを持っていますか 私は私のフェラーリを持っています 私の人生はあなたの夢 希望を持たない魂なんてまるで救いようがない どうしようもなく寒くて暗い夜でも 私は夢をしっかりと胸にだいて絶対に見失わないようにしています」夢をフェラーリにたとえて歌っている歌です。映画にも出ていらっしゃるシャーリー・バッシーとクリスの掛け合いで歌うこの歌が素晴らしくて、聴いて随分励まされました。

・僕が何日間の滞在を終えて帰る時、由五郎君は決して、船の乗り場まで送ったりしないんです。ドアに潮で穴の開いたような、買う人が1万円でもいい顔しないようなぼろぼろの車の横に立って、途中の道で偶然そこに居合わせたような顔をして、さりげなく別れの挨拶をするんです。島の若者にはもう一つ、強烈なアピールの別れの挨拶もあって、本土に帰る女の子たちと交換したテープが切れる時、ジーンズをはいたまま海に飛び込んで見送る、そういう表現の仕方もあるらしいんですけれども、僕は由五郎君のさりげない別れの表し方が、とっても心に残っています。

・僕の俳優という仕事は、どんなところへでも行きます。南極にも北極にも、アフリカにも八甲田山にも行きました。八甲田山では、僕らは185日間、厳寒の雪の中にいました。それはただ、拍手を受けたいという一心からです。ところが、あの運動会を見ていたら、拍手を受けている自分よりも、拍手をしている自分のほうが豊かなんじゃないかと思えてきました。誰かを励ましている、あなたたちに感動しましたよ、と拍手を送っているほうが豊かなんだな、と突然感じたのです。そんなことを考えると、俳優という仕事は、業が深い生業だなと思います。この仕事を選んでしまって40年過ぎましたから、急に拍手を送る側にまわるのは、難しいかもしれません。それだけに、拍手を送る経験ができた石垣島の運動会に、とても感謝しています。

・今の僕から見ると、少年たちという気がするんですが、あの少年たちが、特攻隊としてこの沖縄や南方の空に向かって飛び発ち、そして若い生命を散らしていった。知覧基地から出撃していっただけでも、その数、1035人、と聞いております。この知覧の町に、特攻隊の少年たちを優しく世話された富屋食堂のおばさんで、島浜トメさんという方がいました。若い特攻隊員たちから、「お母さん、お母さん」と慕われていらしたそうです。特攻隊員が出撃の前夜には、その頃とっても贅沢だったはずの、手作りの玉子丼を必ずご馳走して見送られたそうで、この島浜トメさんと、飛び発っていった特攻隊員の青年たちの間に伝わる物語も残っています。「みごと撃沈したらホタルになって帰ってくるから」と約束して出撃していった二十歳の特攻隊員が、翌晩、本当にホタルとなって帰ってきたという話ですが、心に深く響いてきます。二十世紀の区切りとして、心に留めておきたいと思います。凛々しいということは、こういう青年たちのことを言うんだと思います。一点の曇りもなく、死を決めている姿。人間の持っている、命の燃やし方。若い特攻隊員、二十歳になるかならないかの青年が、「明日、自分の魂はホタルになって帰ってきます」と言って出撃していく。明日死ぬ青年の口から、一体どうしたら「ホタルになって」という言葉が出るんだろうか-。僕は、この言葉に感動します。トメさんから心をもらった、ときっと本人は感じたんでしょう。だから、ホタルとなって戻ってきた。島浜トメさんに対する礼節ということなのかなと思います。自分は日本人が好きですし、日本人であることを誇りに思って、これからの人生も生きていきたいと思います。

・「苦しみつつなお働け。安住を求めるな。人生は巡礼である」凄まじい言葉だと思います。「人間の真価は棺を覆った時、彼が何をなしたかではなくて、何をなそうとしたかで決まるのだ」「南極物語」は、1983年の封切りですから、随分前のことなんですが、当時迷っていた自分が、こうした言葉に励まされ、勇気をもらっていたんだと思います。

・近頃もう一つ気になることがあります。「何をしたかではなく、何のためにそれをしたか」「何のためにしたか」-。そう問いかけることが、とっても大切な時が来ているように思います。どんな映画を撮るかではなく、何のためにその映画を撮るのか。自分はこのことをとっても大切にしていきたいと思います。そして最後に、この言葉を-。「身についたものの、高い低いはしょうがねえ、けれども、低かろうと、高かろうと、精いっぱい力いっぱい、ごまかしのない、嘘いつわりのない仕事をする、おらあ、それだけを守り本尊にしてやって来た」

・健さんのラジオ放送を聴かせてもろうた。出張の時、電車の中で、テープで聴いたんやけど、ようあの忙しい人があれだけのことをやりこなしてますね、この人は何て人やろう!どこにそんな暇があるんやろう?と思うた。映画を観てる。本は読んでる。音楽もいろんな音楽を聴いていて、自分の感想をきちんと言うている。おまけに外国へ出かけて行って、いろんな体験をしてる。24時間、ひとつのリズムをつかんでいるんやと思うな。それが健さんのバネになっている。殿様みたいに上げ膳据え膳されると殿様で終わってしまうけど、あの人はそこに甘んじてない。自分の道を進めば進むほど、独りになると思う。たまに旅に出て、独りでいる時間が愉しいんやないかな。

・独りの時間は人間にとって大切。その時にこそ、いろんな発想や発見ができるもんです。

・独りで生きることができる人が、最終的には強いんやないかな。そういう人には、何とも言えへん人間としての温かみもあるんやね。そういう人は自分が善行を積んでも、これこれをしました、なんてことをごちゃごちゃ言わない。そんなこともあったかいな、という顔をする。陰徳というものは、そうして積まれてくるもんやね。ある時何気なしにすーっと現れ、ある時すーっと姿を消していく。何かをしても、結果や報酬を期待しない。健さんはまさにそういう人やね。「俺は高倉健だ」とか一言も言わず、仕事が済めば外国へ出かけてしまう。健さんのそういう生き方を観させてもらうようになって、あの人はお侍さんやと思う。どんな仕事でも命を賭けてやってる。軽く流すことは絶対しない。普通の人なら、来た仕事は一応全部引き受けて、こちらは軽くいきましょう、こちらは大事やからしっかりやりましょう、そんな計算が働くけどね。そういうことが大嫌いな人やと思う。すべてに命懸けで、いつも刃の上を歩いているような、そんなお人やと思う。周りの現象に流されず、折目正しく生きている。それは座った姿にも出ておる。

・誰しも人間やったら、老いていくことへの不安はある。しかし、一日一生。今日の自分は今日で終わり。明日は新たな自分が生まれてくる。今日、いろんなできごとやいざこざがあっても、明日はまた新しいものとして生まれる。こだわりを捨て、同じような過ちを再び繰り返さないために、今日のうちにその過ちを修正しておけばええ。最終的には息を引き取る時が、人生の勝負やないかな。何があろうとなかろうと、独りきりで旅立っていくんやから。生まれた時と同じ。何も持たずに旅立って行くわけやね。赤ん坊か、くしゃくしゃの年寄りかの違いだけやね。自分に課せられた人生。仏様からいただいた人生を、「これだけ燃えつきました」高倉健はそう行って逝ける、数少ないお人やと思います。

良かった本まとめ(2016年上半期)

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イタリアのミラノでミラノ風カツレツ等はとてもオススメ♪

2016年11月16日 01時00分00秒 | 外食
 イタリアのミラノといえば「カツレツ」ということで、ツアーで行った場所ですが、イタリアのミラノにある「オステリア デエラ コンコルディア」でカツレツを楽しみました♪


↑店構え


↑メニュー


↑店内

店内はかなり綺麗で、若い女性イタリア人が席を案内し、日本語のドリンクメニューを渡してくれます。
料理はレストランのオプショナルツアーであらかじめコースが決まっていました♪


