
榴岡天満宮1・仙台市(Tsutsujigaoka Tenmangu Shrine,Sendai city)
2010年9月17日(金)仙台市榴ヶ岡駅の近くにある榴岡天満宮を訪れる。
入り口には大きな狛犬が出迎えてくれた。大きくて新しくて立派だ。平成16年奉納なのでまだ6年ほどしか経過していない。
石段を登り境内にたどり着く。沢山の俳句の句碑が建てられている。
本殿に入る鳥居の根本に古い狛犬が居ました。左右ともに角があるので両方共に狛犬だ。
あごひげが三つ編みの珍しい狛犬だ。台座から何とか嘉永5年(1852年)2月25日建立と読みとれる。
御朱印を書いてもらい、お守りをいただく。
-------------------ネットによると---------------------------------------------------
榴岡天満宮由緒由来の御案内
【御祭神 菅原道真公】
仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する、榴岡天満宮は平安時代の天延二年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建され、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請し、その後宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文二十年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に二度目の御遷座が行われ、後に藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長十六年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安三年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際してその境内地東側に御遷座された。
そして寛文七年(1667)七月二十五日に三代藩主伊達網宗公の意思により丹塗りの社殿・唐門を造営し、また菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、現在の東照宮の地よりこの榴岡に御遷座され、仙台の天神様として広く崇敬されている。
当社の御祭神菅原道真公(天満大自在天神)は学問・政治の主祭神でありまた、弘法大師・小野道風とともに書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。
しかし、藤原時平の讒言により、大宰府へ配流され悲壮のうちに亡くなられた。 ところが配流の地で亡くなられた道真公が、没後四十数年後に都に疫病や飢餓・落雷とともに降臨した事から、怨霊天神・火雷天神とも言われ、当時の人々が崇め祀るようになったと伝え聞いている。
このような歴史的背景を考えると、この榴岡天満宮の寛政七年(1795)二月二十五日の落雷による不慮の火災によって本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居を焼失したのは残念ではあるが、道真公が高天原より降神なされてのではと言う歴史的ロマンを擽る唯一の天満宮と言われている事が当社の誇りでもある。 現在の御社殿はその頃の再建ではあるが、総欅造りで照星閣とも呼ばれ、明治九年の明治天皇御巡幸の際には明治天皇が御参拝なされた御社である。
また仙台城構築の際、有力な築城の候補地とされ、元禄二年五月七日には当社に、松尾芭蕉が参拝し「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拜て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも当時の天神信仰が盛んだったことを示している。
【天神について】
天神とはもともと地神(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)を示していた。 しかし現在では一般には菅原道真公(天満大自在天神)を示している。 当社の御祭神である道真公が九州大宰府の地で亡くなられたのちに、京都では百鬼夜行などの天災異変がしきりに起こり、これは道真公が怨霊となり、藤原氏を苦しめていると恐れられた。朝廷では道真公を鎮め祀ることを定めた。天満宮は道真公が学問・詩歌・文筆に優れていたことから、進学・合格の御祭神として広く崇敬されている。また「とうりゃんせ」という童謡からも解るように子供の健やかな成長を願う神様としても有名である。
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2010年9月17日(金)仙台市榴ヶ岡駅の近くにある榴岡天満宮を訪れる。
入り口には大きな狛犬が出迎えてくれた。大きくて新しくて立派だ。平成16年奉納なのでまだ6年ほどしか経過していない。
石段を登り境内にたどり着く。沢山の俳句の句碑が建てられている。
本殿に入る鳥居の根本に古い狛犬が居ました。左右ともに角があるので両方共に狛犬だ。
あごひげが三つ編みの珍しい狛犬だ。台座から何とか嘉永5年(1852年)2月25日建立と読みとれる。
御朱印を書いてもらい、お守りをいただく。
-------------------ネットによると---------------------------------------------------
榴岡天満宮由緒由来の御案内
【御祭神 菅原道真公】
仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する、榴岡天満宮は平安時代の天延二年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建され、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請し、その後宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文二十年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に二度目の御遷座が行われ、後に藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長十六年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安三年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際してその境内地東側に御遷座された。
そして寛文七年(1667)七月二十五日に三代藩主伊達網宗公の意思により丹塗りの社殿・唐門を造営し、また菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、現在の東照宮の地よりこの榴岡に御遷座され、仙台の天神様として広く崇敬されている。
当社の御祭神菅原道真公(天満大自在天神)は学問・政治の主祭神でありまた、弘法大師・小野道風とともに書道の三聖として詩歌・書道の神としても尊信されている。
しかし、藤原時平の讒言により、大宰府へ配流され悲壮のうちに亡くなられた。 ところが配流の地で亡くなられた道真公が、没後四十数年後に都に疫病や飢餓・落雷とともに降臨した事から、怨霊天神・火雷天神とも言われ、当時の人々が崇め祀るようになったと伝え聞いている。
このような歴史的背景を考えると、この榴岡天満宮の寛政七年(1795)二月二十五日の落雷による不慮の火災によって本殿・拝殿・楼門・神楽殿・鳥居を焼失したのは残念ではあるが、道真公が高天原より降神なされてのではと言う歴史的ロマンを擽る唯一の天満宮と言われている事が当社の誇りでもある。 現在の御社殿はその頃の再建ではあるが、総欅造りで照星閣とも呼ばれ、明治九年の明治天皇御巡幸の際には明治天皇が御参拝なされた御社である。
また仙台城構築の際、有力な築城の候補地とされ、元禄二年五月七日には当社に、松尾芭蕉が参拝し「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也ここに天神の御社など拜て其日はくれぬ」(奥の細道)という句を遺していることからも当時の天神信仰が盛んだったことを示している。
【天神について】
天神とはもともと地神(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)を示していた。 しかし現在では一般には菅原道真公(天満大自在天神)を示している。 当社の御祭神である道真公が九州大宰府の地で亡くなられたのちに、京都では百鬼夜行などの天災異変がしきりに起こり、これは道真公が怨霊となり、藤原氏を苦しめていると恐れられた。朝廷では道真公を鎮め祀ることを定めた。天満宮は道真公が学問・詩歌・文筆に優れていたことから、進学・合格の御祭神として広く崇敬されている。また「とうりゃんせ」という童謡からも解るように子供の健やかな成長を願う神様としても有名である。
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