トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

クワインとクーン(4)

2017年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 (3)からの続きです。
 クーンが『科学革命の構造』(SSR)で持ち出した「パラダイム」という概念をめぐっては過去55年間に実に色々の議論が展開されましたし、同じことは「通約不可能性」という(これもまたパラダイムと同じく、クーンが自己流に定義し直した)概念についても言えます。
 SSRという自然科学論の中核的な主張に「自然科学の歴史には大小多数の科学革命があって、それぞれは新旧二つのパラダイムの争いであり、古いパラダイムから新しいパラダイムへのパラダイム・シフトが科学革命であり、新旧パラダイムは互いに通約不可能の関係にある」というものがあります。しかし、これは、自然科学のこれまでの歴史が記録してきた事実とは何としてもうまく合いません。私には、このSSRの主張が間違っているのははっきりしているとしか思えません。ここにあるのは一つの「王様は裸」のお話ではないかと、ナイーブな私は、しきりに思うのです。
 具体的な例一つ一つについて、具体的に考えてみてください。クーンがSSRで論じた大小の科学革命で、その具体的プロセスが彼の図式に適切に当てはまる例は一つも存在しません。あるとおっしゃる方はご教示をお願いします。そもそも、クーンの議論の具合悪さは、彼のいう「パラダイム」なるものが、全ての場合に、はっきり陳述できない所にあります。「それぞれのパラダイムには暗黙知の部分があるから」と逃げを打っても何の役にも立ちません。はっきりつかめない二つのパラダイムの間の通約不可能性とは一体何を意味するのでしょうか? SSRで定義した「パラダイム」も「通約不可能性」も、もはや、何の有用性も持たない死語になったのではありませんか? SSR出版50年周年記念の『Kuhn’s Structure of Scientific Revolutions at Fifty』(2016年)の中にあるノートン・ワイズの“ A Smoker’s Paradigm”はクーンの最後の歴史書『黒体理論と量子的非連続性』(1978年)についてのエッセーですが、周知の通り、この著作では新旧パラダイムの抗争もパラダイム間の通約不可能性もすっかり忘れ去られています。このブログの前回(3)で紹介したシェリル・ミサックのクーン評価やそれに類似の持ち上げは、「王様は裸だ」と言い切る勇気のない哲学者たちのお世辞ではないのでしょうか? いや、お世辞というより、SSRを巡って底抜けの馬鹿騒ぎをした哲学者たち自身の照れ隠しからの発言かもしれません。なぜこれだけの馬鹿騒ぎをしたのか? この馬鹿騒ぎは思想史的にどのような意味を持つか? よく考えてみたいと思っています。


藤永茂 (2017年2月13日)
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