↑ドリンクメニュー

せっかくイタリアに来たので、赤のグラスワインを注文します♪
3ユーロなので360円ほどでかなりリーズナブルですね♪
しかもグラスに結構注いでくれて、あまりアルコールは強くないということもあり、全部は飲めませんでしたね^_^;)
ちなみに、日本では無料のお冷やはイタリアでは存在せず、水がほしい場合は、ミネラルウォーターを注文することとなります。
その水が2ユーロ(約240円)ということを考えると、赤ワインの3ユーロとはリーズナブルですよね♪


↑赤ワイン

まずサフランライスのリゾットが運ばれますが、これがほどよいアルデンテの歯ごたえで、そしてしっかりと味が付いていて美味しい♪
おぉやっぱりイタリアって美味しいんだと思いましたね♪


↑リゾット


↑パン

そしてサラダとミラノ風カツレツが運ばれます。


↑ミラノ風カツレツ

ミラノ風カツレツって知らなかったんですが、かなり薄いんですね♪
しかも、切れ目が入っているので、そこに軽くナイフを入れるだけで切れるので食べやすい♪
レモンをかけて塩も適度に効いているので美味しい♪

そして最後に各種フルーツを盛り合わせたものが運ばれました。
マチェドニアと呼ぶようです♪
イタリアではよくあるタイプのようで、美味しいです♪


↑マチェドニア

 実はイタリア人の普通の夕食は19:00~20:00からと遅い時間からで、しかもパスタなど重いものも前菜で、そしてメインやデザートとなり、3時間以上かけてゆっくり食べることが多いようです。
また店も一人でやっていることが多いので、レジを頼んで30分経つのはザラのようです^_^;)

従って、時間のない日本人旅行客がそういうお店に誤って行くと、大変なことになるようです。
そのためこういう旅行会社とタイアップしているお店では、日本人は18時くらいからとイタリア人と比べて早い時間に食事をすることもありますが、効率的にスピーディなメニューで対応してくれるようです♪

イタリアでの食事は想像以上に美味しくてオススメです♪

美味しかったものまとめ(2016年上半期)

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花の聖母教会ドゥオーモ(イタリア フィレンツェ)へ行って来ました!

2016年11月14日 01時00分00秒 | イベント・外出
 花の聖母教会ドゥオーモとは、イタリアのフィレンツェにある大聖堂で、白・ピンク・グリーンの大理石の幾何学模様で飾られた美しい大聖堂です♪

特に高さ106mのクーポラは街のシンボルで、463段の階段を上ることもでき、そこからのフィレンツェの街並みはとても美しいようです♪


↑花の聖母教会ドゥオーモ

高さ84.7mのジョットの鐘楼にも、414段の階段を上って街並みを眺めることができます♪


↑ジョットの鐘楼とドゥオーモ

今回登ってみたのですが、とても景色が美しくて、感動しました♪


↑鐘楼の上からの眺め


↑鐘楼の上からの眺め


↑鐘楼の上からの眺め


↑鐘楼の上からの眺め


↑鐘楼の上からの眺め

 その花の聖母教会ドゥオーモは、彫刻家カンビオの設計により1296年に着工しましたが、建設中に逝去したため1331年からジョットが担当し鐘楼などを造ります。

 しかし途中で挫折し、建設が難航していたクーポラをブルネレスキが1436年にようやく完成させたようです♪
そもそも、設計図がなく、上の方のドーム部分は、苦肉の策で、二重に煉瓦積み上げたようです。


↑クーポラ

その後、正面ファザードが完成したのは1887年で、現在とほぼ同じ姿のようです。

 花の聖母教会ドゥオーモは、当時3万人に及ぶ全市民を収容できる市民ホールとしての役割もあったようです。

 花の聖母教会ドゥオーモの内部には、ベネデット・マイアーノの十字架、アンドレア・デル・カスターニョとパオロ・ウッチェッロによる二つの大規模な騎馬肖像画、ロッビアの彩色陶板による美しいレリーフで飾られているようです。

また、クーポラの内側に描かれたヴァザーリやその弟子たちによるフレスコ画「最後の審判」も秀逸なようです。

それから、ドゥオーモの裏にあるドゥオーモ付属美術館は、館内はとても綺麗だし、素晴らしかったですね♪
感動しました♪


↑美術館内

特にドゥオーモの前にある洗礼堂のミケランジェロの「天国の扉」は黄金色に飾られていて素晴らしかったです♪
実はこの美術館にあるのが本物で、洗礼堂には日本の銀座にあるサン・モトヤマというお店の社長が寄贈したレプリカがあるとのことです。
この社長の本(江戸っ子長さんの舶来屋一代記(茂登山長市郎))は以前このブログでも紹介http://blog.goo.ne.jp/good-tasty/e/3a1d750f9358bef7781c681743c693ffしたことがあり、驚きましたね♪


↑ミケランジェロの本物の「天国の扉」


↑洗礼堂にあるレプリカ

そして以下のこれも黄金色に輝くものは素晴らしいと思いましたね♪


↑黄金色に輝くもの

それから、近くのその洗礼堂へ行きましたが、天井画がとても美しくて驚きました♪
素晴らしいと思いましたね♪


↑洗礼堂の天井画

なお、ジョットの鐘楼や美術館、洗礼堂、クーポラ登りなどは共通券15ユーロで48時間以内に楽しめるので、ぜひご利用することをオススメいたします♪
特にクーポラ登りは人気で事前予約した方が無難なようです♪

イタリアのフィレンツェの花の聖母教会ドゥオーモ関連どれも美しく、観光にとてもオススメですね!

お勧めなお話(2016年上半期)

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「ラーメンの語られざる歴史(ジョージ・ソルト)」という本はとてもオススメ!

2016年11月11日 01時00分00秒 | 
「ラーメンの語られざる歴史」の購入はコチラ

 「ラーメンの語られざる歴史」という本は、1880年代に中国から日本に当時支那そばと呼ばれたラーメンが入ってからの歴史について詳しく、分かりやすく、その背景も含めてまとめたものです♪

具体的には以下となります。

第1章:日本ラーメンの誕生可能にしたのは、1870年代のヨーロッパ料理の流入後に起こった小麦と肉の生産拡大と、1880年代に横浜地域に定住した中国人移民労働者の食習慣の導入があったこと。また1910年代と1920年代に産業経済活動が急拡大したとき日本人と中国人の料理人たちは「支那そば」という料理を広めた。しかし1940年代初頭に食糧不足と戦争のため支那そばは日本の都市から消え失せた。

第2章:第二次世界大戦後にアメリカ軍が日本を1945~1952年に占領したとき、アメリカ小麦からつくられた「支那そば」などの食べ物は緊急時に栄養を与える重要な役割を担い、米不足の対応であり深刻な食糧不足を緩和し助けた。また帝国主義と戦争という記憶につながる「支那そば」の代わりに、「中華そば」や「ラーメン」という言葉になった。またアメリカから日本に送られた小麦は共産主義を封じ込める重要手段だった。

第3章:急速な再工業化の時代である1955~1973年のラーメンについて、アメリカ小麦の大量輸入と急速な再工業化、官僚制度・企業・政治指導層の継続性が食糧消費の傾向との間に関係性があること。ラーメンは日本人労働者の典型的な高カロリー昼食としてより頻繁に大衆文化に登場するようになり、若者の流行になっていく。また日清食品が1958年に発売したインスタントラーメンの成功について、家族構成の変化や家庭電化製品、湯沸かし器など新しい台所用器具普及との関連があったこと。

第4章:ラーメンが1980年代のマスメディアで若者に人気の消費財へと変化し、やがて1990年代には国民食として象徴化されたこと。1994年に約34億円をかけて新横浜にラーメン博物館が建てられ、肉体労働者を連想させる食べ物から愛される国民食へと変化したこと。

第5章:過去10年のニューヨークとカリフォルニアからのラーメンの国際化について探求。

特に夜にこの本を読んでいると、ラーメンが食べたくて堪りませんでしたね^_^;)
糖質制限中に読むのはキツイです^_^;)

