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我が家の震災記 そのⅡ

2015-01-19 | 日記
当時、夫の勤務先が大阪だったので何とか大阪の親戚宅へ行こうとしましたが

手段がありません。道路は車で大渋滞

駐車場には大きな亀裂が走っています。

周辺の商店街の古い家は軒並みつぶれています。

夜になると真っ暗で、火災が起きた長田区の赤い炎の色だけが見えました。

水を汲みに、歩いて行ける所に並んでいますと、前に並んでいたお爺さんが新聞を読んでいます。

高速道路の橋桁が倒れている写真を見て「こんなにひどい地震だったのか」と初めて分かりました。

カーラジオで情報を知るしかなく(みなさん非常時にはトランジスタラジオが必需品ですぅ)

地震発生3日後の20日、神戸港(昔のメリケン波止場)から大阪天保山まで船(観光船)が出るとの

情報が近所の方から入りました~

身のまわりの物をリュックにつめ、夫と二人神戸港まで歩いて行く途中

火災現場の長田区を通りました。  “あー広島と同じだー”

広島生まれの私は小学校の時、授業で、図書館で、原爆で焼け野原になった写真を何回も見ていました。

夫も私も無言でした。

ようやく、船に乗り、船内のトイレに入った時水が流れます。

「うわー水が流れる~」 アチコチで歓声が上がりました。

大阪へ行くまでの3日間、何を食べていたのかよく覚えていません。

(最初のレトルトのカレーだけは覚えていますが 笑)

避難所になっていた小学校で、おにぎりを頂いた記憶はあります。

覚えているのは、散乱した台所を片づけていた時、割れた食器に交じって、つぶれた豆腐が目につきました~

「何でこんな所に豆腐が???」

多分、縦ゆれの後の横ゆれで冷蔵庫の扉が開き、豆腐が飛び出た後、扉が閉まったものと思われます。

                             ~つづく~