トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

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エロル・モリスとクーン(灰皿事件)

2017年03月07日 | 日記
 前回のブログでは、3月1日付で『トーマス・クーン解体新書』を、電子書籍として、出版したことを報告(広告?)し、その中で、この本の初め頃の原稿に含まれていた一節で、出版社への神本出版売り込み(結局断念)の途中にトカゲの尻尾切りをした「エロル・モリスとクーン(灰皿事件)」と題した節をここで発表する約束をしました。以下がその内容です。
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4-8 エロル・モリスとクーン(灰皿事件)

 エロル・モリス(Errol Morris)はドキュメンタリー映画の制作者としてよく知られた人物(巨匠!)で、2004年にはベトナム戦争を扱った“The Fog of War”でアカデミー賞(記録映画部門)を獲得した。モリスは、この中で、ロバート・マクナマラから、一夜に10万人を焼き殺した東京大空襲が戦争犯罪行為であったという告白を引き出している。タイトルはペットの墓地を意味する彼の最初の記録映画“Gates of Heaven”(1978年)も人々の記憶に残る秀作である。
 プリンストン大学の大学院で科学史をテーマにして学位をとるつもりで、モリスはクーンの学生になったが、1972年、指導教官のクーンと衝突してプリンストンから追い出され、バークレーに移って今度は哲学を選んだ。しかし、ここでも教授たちの衒学性が我慢できず、またまた失敗に終った。2011年の3月5日から毎日5回連続でニューヨークタイムズに掲載された『Errol Morris – The Ashtray』と題する連続記事はモリスの人生経験と深く関係している。『灰皿』というタイトルの由来は第1回に詳しく説明されている。冒頭に、
It was April, 1972. The Institute for Advanced Study in Princeton, N. J. The home in the 1950s of Albert Einstein and Kurt Gödel. Thomas Kuhn, the author of “The Structure of Scientific Revolutions” and the father of the paradigm shift, threw an ashtray at my head.
「時は1972年4月、場所はプリンストン高級研究所、1950年代にはアルバート・アインシュタインとクルト・ゲーデルが居た所。『科学革命の構造』の著者でパラダイム・シフトの父であるトーマス・クーンは私の頭にむけて灰皿を投げつけた。」
 学生モリスと指導教官クーンの間が決定的に悪くなるきっかけの事件が灰皿事件の6ヶ月前に起こった。当時、天才的な若い哲学者として名をあげていたSaul Kripkeの講義には絶対に出席してはならぬと、クーンはモリスにきつく申し渡していたのだが、学生モリスは教授クーンの禁令を無視してクリプキの講義に出席した。クリプキの講義内容はやがて『Naming and Necessity』(「名指しと必然性」八木沢、野家共訳)という本で広く知られることになったが、クーンはクリプキの考え方がひどく気に入らなかったのであった。
 5回にわたる連載記事のタイトルは次の通り。:
The Ashtray: The Ultimatum (Part 1)
The Ashtray: Shifting Paradigms (Part 2)
The Ashtray: Hippasus of Metapontum (Part 3)
The Ashtray: The Author of the ‘Quixote’ (Part 4)
The Ashtray: This Contest of Interpretation (Part 5)
総計2万語に及ぶ全体の内容はなかなか手厳しいクーン批判論になっている。挿絵,写真、それに宙をよぎる灰皿と飛び散る吸い殻の動画も含めて各回かなりの長さであり、それに毎回100前後の数のコメント(総数541)が投稿されていて、読み応えは十分ある。
 モリスのこの長いクーン批判論は最終回(第5回)の最後の文章に見事に凝縮されている。それを理解する準備として、Errol Morrisのもう一つの傑作記録映画『The Thin Blue Line』を手短に紹介しよう。1976年11月28日、ダラスで一人の警官が射殺され、犯人としてRandall Dale Adamsという28歳の男性が捕まり、死刑が宣告された。1985年、別の主題で映画を製作するつもりでダラスにやってきたモリスはアダムスの事件に興味を持ち、調査を始める。その結果は友人フィリップ・グラスの音楽で記録映画『The Thin Blue Line』として結実し,1988年上映されて極めて高い評価を得て評判になった。当のアダムスは、1980年、死刑執行の3日前に死刑から無期懲役に減刑されて命拾いをしていたが、モリスの映画が大きく影響して、1989年、釈放されて自由の身になったのであった。万華鏡的なモリスのクーン論は次のように結ばれている。
“The Thin Blue Line” was one [of] the most important experiences of my life, something that I remain really, really proud of overturning the conviction of a man who had been sentenced to death for a crime he did not commit. There are endless obstacles and impediments to finding the truth. You might never find it; it’s an elusive goal. But there’s something to remember, there’s a world out there that we can apprehend, and it’s our job to go out there and apprehend it. It’s one of the deepest lessons that I’ve taken away from my experiences here.
「映画“細い青線”は私の最も重要な人生経験の一つで、いまも心の奥底から誇りに思っていることです。それは犯していない罪で死刑を宣告された一人の男の判決を覆しました。真実を見出すには果てしない邪魔や障害が存在します。真実は遂に発見されないかも知れません;それは捕え難いゴールです。しかし、肝に銘じておかなければならないのは、我々が感知し理解できる外界というものは確かに存在し、それに到達してそれを理解することは我々の役目だという事です。その事がこの映画で得た経験から私が取り出して来た最も深い教訓の一つです。」