 「ラーメンの語られざる歴史」という本は、1880年代から中華そばと呼ばれ、戦後のアメリカからの小麦粉の大量輸入により中華そばという名称に変わって発展したラーメンについて、その裏側にもメスを入れて、歴史の勉強にもなり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・ラーメンは多様で、作り手ごとに違うほどだが、もっとも基本的な構成要素は麺とスープ、調味ソースだ。麺は小麦粉と塩、水、かんすいで作られるのが普通だ。かんすいは、麺に黄色い色味となめらかな質感、独特の香りを与えるだけでなく、歯ごたえもよくする。一般的には、日本列島の南と西へ向かうと、だんだんとラーメンに使うかんすいは減っていく。かんすいを多く含む(水分中に30から40%のベーキングソーダ、つまり炭酸ナトリウムを含む)麺を使う傾向が強いのは、日本の北と東だ。博多スタイルのラーメン(九州の博多にちなむ)と沖縄そば(主に沖縄県で食べられる)の麺にはかんすいは使用されず、東京と札幌スタイルのラーメンの麺ではかなりのかんすいが使われている。スープは肉と魚介、野菜を煮出して作られる。肉は一般的に鶏や豚だ(特に使われるのは脚や背中、あばら、膝で、豚の頭が使われるときもある)。伝統的な東京ラーメンでは豚は使わず鶏だけを用いるが、九州ラーメンの店は豚と豚骨を大量に使うことで有名だ。使われる魚介は二枚貝や乾燥させた魚(通常は鰯やカツオ)、乾燥させた海草(昆布)だ。スープに一般的に使われる野菜は、玉ねぎにネギ、ショウガ、ニンニクだが、東京の大井町駅近くの「Ajito」(アジト)は、カボチャやジャガイモ、さらにはリンゴを使い始めた。ここのラーメンは野菜ポタージュ(ベジポタ)ラーメンとしてよく取り上げられている。最後の要素である濃縮された調味ソース(タレ)には、一般的に塩、発酵させた大豆ペースト(味噌)、醤油の3つの味があり、スープベースに味を足す。東京のオシャレな表参道にある「ラーメンゼロPLUS」のように、タレをまったく使わない例外的な店もあるが、ほぼすべてのラーメン職人が独自のタレをつくり、スープをつくるテクニックと同様にタレのレシピを秘伝にしている。個人経営のラーメン店が繁盛するようになったのは、小規模な飲食業のほとんどが苦境にあった時代だった。日本にはラーメンを出す店が8万以上あり、そのうちラーメン専門は約3万5千店である。どの地方にも独自のスタイルのスープや麺、トッピングのラーメンがあり、常に新たな材料の組み合わせが工夫されて、新しい店の売りになっている。ラーメン産業のロビー団体の役割を果たしているラーメン店協会がいくつもあり、何万人ものラーメン店従業員の生活は地元客が常連になってくれるかどうかにかかっている。新入社員の平均時給は一般的には800円から1000円で、東京のラーメン一杯の平均価格は1990年の450円から上昇して、現在は590円になった。

・ラーメンは、日本の各地方で異なる進化をとげた。1920年代と1930年代に急速に発展した多くの都市では、現代的な都市生活の到来を示す主要な食べ物のひとつになった。東京だけでなく、北の札幌や南西の博多のような地方中核都市でも、安くて早く、塩と獣脂、工場で処理された小麦粉がたっぷりの腹持ちのいい食べ物は、新しい労働形態や食物、娯楽が古いものに取って代わっていく近代産業の生活様式にぴったりだった。19世紀後半から20世紀初頭、日本が工業化され、より都市化していくにつれ、それまで街の生活で優勢だったそば屋と落語は、しだいに中華料理店と映画館に取って代わられていった。このようにして、ラーメン製造と消費は、社会や政治、経済が急速に変わっていく時代の日本において、近代の都市労働者階級の生活に欠かせない要素になっていった。ラーメンの人気が高まったのは、日本の都市労働人口が増大していった1920年代と1930年代だ。しかし、1937年に中国と、その後1941年にアメリカとはじめた戦争のせいで物資不足となり、1940年代には日本の人々がラーメンを楽しむのは非常に難しくなった。1945年8月に終戦を迎えたとき、空襲や封鎖、不作の結果として、ラーメンだけでなく、ほぼすべての食料の入手が難しくなった。第二次世界大戦敗北後の2年間の食糧事情では飢餓と欠乏が際立っていたが、1947年以降になると、アメリカ軍による日本の小麦緊急輸入がラーメン製造と消費を大きく回復させた。アメリカから(カナダとオーストラリアからも)の小麦輸入は、1952年の正式な占領終了のあとも継続し、冷戦中の東アジアに位置する日本などのアメリカ同盟国の人々の食習慣を根本的に変えていった。1960年代、建設業と重工業での雇用が増えるにつれてラーメン文化が広まっていき、1980年には、ラーメンは流行をつくる若者たちが好むものとして、有力メディアで全国的な注目を浴びる。地方の有名店が国内旅行者の名所になり、ラーメンの長所や短所について、書かれたものを読んだり、考えたり、語りたがる大衆相手に、数え切れないほどのテレビ特集や雑誌、ガイドブックが競って最新情報や穴場を伝えた。1994年のラーメン専門テーマパークの開業とその宣伝は、日本の国民食の象徴的な存在としてのラーメンの地位を確立させた。その後1990年代にはじまった世界進出で、ラーメンは海外における日本の確固たる象徴となった。一方の日本国内では、現在の材料や技術、用語の地域差だけでなく、テレビ番組に登場する奇抜な有名職人に注目するのがトレンドだ。ラーメンはいつの間にか、日本の日常生活の象徴に、そしてその結果として、国そのものの象徴へと進化したのだ。

・1910年、尾崎貫一は賃金労働者が押し寄せることで有名な地域、浅草に「来々軒」を開店した。「来々軒」がつくったのは1880年代と1890年代に南京町(現在の中華街)で出されていたネギだけの簡単な汁麺と違って、醤油ダレを使った汁そばで、「支那そば」と呼ばれ、「チャシュー」と「ナルト(かまぼこ)」、ゆでたほうれん草、海苔が乗っていた。このすべての具が揃うと真正な東京ラーメンの典型になる。「来々軒」はすぐに、安くてうまくて早い「支那そば」だけでなく、「焼売」や「ワンタン」(スープワンタン)などの日本人の舌に合わせた中華料理で評判になった。

・1920年代の日本では喫茶店や洋食屋でも「支那そば」が食べられた。喫茶店と洋食屋はどちらも新しい食べ物を紹介する重要な役割を担っており、ヨーロッパの材料と技術を日本のものと組み合わせて、まったく新しい食べ物を生み出すことも多かった(たとえばオムライスはケチャップと卵焼き、いためた玉ねぎと鶏肉を組み合わせた日本式のオムレツ・ライスで、今でも人気がある)。特に札幌では、1930年代にはすでにラーメンは喫茶店の定番で、ラーメン史でよく述べられているように「支那そば」ではなく「ラーメン」として出されていた。

・科学知識の食物生産への応用が大幅に増加したのは、1920年代のことだった。食物と栄養の研究は、戦前の日本でもっとも権力のあった省のひとつ、内務省のもとで1920年に設立された政府機関「栄養研究所」とともに発展した。この研究所がなによりも力を注いだのは深刻化しつつあった食物生産と流通に関する問題、なかでも産業労働者の生産性を保つために適切な栄養を与えることだった。このような研究は軍隊の食糧計画にも利用され、田舎出身の多数の徴集兵がはじめて中華料理を体験することになった。これでわかるように、軍隊は国が後押ししている栄養学の発見を大衆へと広げる最初の場所の一つだった。

