牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

望みえないときに望みを

2017-03-06 18:13:56 | Weblog
ローマ人への手紙4:17-25 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
アブラハムは信仰の父です。子は父の背中を見て育ちます。アブラハム=多くの国民の父&信仰の父。
その信仰は、彼が信じた神=死者を生かし、無いものを有るもののように呼び出す神を信じる。
望みえないときに望みを抱いて信じる。
自分の身体が真だも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても弱らない信仰。
神の約束を疑わず、神の約束を堅く信じる信仰。
彼は信仰による義を受けた。
私たちも同じ、ただ信じる信仰で義と認められる。
主イエス・キリストが十字架上に罪の贖いの死を遂げ、3日目の朝に復活されたので、罪ゆるされ義と認められるのです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します
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