朝日記170612 「悪意」と「善意」についての論の切り口
おはおうございます。
きょうは、そういう問題を考えてみました。
きょうの絵は、(牧場)と(ふぃぎゃあ二態)です。
徒然こと 1 昨年の朝日記から 「道徳革命ということ」
朝日記160612 「moral revolution(道徳革命)」ということと今日の絵
http://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/9ba526dfa8a55...
(牧場)
徒然こと 2 「悪意」と「善意」についての論の切り口
上は昨年のいまごろ書いたmoralityについてのメモです。 唐突ですが、「確信犯」に視点をおくことはおもしろいとおもいます。
違法の切り口から合法に入る。
合法の切り口から違法に出る。
もともと「確信犯」は前者の意味であったようですが、巷では、後者に意味になっているようですね。話がそれてはいけませんが、「共謀」というのは、この二つを含むと考えます。賢人の友人関口益照さんが軽薄といわれたアメリカあたりでは、prima facie injusticeという通念があって、ともかくルールがきまっていない状態では、発話者が自分の価値で宣言する。それからルール作りがはじまる。はじめはinjusticeであってよいといったものです。(America is often said a society of infusctice.)複雑な都市社会などでこれが主張できるというのは、そうとうに知的sophiscatedでないとできない。また、できる人間が成功者として出てくる。 ‘できるひと’あるい‘できる能力のあるひと’、つまりrational personのひとつの姿ですね。これがLibertalianであるとおもいます。その発話者が一方で、他者の関係において、自己の主張を論理化できないひとたち、つまりinnocentな人たちがいるのを知る。 発話者のprima facie rational ‘Meによって’ 無辜のひとを傷つけるharmfulか。もしそうであるならば、修正されるべきであると、そういうmoralityがあります。
morality = harmlessというものであろうと考えます。具体的な案件や課題では、当然ながら、論理的な筋でのたたかいがおこなわれことになります。(この思考方式を、Consequectialismとよんでいます)これが、いまの社会で機能しているかに注意する必要がありそうです。 特にこういう状況を前提にして、いま一方的な意図の立場のrationalistの、ひとり舞台になっているかどうかを検証する意味は出てきます。ひとつの希望は、institutive society制度(論)的社会として、現実の社会のなかで、agentとinstituionが機能しているかという問題の見方です。それががharmfulとキチンとたたかう「免疫」機能が存在しているか、あるいは、存在しても適格に働いているかいるかという意味でのモラリティのとらえかたです。もうひとつは、もう一度institution以前のルールの基本問題の修正にかえり、そこから、社会のあり方を問いなおそうおとし、修正と歯止めをかけていこうというものであります。 ドナルド・トランプが出てきたのは、マイナーな修正や改良では立ち行けないということが選挙民のなかで、特に白人中下層が気が付いた現象ともいえます。 雑駁な筋で話してきましたが、「悪意」と「善意」についての論の切り口として投げかけました。失礼。
徒然こと おわり。
(ふぃぎゃあ二態)