・1920年代と1930年代の日本の都市に中華料理が普及したのは、いくつもの要素が重なった結果だったのだ。その要素とは、安くて高カロリーの食べ物への需要を生み出す工場労働者階級が登場したこと、より多くの小麦や肉が手に入ったこと、近代栄養学における発見が乳製品の消費を奨励したこと、小麦への麺への加工などの機械化された生産技術が発展したこと、そして、日本の中国進出によって中国の食文化が日本人に身近になったことなどであった。互いに深く関係しているこれらの変化が、日本の都市住民、なかでも労働者階級のあいだでの「支那そば」消費の拡大に大きく寄与したのだ。

・食糧配給と民間の食品流通規制という政府の厳格な制度によって、「支那そば」などの大衆食堂の食べ物は1942年に都市から消え失せる。まさにこの時期は、この10年「支那そば」を食べてきた労働者や兵士からの需要が急増していたときだった。戦争による兵士と重工業労働者の増加は、彼らに一般民間人より多くの食糧を割り当てねばならない戦時体制下で、必要な食糧を管理する人々にとっては深刻な問題だった。1942年の食糧管理法によると、兵士や重工業労働者、一般民間人は一日それぞれ、600、420、330gの米あるいはその代替品を付与されることになっていた。満州での大豆の増産と日本本土での民間人の食糧増産努力によって、戦争による需要贈のいくらかは充当できたが、主食は不足していた。

・アメリカ占領時代、日本の麺類業者は次第に中華汁麺のことを、戦争を想起させる「支那そば」ではなく「中華そば」と呼びはじめた。この変化は、アメリカと日本が日本を平和国家へと作りかえようとした努力の表れでもあった。占領下でアメリカが草案をつくり、日本が公布した戦後の日本国憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたっている。日本政府とマスメディアも「中央の国」や「中央の王国」を意味する「中国」と呼びはじめたが、この戦後の名称は、中国政府代表が日本政府に使用するように要求したものだった。

・日本でラーメンが復活したのは、アジアの同盟国に優先的に小麦の食糧援助を行うというアメリカの戦略的決定の結果だった。当初、アメリカ政府は日本の深刻な食糧不足は、日本自らの責任だとしていたが、その方針を変えて、1948年から日本経済再建計画の一環として、大量の小麦を輸出しはじめた。戦争で破壊されたとはいえ、いまだに日本は東アジア最大の非共産国だったため、アメリカ産小麦には日本を再建する労働者の体力維持・強化という重要な政治的な意図があったのだ。このように、東アジアでの冷戦激化につれて、アメリカの日本占領政策はやむを得ず行う緊急援助だけでなく、戦略的・地政学的目的と輸出利益を持つ政治・経済両面からの支援へと変化していった。アメリカ産小麦からつくられるラーメンなどの食品は、多くの日本人の飢餓を防ぐ重要な政治的機能を担った。さらに、小麦が到着したのは、日本当局とアメリカの監督者が行う食糧配給制度の機能不全と腐敗に対する抗議運動が頂点に達したまさにそのそきだった。当時、日本の共産主義指導者たちは、政府当局の食糧対策への大衆の不満を、共産党への支援に誘導しようとしていた。アメリカはこれに対して、ことあるごとに輸入小麦を宣伝し、アメリカは飢餓の時代の救済者だというイメージをつくりあげようとした。アメリカからの緊急食糧は絶妙のタイミングでラーメン露店を復活させ、これによって、共産党支援のきっかけになっていた飢餓と生活物質入手の不公平さ、困窮による暴動の可能性を期せずして鎮めることになったのだ。

・戦後にさらに事態を悪化させたのは、食べさせる国民の数が増加したことだった。日本帝国の植民地が失われた結果、アジア太平洋のさまざまな地域から約600万という多数の日本人が引き揚げてきたのだ。この増加によって、必要食糧は米に換算して1946年度の655万2千トンから、1947年度には794万6千トンに増加した。これは最悪のタイミングだった。もはや植民地から日本への食糧供給が不可能になったときだったのだ。戦争と天候不良による1944年と1945年の米の凶作がさらに拍車をかけ、栄養失調状態と飢餓が蔓延する結果を招いた。配給食糧だけでは生きていけなくなり、農家以外の国民にとっては闇市の食糧が不可欠になった。飢餓か犯罪に手を染めるのかという、苦しい選択を迫られたのだ。のちに新聞記者たちが日本のソクラテスと称した判事の山口良忠は、闇市の食糧を食べることを拒絶した結果、1947年10月に栄養失調で死亡している。こうして、配給食糧だけでは生きられないということが劇的な形で政府当局に突きつけられた。

・この文書は、すぐには用意できないアメリカからの追加部隊を必要とするような暴動の可能性を抑えるために、アイゼンハワー将軍が緊急食糧輸送を要求していたことを示している。アメリカ政府は緊急食糧を援助ではなく貸し出しとして提供し、日本政府の準備が整いしだい正規料金が支払われることを期待していた。報告書「占領初年度の食糧状況」が述べているように、「この1年間の日本の食糧輸入は、直接の救援物質という形ではなかったことが指摘されるべきだ。それらは商業的な輸出であり、日本はアメリカの現行価格を請求されている」。つまりアメリカ小麦からつくられた「中華そば」は、日本でそれを食べている人々は知らなかったが、高価なものだったのだ。アメリカは日本政府に対して緊急食糧援助に正規輸出価格を請求しただけでなく、占領の結果として発生する占領軍の経費のほとんどを、日本政府が補償するように規定していた。ジョン・ダワーは次のように書いている。
 占領軍がやってきてはじめて、巨大な占領軍のための住宅費と維持費の大半を支払わねばならないことがわかったのである。事実、この占領軍向け支出は、占領開始時の国家予算の実に3分の1を占めた。・・・1948年の時点で約370万所帯が住宅のない状態であった一方で、日本政府は占領軍の住宅と施設に予算の相当部分をあてなければならなかった。しかも、それはアメリカの生活水準に合わせる必要があった。しかし、日本の報道機関へのアメリカ軍の厳しい統制のため、日本人はほぼ、あるいはほとんど、日本占領の費用について知ることはなかったし、それどころか、食糧援助を提供したアメリカの寛大さと慈悲深さを教え込まれた。食糧もまた、歴史の書き換えと無縁ではない。

・アジアで冷戦が始まったことで、アメリカは日本に対する懲罰的な食糧政策を転換し、飢餓の緩和に向けて大いなる努力を開始した。つまり、「中華そば」などの食べ物になった小麦の背後には、日本での共産主義の高まりを回避する地政学的戦略があったのだ。このために、アメリカ政府は1947年の春に日本経済の自力回復を期待する姿勢を変えて、日本の再工業化を援助する政策を積極的に考えるようになった。この変化は、ドイツと日本の経済復興を利用してソビエト連邦を封じ込めるというトルーマン政権の政策によるものだった。1947年初めには、中国においてアメリカが支援していた国民党政府が共産党勢力に敗北しようとしていた。アメリカはこの紛争から軍を撤退させ、日本の軍隊と経済力の再構築を利用して共産主義を封じ込める地政学的戦略へと舵を切った。

・占領時代のアメリカ小麦輸入への依存が日本の長期的な食糧輸入の方向性を決定し、その後数十年にわたってラーメンなどの小麦を原料にした食品が興隆する基礎となった。第一次世界大戦後にはじまった米代替品への動きは、日本人の食習慣を根本的に変えた。アメリカ産小麦粉(メリケン粉)を料理する主婦の多くは、堅パンなどの素朴な調理法のパンや団子(すいとん)、手打ち麺(うどん)をつくった。このうち、もっとも劇的だったのはパンの消費量増加だ。小麦粉の歴史を研究する食文化史家の大塚滋によると、アメリカ小麦が増加した結果、日本でのパン消費量は1948年の26万2121トンから1951年には61万1748トンへと増加している。闇市ではアメリカ小麦を使った「中華そば」や焼きそば、お好み焼きなどのごちそうが使用量を大きく押し上げた。アメリカが日本の食習慣調査に努めたのは、労働力強化によって経済生産を刺激する総合的な目的の一環だった。日本人の食習慣をアメリカ流につくり変える試みは、学校給食プログラムでもはっきりとわかる。最初は大都市の小学校児童にのみパンにビスケット、粉ミルクが食事の主要品目として提供されたが、のちに年齢や地域に関わらずすべての日本人児童に提供されるようになった。学校給食は、戦略的な反共同盟国に必要な頑健な労働力育成に不可欠だっただけではなく、被占領民に占領を合法的だと認めさせる強力なプロバガンダの手段でもあった。

