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『吉本隆明「心的現象論」の読み方』 その3

2013-07-05 20:32:55 | Weblog

 『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(宇田亮一著 文芸社 2011年刊) その3          

 脳死判定を受けた人体から麻酔をかけずに臓器を取り出そうとすると“死んだはず”の人体は苦痛の表情を浮かべるという。『記憶する心臓』(角川書店)で、心肺同時移植を受けた著者のクレア・シルヴィアが不思議な体験を語る。ビールが好きでなかった彼女が、手術後すごくビールを飲みたくなった。彼女は自分の中にもう一人の自分を感じるようになり夢の中にティムという若者が出てくるようになった。その後、彼女は臓器の提供者を調べ上げ、その人の名前がティムということがわかる。臓器移植の本質を深く考えさせられるエピソードである。

 吉本隆明にとって解剖学者三木成夫の著書『胎児の世界』との出会いは衝撃的であった。You Tubeで三木氏の講義を聴くことができる。三木が述べているのは2点である。

 ①胎児の成長過程は生命体の進化の歴史そのものだ。胎児は、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という成長のプロセスをたどる。三木は、胎児が魚類から両生類へ変わる時期に母親の“つわり”が始まるという。それは、かつて生物が海から陸へ上がった時に味わった“苦しみ”なのだという。

 ②人間の身体は、植物と動物の身体から成り立っている。動物の腸管は植物の茎である。さらに、心臓を中心とした内臓全体(循環器系、内臓系)は植物の構造である。また、脳を中心とした体壁(感覚器系、運動器系、神経系)は動物の構造である。

 さらに、三木は植物、動物の構造を基盤とした“心の世界”を論じた。“ヒトの心”には、体壁幻想(動物の心)と内臓幻想(植物の心)があるという。体壁幻想は、外界を感覚器官(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚)でとらえ了解する構造を持っている。内臓幻想は、概念的、心意的な内面世界や感情である。ただ、この三木の心臓を中心とした心の世界が存在する、臓器は思考するという考え方は、〈異端〉である。

 しかし、吉本も三木のいう内臓幻想の考え方までは承諾していない。しかし、体壁幻想だけでは心の世界全体をとらえきれないということはわかっていた。

 初めに述べた臓器移植のエピソードから脳死をどのように考えたらよいのだろうか。脳死を体壁の死、感覚器官が停止し動物の構造が停止した状態とする。そのとき、内臓(植物の構造)は生きていて内臓幻想も当然生きているのである。すると、臓器移植とともに内臓幻想の生命記憶も一緒に移し替えられるのだろうか。

 

 


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