日だまりのような、綿菓子のような、ポカポカまー☆さんが、今日仙台に旅立ちました。



別れの瞬間、泣いてしまうのじゃないかと思っていましたが、実際は、まーさんのこだわりのホームのみかどのイカ天うどんを車内に運んだり、来てくれたお友だちとお話ししたりで忙しく、あっという間に立っていきました。
まー☆さん、今までありがとう。楽しかったねえ。
これからは仙台でまーさんのよさを発揮して活躍するんだよ。
私も、気持ちを切り替えて、新たな出会いに備えていこう。
日だまりのような、綿菓子のような、ポカポカまー☆さんが、今日仙台に旅立ちました。



別れの瞬間、泣いてしまうのじゃないかと思っていましたが、実際は、まーさんのこだわりのホームのみかどのイカ天うどんを車内に運んだり、来てくれたお友だちとお話ししたりで忙しく、あっという間に立っていきました。
まー☆さん、今までありがとう。楽しかったねえ。
これからは仙台でまーさんのよさを発揮して活躍するんだよ。
私も、気持ちを切り替えて、新たな出会いに備えていこう。
もう3週間ほど前のことになりますが、安藤和津さんの講演会があり、私と連れ合い、娘それともう1人Mさんとで手話通訳をさせてもらいました。
開会前に主催者に連れられ安藤和津さんの控え室へ。
講演内容の打ち合わせの後、連れ合いが安藤和津さんに突然身内話を始めた。
「実はここの3人、親子なんです。春に娘が福祉系の大学に進学して函館を離れるので今日は3人そろって手話通訳させていただきます。」すると安藤和津さん、嫌な顔一つせず笑顔で「あら、そうなの!ステキなお嬢さんね。お父さんお母さんを見て育ったのね。」と言ってくださった。
講演会が始まり、最初司会者の言葉を娘が通訳した。そのあと、安藤和津さんの登壇に合わせて、安藤さんの講演の通訳をする私がステージに上がると、安藤和津さん、「先ほどかわいいお嬢さんが手話をしてくれていたでしょう。こちらの方(手話通訳をしていた私を指さし)、さっきのお嬢さんのお父さん。あとでお母さんも出てきますから。(会場爆笑)家族そろっていて今日のテーマにピッタリなんじゃないでしょうか。」と話し始めた。
私は、手話通訳しながらも、とっても幸せな気持ちだった。
安藤和津さんの講演は痴呆になった母親を介護したお話だったのだが、いつも笑顔を絶やさない安藤和津さんにこんなたいへんなご苦労があったのかと、驚かされるものだった。
ネットで検索したら、安藤和津さん、『オムツをはいたママ-母との愛と葛藤の日々』という介護体験を綴った本も出されているようだ。
安藤和津さんのことはそれまであまり知らなかったが、その人柄に触れて、安藤和津さんのこと、女優さんや映画監督をしている娘さんたちのことなどもっと知りたくなった。
私たち親子3人にとっても、今までの活動にご褒美をもらったような、最初で最後の最高にステキな講演会通訳だった。安藤和津さん、ご配慮本当にありがとうございました。
2012年3月11日21時からNHKで放送された『"同日同時刻生中継"被災地の夜』に心を揺さぶられた。
録画したものを家族と見たり、被災地に実家のある方に紹介したりしている。
以前の記事にも触れたが、再度ぜひ紹介したい。

番組では5ヵ所を結び中継し、1年前にどのように行動していたかを追っていた。
番組を見終わって思ったことは、「人間とは人を助けることや人を思うことで、人から(例えその人がすでになくなった人であろうと)エネルギーをもらって生きる存在なのだ」ということ。

