トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

クーンは裸の王様?(2)

2017年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
 「クーンの科学進展パターン」は適用不可能であることは、彼の最後の科学史の著作でクーン自身が示しました。拙著『トーマス・クーン解体新書』で、そのことを論じた部分を抜粋して引用します:
**********
 黒い木炭は暗い所ではよく見えないが、温度を上げて行くと、はじめは赤く色づき、だんだんと輝きを増して白熱状態になり、高い熱エネルギーを放出する。このプロセス、温度によってどんな波長の光を放ち、どのような量のエネルギーを放出するか、という問題が、実は、古典物理学では解けなかった。つまり、窯業の竃から出てくる光の性質は、日常の現象に量子効果がはっきりと顔を出している例の一つである。この問題が古典物理学の枠内ではどうにも解けないことを痛感して、古典物理学には馴染まない自然界の非連続性を取り込んだ最初の物理学者はマックス・プランクだった、というのが物理学史の定番物語であった。
 ところが、クーンは、1978年に出版した彼の最後の科学史書『Black-Body Theory and the Quantum Discontinuity (黒体理論と量子的非連続性)』(以下では『黒体理論』と略記)で「量子的非連続性を、光量子という形ではっきり唱えたのはアインシュタインであって、プランクは古典物理学のパラダイムから抜け出せずにウロウロしていただけだ」と主張した。プランクについての定番のストーリーを覆すこの主張を科学史的資料で裏付けることが、このクーンの大著の目指したすべてと言っても過言ではあるまい。
 1962年のSSRの出版で時代の寵児となったクーンは、1972年プリンストン高等研究所に招かれ、殆どの時間をそこで過ごした。『黒体理論』の執筆はここで行なわれたが、このクーンの新著に対する期待は、特に科学哲学者の間で、大きく膨らんでいた:
 「この本が出る前に、ある小さなグループの人たちに本について話をすることを承諾していたので、一つのテーブルの周りを囲む位の人数と思って部屋に行ってみたところ、部屋はほとんど一杯になっていた。それで、私は俄仕立ての講義のような話をやることになってしまった。それが済んだ時、手を上げた人がいて、“大変興味深く伺いましたが、通約不可能性の問題があったのかどうか、お教えいただきませんか?”と言った。“おやまあ、どうかなあ、そんなこと考えもしなかった”というのが私の思いだった。」(RSS, 314) (4-8a)
 これは驚くほど率直な回想告白だが、このクーンの生前最後の大著で、パラダイム概念に基づいてSSR で誇らかに宣言した新しい科学史方法論も、その哲学的中心概念である通約不可能性(incommensurability) も適用されなかった。
**********
 2017年3月7日付けのブログ記事『エロル・モリスとクーン(灰皿事件)』でも触れたように、我々が住んでいる自然世界の物理学理論として、量子力学の基本原理の正しさは超絶的な精度で確かめられています。しかし、この量子理論で支配されている世界が、我々に親しい巨視的世界として我々の前に現前するプロセスについては、まだ物理学者の間で十分な意見の一致が得られていません。100年近くもこの状態が続いています。アンダーソンなどのように解決したと考える物理学者もありますが。この意味では、ニュートン力学の世界と量子力学の世界とは、未だ、しっくりつながらないのです。量子力学の出現は、ニュートン力学の出現に勝る、物理学の歴史の最大の革命的事件と言ってよいでしょうが、(あえて「パラダイム」という言葉を使うことにして、)ニュートン力学パラダイムと量子力学パラダイムの二つのパラダイムの関係を記述する目的には、「クーンの科学進展パターン」を支える中心概念である新旧パラダイム間の通約不可能性の概念の適用方法が漠然としていて殆ど全く役に立ちません。これが、生前最後の歴史の著作でクーンが通約不可能性の問題を論じなかった本当の理由でしょう。通約不可能性の概念については又あとで取り上げることにして、クーンと科学史研究の関係についてもう少し話を続けます。
 実は、晩年のクーンは科学史そのものに興味を失ってしまいました。拙著『トーマス・クーン解体新書』の「3-13 科学史と科学哲学」から引用します:
**********
 クーン自身が “科学史を基礎とした科学論”を後年どのように考えていたかを見てみよう:
「30年ほど前、今ではよく歴史的科学哲学と呼ばれる営みに私が初めて携わった頃には、私や私の仕事仲間の殆どが歴史は経験的な証拠の源として役立つものだと考えていた。歴史的事例の研究で我々が見出した証拠、それは科学というものの本当の姿に周到な注意を払うことを我々に強いたが、今では、我々の営みの経験的側面を強調し過ぎていたと私は考えている。(進化論的認識論は自然主義的なものである必要はない。)私として、基本的だと思えてきたのは、歴史的事例の詳細よりも、むしろ、歴史的事例に向けた関心がもたらした観点あるいはイデオロギーだということである。」(RSS, 95) (3-13g)
これは1990年(逝去の6年前)のクーンの講演『The Road since Structure(構造以来の道)』の中の言葉だが、SSRでとったスタンスから、歴史的事例の詳細から、一定の距離を取ろうとするクーンの意図が明らかに示されている。1年後のもう1つの講演『The Trouble with the Historical Philosophy of Science(歴史的科学哲学の難点)』には、上の言葉にそのまま連結できる重要な発言がある:
「そして、次のことを悟るには更に長い時間がかかった:その観点を身につけたとなると、我々が歴史的記録から引き出してきた最も中心的な結論の多くは、史実に依らずとも、第一原理から導き出すことが出来る。」(RSS, 112) (3-13h)
つまり、SSRで述べ立てた歴史的証拠は必要ではなかったというのだ。もともと物理学から離れることを決意したクーンが本当に目指していたのは哲学であって、科学史家としてまず身を立てたのは戦術的な動きであったことは、クーン自身が繰り返し証言した通りである。事実、逝去の前年のインタビューの時には彼の心は科学史から全く離れていた:
「私は科学史に余り親しんでいません。というのは、この10年か15年ずっと続けてのことですが、私はこの哲学的立場を展開するのに本当に努力していて、科学史を読むのはすっかり止めてしまっているのです。実際のところ科学史については何も読まなくなってしまっています。」(RSS, 322) (3-13i)
クーンのいう「第一原理(first principles)」とか「この哲学的立場」が何を意味するかは哲学者としてのクーンを論じるとすれば大きな問題である。
**********
 もしクーンが科学史研究の分野で彼が望んだ通りに革命を起こしていたならば、その当事者が科学史に興味を失ってしまう筈はありません。クーンはSSRの出版によって科学史研究の分野で「パラダイム転換」の起爆者となることを望みましたが、その望みは叶えられなかったと結論すべきでしょう。クーンの第一の弟子で科学史家として大成したハイルブロン(J. L. Heilbron)の著作にも「クーンの科学進展パターン」の適用は全く見当たりません。クーンの『黒体理論』についてハイルブロンは厳しい批判の言葉を述べています:
「科学史研究の正しいやり方、クーンのやり方、とは“他の人々の頭の中に登って入り込む”ことだった。彼が意味したのは、科学史家は専門技術語を身につけ、問題の取り組み方、研究対象の科学者たちの理論家として実験家としての力量や蓄積を知ることで、彼らの研究論文を、例え首尾一貫していなくとも、全体としては良く理解することが出来るようでなければならない、ということだった。疑いもなく彼はこうしたやり方の達人だった。だが、実際としては、彼が物色する頭脳の小さな特定のスポットだけに登り込んだのだった。彼が使った“マックス・プランク”という呼称は、かつて世にあった生身の人間ではなく、ある特定のプランクの論文や手紙の少しばかりの集まりを表していた。」
 では、もう一つの学問分野である科学哲学で、クーンは「パラダイム転換」を起こしたと結論してよいのでしょうか? 次回には、コペルニクス革命から出発して、二つの競合するパラダイムの間の通約不可能性の経時変化を検討することで、科学哲学の概念(数学の概念ではなく)としての「通約不可能性」の曖昧さを指摘したいと思います。

藤永茂(2017年5月3日)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« クーンは裸の王様?(1) | トップ | クーンは裸の王様?(3) »

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。