・アメリカの寛大さが宣伝されはしたものの、最終的には日本政府が占領中に受け取った食糧その他の援助の代金を支払うことになった。1962年1月、日本政府は占領中に輸入された食料と原材料、燃料の4億9500万ドルの弁済に同意した。これは、外国軍を維持する「終戦処理費」として支払済みの約50億ドルへの追加だ。つまり、日本の納税者は自分たちが食べた食糧に支払いをしていたのに、アメリカは日本がもっとも必要としていた時期に寛大だったという物語が、日本の公式な戦後史の基礎になったのだ。

・ラーメンは、1955年から1973年の日本の高度経済成長時代に建設労働者と学生の昼食の主役になった。この時代、数多くの建設計画と田舎から出てきた大勢の若者が、東京などの大都市の生活をつくりかえた。ラーメンはより手軽に食べられるようになっただけでなく、急成長する経済の片隅で苦闘する人々にも手が届く食事というイメージが生み出された。この時代の映画や短編小説、雑誌記事は、ラーメンが手軽になったことと、裕福ではない人々が頻繁に食べていたことを裏付けている。ラーメンが露店の闇市から郊外や中心部の普通の飲食店へ進出していったのは、あらゆる世帯の購買力が向上した結果でもあったし、若者が油っぽい麺を好んだからでもあった。1955年から1973年までに、収入に対する食べ物への支出が50%減少しているにも関わらず、ラーメンへの世帯支出は250%上昇した。この間、食べ物への需要とインフレーションのせいで、ラーメン一杯の値段は1954年の35円から1976年には250円に値上がりした。これと比較して、標準的なカレーライスは同じ時期に100円から300円に上がり、トンカツは280円から650円に値上がりしている。このあいだにラーメンは、主として苦しい生活の屋台引きが売る安い軽食から、政府による国民の健康福祉調査の統計に含まれる、普通の食堂で出されるものへと出世していった。

・小麦と肉消費量の全般的な増加によるラーメン販売の増加は、米やサツマイモ、豆への需要低下を反映していた。食習慣変化の大きな原因は、同盟国にアメリカの輸出小麦を大幅な値引き価格で買うように奨励するアメリカ政府の政策と、日本における小麦や肉、乳製品の消費を推奨する現代栄養学の広がりだった。さらに、戦後のベビーブームによって日本の人口構成が変わり、ラーメンを食べたがる(予算もある)若い都市消費者という新しい世代も生まれていた。食の観点から見ると、高度成長の時代はインスタント食品お時代とも考えられるかもしれない。最初のインスタントラーメンは1958年に登場し、カップ麺は1971年に売り出された。日本で全国的に人気を得た最初のインスタント食品である日清食品のチキンラーメンは、食品技術と市場戦略、そしてこの時代を象徴する消費行動の大変化における中心的存在だった。日清食品のチキンラーメン販売が成功したのは、そのとき住居(郊外化と大規模共同住宅)と販売(スーパーマーケット)が変化したことにあった。日清とインスタント食品産業のすべてが、日本における人と食との関係を根本的に変え、食事がより便利で個別的なものとなる流れを加速させたのだ。高度成長時代のインスタントラーメンの物語は、先に述べたアメリカ小麦の消費(と米消費の減少)、地方色のあった食習慣の全国的な均質化、食の流行を宣伝するメディアの強い影響力などの要素をきれいにまとめてくれる。

・アメリカの農事産業代表者も膨大な量のアメリカ小麦を処分するために、日本政府当局者に明確な政治圧力をかけていた。小麦粉食品の供給増加は、オレゴン産小麦を日本へ輸出したいアメリカ側の目論見と、日本の主婦にアメリカ流の栄養科学を広めて、小麦を普及させた日本の官僚の努力によるところが大きかった。西洋料理と中華料理は栄養とエネルギー源として優れているという観念は、1920年の栄養研究所の設立によって科学的に補強されていたが、これらの食べ物が実際に広まったのは、厚生省の指導があった1950年代後半から1960年代だ。アイゼンハワー政権はアメリカの農事産業代表者による日本への小麦輸出増加を支援し、日本の指導者たちは官僚や栄養学者に小麦消費を奨励させて、アメリカの輸出意欲にこたえた。食生活史研究家の鈴木猛夫は、占領後の20年間で日本の食習慣が小麦や肉、乳製品へと変化していったのは、味覚と偶然によるものではなく、日米両政権による綿密な計画の結果だと断言している。占領時に暴動の脅威抑制の緊急手段として大量に小麦を輸入したのは駐留アメリカ軍だったが、アメリカ農事産業の余剰産品の日本やアジアの同盟国への輸出を最優先経済事項のひとつにしたのは、占領後のアイゼンハワー政権だ。アメリカ政府が民間による小麦輸出の促進重視の決定をした大きな理由は、1953年にカナダとオーストラリアの生産力回復によって世界の小麦価格が下落し、アメリカ産小麦の余剰品が政府倉庫に山積みになっていたからだった。

・小麦はアメリカの冷戦戦略における重要な道具だった。アメリカは無償の食糧(それと食糧という形での代金後払いの低利貸付)を利用して、しぶる吉田茂政権に対し事実上の再軍備に同意させた。この政策がほぼ確定したのは、1953年の池田・ロバートソン会談だ。日本はアメリカ代表からの圧力を受けて、アジア地域の政治経済的利益を守るためにさに大きな軍事的役割を引き受け、再軍備にともなう兵数拡大に同意した。同意した要因のひとつh、60万トンの小麦を含む5000万ドル相当のアメリカからの食糧援助だった。アメリカは日本での食糧販売で得たこの5000万ドルのうち、日本の経済、軍事援助に4000万ドルを費やし、日本政府に渡された残りの1000万ドルは国内の農業復興と発展のために使われた。日本だけでなく、イタリアとユーゴスラビアも食糧援助としてそれぞれ600万ドルを受け取り、パキスタンとトルコもそれぞれ300万ドルを受け取っている。ほとんどの食糧援助を受け取ったのがこのような国々だったという事実から、アメリカの外交政策立案者から見ると、彼らとの継続的な同盟関係(あるいは、ユーゴスラビアの場合はソビエトとの非同盟関係)がいかに重要だったかがわかる。

