牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

平安と喜び

2017-04-27 18:48:03 | Weblog
ネヘミヤ記8:10 きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。主を喜ぶことはあなたがたの力であるから。
今日という日は、生涯で今日だけ。しかも今日は、光あれと天地創造の日と同じように、愛の神によって備えられた新しい聖別された日。
悲しんではならない。悲しみと辛さの多い人生。
イエス様は悲しんでいる者は幸いである。その人は慰められる。なぜ泣いているのか。と悲しむ者に声をかけてくださる。そしてイエスは涙を流された。泣く者とともに泣いてくださる、素晴らしい友であるイエス様がいっしょです。
主を喜ぶことはあなた方の力である。上を見上げてみよう。天王寺駅改札付近に、警官が7人も固まっている。何事と覗くと幼児が泣きじゃくっている。おまわりさんがしゃがみこんで声をかけている。
そこへ若いママが駆けつけ、その胸にすがりつき大きな声で泣き出す。しかし、先ほどとは違う涙と泣き声。悲しみの尽きない人生。病や死も人間である限り必ずある。愛と慰めのイエス様は、世の終わりまで共におられる。涙の原因も意味も分かってくださる。幼子はやがてにっこり微笑み、ママと手をつないで歩いて行った。
祈り感謝し、賛美しつつ喜びの中を生きる幸い。その幼子と同じように、神の愛の御胸に抱かれ、今日も一人暮らし。
あなた方の力を主が喜ばれるからだ。力がないのではなく力があるのだ。微笑み喜ぶことができる。ダメだ、仕方がない、どうにもならないと嘆くだけでなく、今できることをやってみよう。
熊本地震中心地益城町のエリムキリスト教会。牧師館は立ち入り禁止。教会は土台が20センチズレたまま。
現在も被災地にたっており、民間ボラアンティアの宿泊所.とんこつラーメン炊き出しの中心となっている。
益城町が建物撤去をしてくれる。牧師館も教会も同時に。140坪の更地になり、新教会建設が必要になります。お祈りお願いします。
明後日29日は、ヨベル聖会メッセージ。脳梗塞の言語障害も、歯の治療も完了し、自由に聖書のメッセージを語ります。交通事故から1年と29日目です。お祈りよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。今日もまた笑顔で喜びの天国の一日。感謝します。

主にすがる我に悩みはなし 
十字架のみもとに荷をおろせば 
歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ

歌いつつ歩まん この世の旅路を アーメン

土の器

2017-04-27 18:28:42 | Weblog
コリント人への第二の手紙4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
人間は土の器。ちょとしたことで、欠けたり壊れたり、長寿時代になっても、例外はあっても死を迎え、最後は土に帰ってしまいます。
ところがその土に器に、尊い宝を入れているのが人間の尊厳です。器ばかり磨いても、中がガラクタばかりだったら役に立ちません。外形ばかり気にして化粧出ごまかすのではなく、内面の宝が耀くようにしたいものです。
市役所から後期高齢者通知が多く届いています。折角なら光輝・高貴・好機・好気・好奇・香気にあふれる人生をと願います、。
この宝=主イエス・キリストのいのちです。アダムが想像された時、土の塊でしたが、神はその鼻にいのちの息=神の霊を吹きこまれ、人は生きた者=人間になりました。
イエス・キリストをアーメンと信じるとき、神の聖霊が新しいいのちを与えてくだします。その日から土の器が、神の栄光を現す器へと変えられていきます。
昨年4月1日に車にはねられ足をけがして歩けなくなり、左顎と頬20針縫い、幸い後遺症もなく綺麗な顔になりました。
29日午後1時のヨベル聖会では、歯の治療も終わり、立って話せる恵みの聖会です。一年間書斎暮らし、不便さもありましたが、この測り知れない力=内なる宝=この奥義は内なるキリスト栄光の望みです。自分の力ではなく、聖霊の力と、イエス・キリストの愛と恵みです。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。



正しい者に教えると

2017-04-27 05:23:57 | Weblog
忠告しがいがある人とそうでない人

人を馬鹿にする者を注意しても、侮辱されて自分がしっぺ返しをうける。
彼はあなたに感謝するどころか、逆に恨むようになるだろう。
だから、そういう人とはかかわらないほうがいい。
人を教えるとは、時として、言いにくいことも、はっきり指摘することだ。
しかし、すべての人が耳に痛い言葉を受け入れるわけではない。
聞きたくない言葉であっても、それを喜んで受け入れる姿勢がある者こそ、知恵ある者と呼ばれるのだ。
彼は理解を深め、成長し、ますますいろんなことをわきまえるようになる。

箴言9:7-9 あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。
あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。
知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。
不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。