そのことは、第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所を生き、その体験を「精神科医の見た強制収容所」邦題『夜と霧』を記したVEフランクルの主張したロゴスセラピーの考えにも共通するものがあるようにも感じた。
VEフランクルは晩年近くになり、「そのように助け、助けられて生きることが"宇宙の法則に合致する"」とまで語っている。
昨年の3月11日に被災された方から私たちが学ぶものは大きい。
「"同日同時刻生中継"」とサブタイトルにあるためか、まだ再放送はされていないように思うが、たいへん心を動かされるよい番組だった。NHKオンデマンドでも見られるようだが、ぜひ再放送していただき、多くの方々に見ていただきたい番組である。
0時から『映像記録3.11-あの日を忘れない』視聴、その後もNHKの震災の証言番組を明け方まで。
その後ふとんに入り、起きてまたNHKの震災の番組を。
昼の12時20分からの番組はいつもなら『のど自慢』をやっている時間帯に配慮したのか、被災地や被災者を結んで合唱やのど自慢出場経験者の歌の紹介があり、見やすかった。
その後もNHKの震災番組を。
なぜかその日3月11日は民放は見る気にはなれなかった。軽さやあざとさが鼻につくのじゃないかという気がしたから。
そのまま、政府主催の東日本大震災慰霊式典の中継を見た。
インターネットでこんなことを書くのは怖いが、私は天皇制も反対だし、君が代だって歌いたくない人間だ。
けれど、今回の式典、天皇が出席されて多くの人が励まされたことだろうと思う。
式典の中継と共に黙祷。
いつもは、チャンネル権を主張する娘だが、3月11日だけは私の並々ならぬ気配にテレビを譲ってくれていた。
しかし、式典が終わるころから、具合の悪さを訴え始めた。娘は、人一倍感性が豊かな子だから、少し苦しくなったようだった。
それでその日は震災関連番組は終えて、普通の生活に戻った。
月曜日になって、録画していたNHKスペシャル『大震災の夜にー同日同時刻』を視聴。
たいへん感銘深い内容だった。
津波の中ビルの煙突部分につかまって生き延びた人、自宅の3階部分に漂流してきた人を迎え入れ火災の中生き延びた人たち、4階まで水につかる中5階にすし詰めで避難し生き延びた医師と患者、津波と停電の中電車の中で一夜を明かした乗客、津波に流された屋根の上で3日を生き延びた人。
それぞれの人たちが皆、異口同音に「人のことを思って生き延びた。人を助けたいと思って生きた。」と語っていた。
ひとは、自分のことでは本当の力が出ないのかもしれない。逆に、人のためには力を発揮できる存在なのだと改めて実感できた。
やっぱり、思っていた通りに、そうなんだ。
見終わって、自動録画サーチから「震災」という単語を消した。
次は自分も人のために行動する番だ。
昨日は久々講演会の手話通訳に出かけ、夜まで張りつめきった頭のまま、娘となでしこ決勝のビデオを見たりしていた。
家族も寝静まったあとで、NHKスペシャル『映像記録3.11-あの日を忘れない』を見た。
私も忘れない、あの日を。
大きな犠牲大きな悲しみとひきかえに、大切なことを教えてくれた、あの日を。
今日は国民の一人として追悼の一日を送りたい。