この文章でクーンに宛てられているのは“there’s a world out there that we can apprehend”という部分である。クーンはこうした考え方を一生の間拒絶し続けた。モリスがアダムスの事件に興味を持った頃,実際に私立探偵の仕事も生業としていた。アダムスが警官を殺したのか殺さなかったのか、どちらか一つ、過去の一つの時点で、事実は、真実(the truth)は確かに存在したとモリスは考えざるを得なかった - そうでなければ探偵の仕事は出来ない。
 自然科学者の仕事についても同じことが言える。自然現象には法則があると考えるからこそ、自然科学者はそれを見つける努力をするのである。自然法則という形で自然を理解し、説明し、ある場合には、予測できると信じることは、自然科学の営みの基底である。
 上の引用でモリスはtruth(真実)という言葉を直裁に使っている。モリスの『灰皿』の全体は、ポストモダン的な相対主義に対する力のこもった反論として読むことが出来る。一方、クーンはSSRでtruthという語を意識的に使わなかったことを、SSRの第13章で得々と述べている。クーンの「真理論」については本書の1-13と3-12 で既に触れた。ここではSSR第二版で追加されたポストスクリプトのクーンの反実在論的主張を読んでみよう。
One often hears that successive theories grow ever closer to, or approximate more and more closely to, the truth. Apparently generalizations like that refer not the puzzle-solutions and concrete predictions derived from a theory but rather to its ontology, to the match, that is, between the entities with which the theory populates nature and what is “really there.”
Perhaps there is some other way of salvaging the notion of ‘truth’ for application to whole theories, but this one will not do. There is, I think, no theory-independent way to reconstruct phrases like ‘really there’; the notion of a match between the ontology of a theory and its “real” counterpart in nature now seems to me illusive in principle. (SSR4, 205)
「よく聞くことだが、次々に提出される理論は真理に次第次第に接近する、とか、真理をますます良く近似するようになるとか言われる。明らかに、こうした一般的な言い方は、一つの理論から導出されたパズルの解や具体的な予測についてのことではなく、むしろ、その存在論、つまり、その理論が自然の中にあるとする実体と“そこに実際にある”ものとの一致を問題にしているのだ。
 理論全体に適応する‘真理’の概念を救い上げる何か他のやり方があるだろうが、このやり方では無理だ。‘そこに本当にある’といった語句の再構成を理論に依存しない形で行う方法はない、と私は考える;理論の実在論と、その自然の中の“真の”対応物との一致という概念は、私には、原理的に迷妄であるように思われる。」
 つまり、物理的実体の存在について、モリスとクーンの立場は真っ向から対立する。
 現場の自然科学者の大多数は、科学哲学の重要な論点の一つであるこの実在論/反実在論の問題を思い悩むことはない。例えば、電子と名付けられた物理的実体についての知識(実験事実と理論)は、1897年のトムソンによる発見以来、漸次、増加充実の一途をたどり、その質量、電荷、磁気モーメントなどの物理量数値は、10桁以上の精度で知られている。しかし、電子についての我々の知識が最終的な状態、つまり、それ以上には新しい展開がないという静的状態に到達しているわけでは決してない。恐らく、そのような状態に物理学は永久に到達しないだろうが、電子という存在は、アンダーソンの言うシームレス・ウェブを作り上げている重要な“threads”として、永久に認知され続けるであろう。