・アメリカ小麦は、日本の食習慣の変化に広く影響を及ぼした。1950年代後半に日本がアメリカから輸入した小麦は日本の新聞で「MSA小麦」と呼ばれるようになり、厚生省は多くの人員と資金をつぎ込んでパン食の利点を賞賛した。食生活史研究家の鈴木が述べたように、パン中心の食事への移行は主食穀物と結びつく食べ物へと好みを変化させるため、この移行は単なるパン消費以上の意味があった(彼は例として、パンは味噌汁や焼き魚、漬け物には合わないと指摘する)。このように、補助金つきのアメリカ小麦の大量輸入後の乳製品と肉の消費量増加と米の消費量減少は、まったく別のことではなく関連していたのだ。鈴木によれば、アメリカは小麦を主要穀物として奨励して日本人の食習慣を変えることを目指していた。なぜなら、肉や粉ミルクなどの輸出食料品の市場もつくりだせるからだ。彼はこの証拠として、1954年の農業貿易促進援助法(PL480)が、同盟国へのアメリカの食糧援助輸出について4つの重要点を規定していることをあげる。
(1)アメリカ農産物をドルではなく、その国の通貨で購入でき、しかも代金は後払い(長期借款)でよい。
(2)その国の政府がアメリカから代金後払いで受け入れた農産物をその国で民間に売却した代金(見返り資金)の一部は、事前にアメリカの協議のうえ経済復興に使える。
(3)見返り資金の一部は、アメリカがその国での現地調達などの目的のほか、アメリカ農産物の宣伝、市場開拓費として自由に使える。
(4)アメリカ農産物の貧困層への援助、災害救済援助及び学校給食への無償贈与も可能である。
鈴木が強調しているのは、最初の2条件は食糧を輸入する国の経済的発展に役立つが、3、4番目の条件はアメリカの食糧に合わせた食の好みに変化させるために、実際には国内の農業発展の可能性を制限しているという事実だ。池田・ロバートソン会談でアメリカ側と交渉した日本の高官たちは、アメリカ小麦の大規模輸入によって日本の小規模農家が被る経済的損害を認識していた。国内農家の懸念に対処するため、政府はアメリカ食糧の販売から得られた1000万ドルの大半を国内農業生産拡大にあてた。この見返り資金の多くがそそぎ込まれたのは、愛知用水事業だ。幹・支線を含め1242kmもの水路が新たに建設され、木曽川からの水が、濃尾平野と知多半島の慢性的水不足地帯へと供給された。皮肉なことに、愛知用水が完成した1961年には(手に入れやすい安い小麦食品のせいで)米の消費が減少したため、この地域での米生産はもはや魅力的な事業ではなくなっていた。

・アメリカの小麦生産者は日本市場への輸出拡大のために日本へ代表を送り込み、厚生省の役人を説得して、移動「キッチンカー」料理教室で主婦にアメリカ食品を売り込んだ。厚生省の役人は仕方なく栄養士の荻原八重子と生徒たちを雇い入れ、キッチンカーで「MSA小麦」や缶詰の肉などの輸入食品などの材料を使い、ほとんどが西洋と中国の料理の作り方を実演させた。アメリカ政府はこのような活動に、日本へ輸出されたアメリカ農産品から得た資金をあてた。日本食生活協会の当時の副会長、赤谷満子によると、アメリカはキッチンカー活動用の12台車とガス、食品、人員に十分すぎるほどの資金を提供したという。彼女はこの資金について、「ことさら隠そうとしたわけではないのです。けれdも、何と言いますか、アメリカの資金について触れるのは、協会の中ではタブーのような空気がありましてね」と述べている。さらに、鈴木みずからがインタビューした戦後もっとも有名な日本の栄養学者のひとり、東畑朝子によると、気前のよいアメリカの資金提供は「誰もが隠したいと思っていたこと」だった。アメリカ政府は日本の栄養学者に助成金を出し、アメリカ農産品が広く消費されるための科学的根拠を広めその結果、日本の国内農業部門の衰退を招く一因となったのだ。1950年代なかばからおわりまで、日本の第一級の栄養学者は、米に代わる食品とまでは言わなかったが、便利で栄養に富む食品としてパンの利点を売り込んだ。西洋の「パン食文化」における食習慣の利点を訴えるため、科学的権威者を利用した。尊敬されていた栄養学者や科学者の一部は、大きな文化的欠陥は米食に起因し、西洋人と比べて工業生産性の競争力が劣っているのはアジア人の食習慣が根本原因だと主張した。そのような栄養学者の一人が、1953年から1963年に厚生省栄養課の二代目の課長をつとめた大磯敏雄だ。それまで10年間占領軍で働いていた大磯は、1959年に「栄養随想」を発表し、ヨーロッパに「理性」と「進歩」が生まれたのは小麦中心の作物によると述べた。大磯と彼の指揮下にあった人々が、1950年代後半から1970年代初期のアメリカ産食品の大規模な取り入れに対する思想的な下準備のほとんどを整えたのだ。

・同様に、慶応大学医学部教授の「林たかし」は、1958年に大きな影響を与えた本「頭脳-才能を引き出す処方箋」を発表し、過剰な米食は脳の発達を妨げると主張した。彼はこう述べている。「親たちが白米で子供を育てるということは、その子供の頭脳の働きをできなくさせる結果となり、ひいてはその子供が大人になってから、又その子供を育てるのに、バカなことを繰り返すことになる・・・米食をすると頭脳が悪くなる。日本人を西洋人に比べると2割方アタマが悪い。ノーベル賞の受賞者が日本人に少ないのもそのためだ・・・日本は水田を全廃して総パン食をめざせ」。この林の研究はその後、小麦製食品生産者の全国組織が印刷し、全国メディアが注目したパンフレット、「米を食べるとバカになる」のもとになった。

・アメリカ食品への移行には、米への需要落ち込みが反映されていた。一人一日あたりの平均的な米の摂取量は、1925年に最高値の391gに達し、1946年には米不足のために254gにまで低下していたが、1962年には戦後最高の324gにまで盛り返した。しかし、可処分所得が著しく増加し、国内生産米の供給が豊富だった1962年のはいめには、一人あたりの平均一日摂取量は急激に低下しはじめる。1978年になると、1946年を下回る224gにまで低下した。これで明らかになるのは、小麦は産業復興段階の戦後初期には米の生産不足の埋め合わせだったが、食の好みには戦前のパターンへ戻ろうという欲求が反映されていることだ。1962年以降の消費パターンが示唆しているのは、食習慣の変化は好みによるものであり、高度経済成長時代の要請ではなかったこと、つまり日本人の多くは米があっても、小麦製食品を選択していたということなのだ。日本の世帯の可処分所得が増加すると、食べ物の選択は栄養学者が指示しているものや、アメリカが輸出しているものと同じになっていった。これは、戦後日本の食習慣に、官僚の指導とアメリカによる貿易政策がきわめて広範囲に影響を与えていたことを物語っている。地方有権者の支持に頼っていた与党自由民主党は、米消費の落ち込みに対して、1960年代後半から積極的に米を推奨した。なかでも農林省は、大手食品会社に米を使った大量消費製品の開発を奨励した。これにこたえて、日清食品は1967年にインスタントライス製品の「日清ランチ」を売り出したが、この製品は日清の歴史では珍しい失敗作としてすぐに姿を消した。1976年、日本政府は地方自治体に学校給食で米を使うように指導をはじめた。政府が1960年代後半から学校とインスタント食品業者を対象に、小麦ではなく米の利用に向かわせようとしたことは、これらが日本での余剰の主要穀物を吸収する重要な場所として機能していたことが現れている。しかし、このような政策にも関わらず、一日あたりの米消費量は1960年代後半から1970年代にかけて低下し続けた。

・ラーメンライスやB定食(ラーメンと餃子とチャーハンの定食)のような高カロリーの食べ物が人気だったのは、都市の建設労働需要が急増した時期と同じだった。1960年代初期は、1959年に発表された1964年の東京オリンピックに向けての首都の建設ラッシュの時期であり、東京とその周辺地域では数多くの公共工事が行われていた。オリンピック施設(日本武道館など)だけでなく、東京と名古屋、大阪を結ぶ新幹線、東京の地下鉄日比谷線、羽田空港と都心を結ぶ東京モノレール(当時世界最長)、全長31.7kmの高架の都市高速5路線など、すべてが1964年のオリンピックに間に合うように姿を現した。これらの建設計画と下水道施設の改良工事は、建設業に大きな労働需要を生み出した。この需要を満たした労働者の多くは「出稼ぎ」と呼ばれる季節労働者で、10月から4月の農閑期に農業以外の仕事をする人々だった。ほとんどが20代から30代の若い男性で、都市部でひっきりなしに行われていた建設工事で半年間働いた。

