現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

西郷四郎の実母は「三留やす」?

2013-09-21 18:46:38 | 「八重の桜」
「池月 映」氏から、またまた貴重なご意見をいただきました。


『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に、次の一文があります。

「西郷頼母と20年連れ添った「伊与田きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで写真を
撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が 霊山の神主に
なった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が別れた理由を
問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかったと。

それについて、「池月 映」氏は

「三留」という姓は藩士の中にはなく、四郎の故郷「津川町」の
電話帳に14軒ある。
これはあくまでも仮説ですが、四郎の実の母は「三留やす」では
なかったか。

(私注: 国家老だった「頼母」が 津川に赴いた時に関係したか、
あるいは、会津で側女だった「三留やす」が一子を産み、会津
戦争の時、「四郎」を連れて津川に疎開し、「四郎」を志田家に
預けた?)。


頼母が霊山の宮司になった時、頼母は「きみ」と離婚して「三留やす」を
迎える。それで、四郎が訪ねてきて、霊山で50日間滞在して、
実父母と暮らした。

「三留やす」が 四郎の実母であればつじつまがあう。


津川の「西郷四郎資料館」に「頼母」が一人で立っている写真がある。
これは東照宮の『大日光』という会報に「小森家から提供された」と
ある。どういうわけか この写真は「西郷頼母研究家」の間でも
知られていない。

頼母は日光で7年間、「晃山叢書」という歴史編纂事業をやって
学者の功績を残したことも明らかになった。頼母は学者であって、
武術の達人ではないでしょう。



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