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 上の文章の中の「10桁以上の精度」というものの実感を得るために、ファインマンという物理学者のコメントを引用します:
# この(量子電磁力学)理論がどのくらいしっかりと絞り上げ機に掛けられて来たかを、まあ、分かって頂くために、最新の数値を少しお伝えしましょう:ディラックの数の実験値は1.00115965221(最後の桁でほぼ4 の不確定さ);理論の計算値は1.00115965246(実験値より4倍ほどの不確定さ)。これらの数の精度のすごさを感じ取って頂くために、例え話をすると次のようなことになります:もしロサンゼルスからニューヨークまでの距離をこの精度で測る話に例えると、それは人間の髪の太さにあたる精度ということになります。これは、過去50年間に、量子電磁力学が—理論的にも実験的にも—どんなに微妙精密にチェックされてきたかを示しています。ところで私はただ一つの数を選んでお目にかけて来ましたが、量子電磁力学では同様の精度で測定された他の量もあり、それらに就いても実験と計算はとても良く一致します。事柄は距離で測れば大は地球の大きさの百倍から小は原子核の大きさの百分の一に及ぶ範囲でチェックされています。これらの数値は皆さんの度肝を抜いて、理論は多分あんまり外れてなさそうだな、と信じ込ませるためのものです。」(Feynman QED. The Strange Theory of Light and Matter. Princeton: Princeton University Press. 1985, 6-7) #

 これは余談ですが、自然科学でよく使う「精度」とか「誤差」という考えは、哲学の真理論で真剣に議論すべき事柄ではありますまいか? パースのプラグマティズム哲学では、すべての信念は間違いである可能性があるということを重視します。我々が獲得したと考えるあらゆる知識は可謬(fallible)だと考えるということです。名詞はfallibility(可謬性)。こうなると、我々は「真理」にどのぐらい近いかという考え方、見当の見積もりをする、つまり、「精度」とか「誤差」という考えは、プラグマティズム哲学の科学哲学と僭称するのは遠慮するとしても、もっと卑俗な意味でプラグマティックな科学哲学の一つの概念として取り上げるのも、一つのアイディアではありますまいか。「精度」とか「誤差」といった概念は、自然科学の現場では必須のものです。

藤永茂 (2017年3月7日)
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1 コメント

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Unknown (山椒魚)
2017-03-13 14:18:47
私の感想です
1.教授職になると,学生が受ける講義の種類まで決定することできたのでしょうか.学生は時間的余裕が有り,受講する教授の許可が有れば自由に他学部の講義を受講することができるのではないでしょうか
2.学生に灰皿を投げつけて,もし当る場所が悪ければ,死ぬことはないにしても相当な傷害を負わせると思いますが,そのような教授に対して大学は何らかの処分を下すべきではないでしょうか.(これは未遂の傷害罪に該当しないのでしょうか)
3.吸殻が飛散って教室は相当汚れたとおもいますが,クーンは清掃の職員にもしかしたら余分な時間外の労働を強いたかも知れないと思いますが,大学はクーンに清掃職員のオーバータイムに対する支払の請求はしなかったのでしょうか

余談ですが,平素から素行不良だった私が,FORTRANの講義を受講していたら,教室主任から呼出しがあり「お前には受講してもFORTRANの単位はあげない」と暗に受講しないように言われました.その後も受講を続けましたが灰皿は投げつけられませんでした.単位は貰えませんでしたが.

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