・仕事を求めて田舎から出てきた大勢の若い独り者のおかげで、占領時代に屋台を引いていた人の多くが安い食べ物への需要をとらえて成功し、ラーメンを商う小さな中華料理屋へとのし上がった。たとえば札幌では、札幌ラーメンのパイオニア<龍鳳>は闇市の屋台からはじまった(残念ながら、この店は2011年に約60年の歴史を閉じた)。屋台からはじまったその他の店には、東京荻窪駅近くの、<春木屋>(東京スタイルの荻窪ラーメンに特化した店のひとつ)や、1998年に和歌山ラーメンブームを起こした功績のある和歌山の<井出商店>などがある。また同様に、1980年代初期に東京地区で豚骨スープを広めたことで有名な<ホープ軒>は、1934年に東京錦糸町の<貧乏軒>という屋台からはじまった。このように闇市から都市の商業地区に移ったラーメンは、労働者に必要なカロリーを与え、安いアメリカ小麦を労働者へ提供することで、公共インフラと有名プロジェクトが進展する手助けとなったのだ。

・世界的なラーメン・フランチャイズの<天下一品>も、1971年に木村勉が脱サラ事業として立ち上げたものだ。屋台からはじめた木村は苦労して京都で店を構え、その後日本を越えて海外のハワイなどに拡大させた。1970年代にラーメン事業をはじめたその他の脱サラたちも、札幌ラーメン<どさん子>などのような有名ブランドのフランチャイズ店舗を開業することが多く、同店は1967年の1店舗から1977年には1000店舗以上に拡大した。

・1950年代から1970年代半ばに、ラーメンを特に昼食として食べる習慣が、都市に住む建設労働者と若い独り者に広まった。政府は、労働者の生活水準を調べる世帯の食費出費調査で、ラーメン消費の情報収集を開始した。ラーメンがどこでも食べられることは、国の急成長の労働力として、地方から都市に移住してきた多数の独り者のための手頃な食堂が、急増していることを現していた。多くの会社員は会社帰りに、同僚と酒を飲んで仕事の息抜きをするため、ラーメンは夜の娯楽産業に不可欠なものでもあった。つまりラーメンは、高度に合理化され、急成長する商品経済における不満と停滞のシンボルとして、きわめて重要な役割を果たしていたのだ。また同時に、小規模なラーメンの商売はこの時代の終わり頃には経済的自由というオーラをまとうようになり、実際にはそうでなくても、次第に多くのホワイトカラーが、ラーメン店主は「脱サラ」だと考えるよになった。このように、ラーメンづくりは新しい逃げ道となり、その結果として、日本の大企業に蔓延する厳しい労働慣行への批判となったのだ。

・ラーメン店は公共住宅や道路建設の労働者に力をつけるものだったが、インスタントラーメンは郊外に住む新しい中流階級にとっては便利な食べ物だった。かつてクリエイター達が独り者の労働者階級の食べ物として描いたラーメンが、1958年に発売されたインスタントラーメン判では、中流階級の子供たちと結びつくようになった。テレビで頻繁に流れる宣伝や、便利な食品の人気、郊外でのスーパーマーケットの普及が、インスタントラーメンが成功する大きな要因となった。

・アメリカからの食糧援助は、日清食品の安藤たち実業家にとって、強力な政府との関係を利用して確かな流通経路を通し、自分たちの大量生産製品を売るチャンスであり、高い利益が確保できた。安藤によると、彼の使命はラーメンのインスタント版をつくることであり、その理由の一部は、アメリカ輸入小麦を学校給食向けのパン以外の食べ物に加工する方法を模索していた農林省と厚生省の官僚との会合の結果だった。彼は次のように書いている。世界初の即席めん、チキンラーメン開発を語る前に、もう少し、その背景となったエピソードを紹介しておきたい。それは、栄養剤ビセイクルの製造、販売をしていたころにさかのぼる。仕事の関係から、私は厚生省に出向く機会が多くなっていた。占領下、日本がアメリカからの援助物質で、辛うじて食をつないでいたころである。コムギ、トウモロコシなど、なんでも食べないと生きていけない時代だった。そうした環境の中で、粉食に慣れない日本人に、援助物質であるコムギの普及、援助を図るのが、厚生省の仕事の一つだった。当時、十数台の宣伝車を動員して「パンを食べよう」と盛んにPRしえいた。街頭で宣伝車を見かけるたびに、私には思うところがあった。粉食といえばパンばかりというのが私には不満である。学校給食などもパンが主流になっていた。食が文化、芸術、社会すべての原点である、という考え方はすでに述べた。とすれば、食のあり方を変えるのは、自分たちの伝統、文化を捨てることを意味する。パン食に慣れるのは欧米文化に支配されることだ、と私は考えた。この議論を厚生省の担当者にぶつけたのである。「粉食=パンでいいのだろうか。パン食は本来、副食物をたくさん食べないと栄養が偏ってしまう。日本ではパンとお茶だけですませている。東洋の伝統食めん類をどうして粉食奨励に加えないのですか」担当者はうなずいて聞いていた。しかしそのころのラーメンやうどんは中小、零細企業の分野で、アメリカの余剰農産物である大量のコムギ粉を加工し、配給するパイプ役は存在していない。工業化の面がネックになっていた。「偉そうにおっしゃるなら、安藤さん、あなたが研究したら・・・」と、そのとき勧められた。これもまた動機となった。ラーメンのインスタント版をつくるという安藤の意向は、その後豊富なアメリカ小麦に刺激された。彼はアメリカの安い供給食糧を即席めんにして、スーパーマーケットに流通させることにも興味を抱いた。即席麺の供給元として可能性があったのは、特に栄養指導に関してアメリカの学校給食制度を参考につくられた占領軍による学校給食制度だった。安藤のような大規模食品加工業者は、大量にインスタント食品を供給するために給食を目標としたものの、この計画は実現しなかった。

・安藤は1948年9月に、深刻な栄養状態の大衆に栄養を与える目的で食品加工業に参入した。脱塩工場からはじまった会社は拡大して、ふりかけ製造と動物性タンパク質抽出の工場も持つようになった。ビセイクルと名付けられた牛と豚の骨髄からのタンパク質抽出物は、栄養補助が必要な患者用として病院に販売された。これと同様に、魚の余り物から製造された魚調味料が良質なタンパク質とカルシウム源として販売されていた。一時期安藤は栄養補助食品の実験で、ゆでたカエルからの抽出物で食べ物をつくろうとしたこともあった。安藤が食品加工業を行ううちに親しくなった厚生省の役人は、廃棄物から栄養食品をつくる努力を熱心に支援した。つまり、安藤のすべての食品事業ビジネスモデルは、それまでは食べられないと考えられていたきわめて低コスト、あるいは無料の材料や物から食品をつくりだし、栄養とエネルギー源という外見をととのえて、政府のルートを通じて販売するという考えに則っていたのだ。インスタントラーメンの開発も、基本的に同じ道をたどっている。安藤は、簡単に手に入る安いアメリカ小麦と普通は食べない鶏の部位を使い、大企業と政府との関係を使える日清の力と組み合わせれば、製品を健康的食品として売り出すといううまい仕組みを思いついた。安藤が言うように「魔法のラーメン」の新しさは即席性にあったが、日清の最初のマーケティング戦略では便利さよりも栄養が強調されていた。最初のパッケージには、大きく「体力をつくる、最高の栄養と美味を誇る完全食」と書いてあった。この宣伝文句の魅力については、日本の高度成長時代という歴史的な文脈で考えなければならない。栄養学者が日本人と比較したアメリカ人の肉体的、精神的強さを引き合いに出しながら、小麦粉(麺)と肉(チキンエッセンス)の組み合わせの良質さを宣伝していた時期だったのだ。日清は麺にビタミンB1とB2を添加したあと、1960年4月にインスタントラーメンを厚生省から「特殊栄養食品」として販売する許可を得た。さらに1967年8月には、栄養面を向上させるために補助タンパク質のリジンを添加しはじめた。社史で説明されているように、補助タンパク質を添加したのは「当時、日本食は植物性タンパクに偏りすぎていると言われていた」からだった。このような考え方もやはり、小麦と肉、乳製品の方が優れているという考えを広めている日本の栄養学者と、アメリカの農産物輸出代表の努力で形成されたものだ。しかし日清は1975年6月に「国民の栄養状態の向上に伴い」、この種の栄養素の添加を止めている。加工食品への栄養添加物の魅力が低下して、添加物のコストに見合うメリットがなくなったためだ。