私の手話漫才の相棒であった、カトさんが本州へ旅立つ。
今まで三度、ローカルに活動してきた。
手話漫才を始めたのにはこんな思いがあった。
手話を習い始めた頃、私はろうあ者がお昼休みのたまり場としていた場所に、足しげく通っていた。
「手話が上達したかったら、ろうあ者の手話を見るに限る。」そんな話を聞いたためだ。
しかし、実際通ってろうあ者が楽しげに話すのを見ていても、話はまったくわかるものではなかった。わからないならすぐ尋ねたらよいだろうと思うだろうが、実際楽しげにやりとりする彼らの横でいちいち「あ、今なんと言ったのですか?」なんて聞けるものではなかった。そのうち話の内容がわからないだけではなく、自分がそこにいることすら「もしかすると、おじゃまなんじゃないか。」などと思えてきた。話が通しない心細さを身をもって知った。
そんな時、ろうあ者の一人がこちらをちらりと見やり、何事か手話で話すとろうあ者の中から大爆笑が起こった。
”なにか自分のことを話題にして笑っているに違いない。”と思いこみ、はらわたが煮えくりかえった。
ろうあ者の話が終わり一人また一人と席を立ったあとで、そばにいた親切なろうあ者に「今までなんの話をしていたのですか?さっき私のことを言ってませんでしたか?」と聞くと、「あぁ、仲間が買った新しい車の話をしていたんだ。別におまえの話はしていないよ。」とのことだった。
その時、ろうあ者の中にいて、”共に笑えない”寂しさを知った。
しかし、ろうあ者は、その”お昼休みのたまり場”から一歩世の中に出ると、絶対的に多い健聴者の中にいて、いつも”共に笑えない”立場にいるのだなあということに、後々気づいた。
方や、ろうあ者たちはとっても軽妙な手話を駆使して、本当に楽しそうに手話でジョークを飛ばし合う。
ろうあ者の真の笑いは、その芸術的とも言える模倣やジェスチャーを含んだ手話の表現にあるのではないかとろうあ者と付き合えば付き合うほど感じた。
そしてろうあ者の手話を盗んで手話の技術を磨きながら、手話落語をやってみた。ろうあ者たちはみな喜んでくれた。それで、気をよくして連れ合いと”手話漫才”をやってみた。これも大受けだった。
そんなことをやっていたが、健聴者二人がろうあ者の言語である手話を使ってする手話漫才に少し借り物くささや矛盾を感じていた。
そんなころ、カトさんと出会った。ろうあ者の友人宅でカトさんとおしゃべりする機会があった。カトさんはとても若くすてきなろう女性だった。
カトさんと少しおしゃべりしただけで、カトさんのトークの魅力に魅せられた。以前からろうあ者と”手話漫才”をやってみたいと思っていたが、その場合ろうあ者の手話の読み取り通訳の問題が出てくる。通訳者の技術の問題と共に、ろうあ者が手話で話し、それを手話通訳者が読み取って音声言語に変える、そのわずかな時間差が笑いを打ち消してしまう心配があった。
カトさんは自分でおしゃべりできる方だったし、そういう方にはめずらしく手話もきちんと覚えていた。
カトさんに「今度一緒に手話漫才やってみない?」と聞いてみると、カトさんは、「あ!わたしもね、そういう人をわらわせるの、やってみたいなあって、思っていたのよ。こんど、やってみる?」と言って、すぐに引き受けてくれた。
地元の手話まつり、全道ろうあ者婦人部集会、ろう学校同窓会創立記念集会などで、手話漫才を披露してきたが、いつも大いに盛り上がった。夢は、「地域の老人ホームを慰問すること」だった。
最後の四度目の公演は、先週「カリフォルニア・ベイビー」で開かれたカトさん親子の送別会の席だった。四度目にして初めて台本も作らず打合せもせずに臨んだ。送別会に現れたカトさんに、私の漫才用のブレザー姿を見せ、「この(服)、意味わかるでしょ。」と手話で言うと、カトさんは即座に「マジかよ!」と漫才のノリで返してくれた。
四度目の公演も大受けだった。
大好きなカトさんのために、全国から集まってくれた仲間に、大きな笑いをプレゼントすることができた。
私は、美しい女性のカトさんの、少し目立つ前歯のことをよくからかって笑いをとった。
でも、カトさんはそのことを気にしないでいてくれ許してくれた。
本当は、頭でっかちで髪が薄くて目が斜視で短足な私の方が笑いのネタに満ちていたのだけれど、カトさんは一度もそんなことはネタにはしなかった。
なんだか、自分ってずるかったかなあと少し後悔。そして改めてカトさんの懐の深さを思った。
送別会の帰り、「ケンさん、ありがとね。たのしかったわあ。」とハグしてくれたカトさん。
送別会で参加者一人一人に言葉をくれて、私には「ケンさん、手話漫才は永遠だよ!」って言ってくれたカトさん。
私は感動して、「そうだ!手話漫才は永遠だ!」って叫んだ。
今になって、もっと手話漫才やっておけばよかったなぁって思う。
だけど、カトさん、「手話漫才は、永遠」だから、またいつかやろうね。
多くのろうあ者に笑いを届けようね。
今まで本当にありがとう!心地よい笑いをありがとう。
新しい土地でまた新しい仲間と笑顔で過ごせますように。
カトさん親子の幸せを祈っているよ。