・日清食品の日本最大の即席めんメーカーへの成長には、日清との訴訟に破れて撤退していった何百もの小さなメーカーが密接に関連している。つまり、日清が成功した大きな理由のひとつは、特許等をめぐる係争や法律上の駆け引きを通じて競争相手を排除できたからでもあった。社史によると、日清は「会社の利益を守るために」、多数のライバル会社相手に訴訟を起こしている。

・チキンラーメンが皇太子殿下のご成婚によるテレビ保有率の増加から恩恵を受けたように、カプヌードルも事件への注目で利益を得た。この事件はテレビで生中継され、瞬間視聴率89.7%を記録している。この事件は、仲間14人と部外者1人を総括と称して殺害した左翼過激派大学生グループの連合赤軍が、警察から逃れて避暑地の長野県軽井沢の山荘に10日間立てこもったものだ。赤軍の5人のメンバーはライフルで武装して管理人の妻を人質に取り、突入の朝までに2人の警察官を殺害した。テレビ6局が生中継したこの事件は、日本で初めてテレビで目にした人質事件だった。膠着状態のあいだに記者たちが映し出したのは、守りを固める学生たちと対峙している警官たちが、寒さと空腹と闘うためにカップラーメンを食べている姿だった。氷点下の気温では弁当もおにぎりも具合が悪かったため、警察に1個50円(定価の半額)で売ったカップラーメンが隊員たちに配られた。警察官2名が死亡したこの立てこもりは、朝の突入で人質が解放され、学生5名全員が逮捕されて終わったが、その模様が逐一放送されたことで、発売後わずか5ヶ月のカプヌードルは全国的に知られることになった。後年、学生たちも立てこもり期間のほとんどをインスタントラーメンで生き延びていたことが明らかになった。こうして、カップラーメンは厳しい気候でも食べられる、緊急時にきわめて便利な商品として広く認められることになる。その後の数十年でこの機能はさらに重要になり、日清は自然災害後の危機的状況でインスタントラーメンやカップラーメンを提供する重要な役割を担っているという世界的な評価を得ることになる。1995年の阪神大震災や2011年3月11日の東日本大震災は、災害後のインスタントラーメンの有用性だけでなく、日清が日本の緊急食料の供給者として並ぶもののない役割を果たしていることを見せつけた。

・2005年には日本の即席めん産業は5000億円を売り上げ、日清食品と東洋水産、三洋食品、明星食品、エースコックの五大企業が即席めん販売のほぼ90%を占めた。日本以外のインスタントラーメン市場では、中国、インドネシア、韓国、タイ、アメリカの順に規模が大きい。さらに、ここ10年でメキシコも日本の重要な市場になってきた。ラーメンが成功すると、伝統的な調理習慣が排除され、未来の消費者はインスタント料理の手軽さに頼るようになるというパターンが生まれた。アメリカ小麦が、日本人の消費を米からパンや麺に向かわせたことと同じだ。たとえば1999年から2005年までに、メキシコのインスタントラーメン販売は3倍になり、年10億食、つまりひとりあたり10食にまで達した。インスタントラーメンが広がっていった時期に、メキシコの豆消費は半分以下に減少している。

・徳島ラーメンは札幌や博多、荻窪、喜多方のラーメンが勝ち得たような地位を得ることはできなかったが、それでも新横浜ラーメン博物館が認める19のご当地ラーメンには入ることができた。ラーメン博物館の展示による19のご当地ラーメンは、旭川、白河、喜多方、博多、米沢、横浜(家系)、高山、和歌山、徳島、広島、鹿児島、佐野、札幌、熊本、東京(荻窪)、京都、函館、久留米、尾道だ。ラーメン観光は1990年代後半から2000年代初期にピークに達し、そのなかで最後に独自のラーメンとして有名になったのが旭川と和歌山、徳島だった。

・1994年にオープンした新横浜ラーメン博物館は、日本でラーメンが国民食として偶像化されたことのもっとも有力証拠かもしれない。テーマパークと食堂街、博物館からなる34億円の事業は鳴り物入りで開業し、日本の若者と外国人観光客に大人気のアトラクションになっている。この博物館の成功を受け、日本のさまざまな都市に多くのラーメン・テーマパークがオープンした。福岡の「ラーメンスタジアム」に、広島の「ラーメン横丁 七福神」、札幌の「ら~めん共和国」は、急増したラーメンのテーマパークのほんの一部だが、このどれもがラーメン博物館が確立した基本方式に従って、ノスタルジックな雰囲気のなかに有名なご当地ラーメン店を一同にあつめている。

・ラーメンは西洋が近代性、東洋が後進性を表していた時代に、日本で中国生まれの現代的な食べ物として生を受けた。中国と日本が武力で争っていた時代だったが、日本では中華料理店の中国人料理人だけでなく、彼らと共に働き学んだ日本人料理人もこの食べ物をつくっていた。初期のこの時代は、政府のエリートが急速な工業化と西欧方式の導入を奨励していた時期で、「支那そば」を食べていたのは主に肉体労働者や夜間労働者、兵士だった。「支那そば」を出していた屋台や中華料理店、洋食屋、喫茶店は、田舎からの出稼ぎ労働者や少数外国人、行き場のない人々にとっては、食い詰める可能性が高くても、とりあえずの仕事を提供してくれる場所だった。戦時中は日本の都市からほとんど姿を消していたこの食べ物は、広範囲な飢餓とともに思い出されるアメリカ占領時代に、数少ない「スタミナ」料理の「中華そば」として復活した。やがてこれは、可処分所得が増加し、核家族が主流となっていく高度成長時代(1955~1973年)に、労働者階級の若い独身者に働くエネルギーを提供した。さらに、トヨタのような輸出主導型の大企業が日本経済の国際的主役になっていく1970年代には、自営のラーメン店は不満を抱える会社員の逃げ場へと発展していった。不動産と株式投機による金融バブルで高級品やレジャー消費が活発になった1980年代、ラーメンは当時流行していた高級フレンチやイタリアンへの庶民尾反感を表すものへと進化した。世界中のファーストフード産業におけるアメリカ支配によって、世界的に消費者がかつてないほど均質化した1990年代には、ラーメンが持つ国の象徴性はより強く、より政治的になり、2000年代にいは愛国的あるいはネオナショナリスト的なラーメン店を生み出すことになる。日本でラーメンを主として食べるのは常に若者だったが、日本の人口バランスは着々と高齢化へと向かっている。ラーメンはたいていの場合、脂と塩、デンプン質が多いままだが、流れは明らかにより健康的な食べ物へと向かっている。日本の誰もがラーメンを食べられるとはいっても、熱心なファンが長い列をつくるせいで、何時間も時間をかけないとうまいラーメンを食べるのはほぼ不可能になっている。これは、アメリカの覇権が衰えつつも滅ぶことのない時代における、氾アジア主義の証明なのだ。

・おそらくもっとも重要なのは、日本のラーメン業界が「のれん分け」で店を出す制度を通じて企業資本の独占化に抵抗していることだ。日本のラーメン店の80%は独立系で、他の独立系飲食店が苦闘している1990年代以降でも、小さなラーメン店は頑張っている。最低でも1年間修行して、仕入先やスープのレシピを学んだ元従業員に、店主が通常では無償で店を出すことを許す「のれん分け」制度のおかげで、人気店を手本にした店がピラミッド構造の会社組織をつくらずに広がることが可能になった。山岸一雄(東池袋 大勝軒)店主や山田雄(麺屋武蔵)店主、山田拓美(ラーメン二郎)店主の全員が弟子が支店を拓くことを快く許している。こうして、元の店主に何の金銭的対価も払うことなく、同じ味を提供する独立店が増えているのだ。

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