私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

オジャラン(3)

2015-09-02 22:16:09 | 日記・エッセイ・コラム
 オジャランの論考小冊子:
Liberating Life: Woman’s Revolution
 (生命の解放:女性革命)
の始めの部分の翻訳を始めます。興味を持たれた方は下記のサイトから全文を読み取ってください。単行本としても販売されています。

https://peaceinkurdistancampaign.files.wordpress.com/2011/12/ocalan-liberating-life-woman_s-revolution.pdf

Abdullah Öcalan:
Liberating Life: Woman’s Revolution first edition 2013
(c) Abdullah Öcalan
ISBN: 978-3-941012-82-0 Translation: International Initiative
Published by:
International Initiative Edition
in cooperation with Mesopotamian Publishers, Neuss
International Initiative
“Freedom for Abdullah Öcalan – Peace in Kurdistan” P.O. Box 100511
50445 Cologne
Germany
www.freedom-for-ocalan.com
目次

International Initiative (新国際構想)による紹介  7
1. はしがき    9
2. 女性の革命:新石器時代 13
3. 最初の大きな性的決裂 18
4. 父権的権威深く根付く 23
5. すべての奴隷制は家庭主婦化に基づく 26
6. 第二の大きな性的決裂 30
7. 家族、王家、国家 35
8. クルド社会での女性の立場 40
9. 資本主義    43
10. 経済      47
11. 支配的男性の抹殺:支配的男性に対する第三の大きな性的決裂 50
12. 女性の科学としてのジネオロジー 55
13. 民主的現代感性:女性革命の時代 59
著者について      63
International Initiative (新国際構想)について 64
アブドゥッラー・オジャランによる出版物    65
書籍         65
小冊子       65
オジャランに自由を       66


International Initiative (新国際構想)による紹介

これは新国際構想が用意したこの種類の小冊子の第三冊である。これらの小冊子は特定の話題についてのアブドゥッラー・オジャランの見解の短い梗概を知っていただくために、彼の筆になるあれこれの書物から編纂したものである。
 1999年、オジャランが拉致され、投獄される以前に、彼の女性男性問題についての講演に基づいた何冊かの本が出版されていたが、その中に“如何に生きるか(英語訳‘How to live’)”というタイトルの三冊があった。また、彼のインタビューを本にした“男性を抹殺する(英語訳‘Killing the male’)”は、クルド人の間ではよく知られる格言になっている。オジャランは他にも幾つかのスローガンを作ったが、例えば、“女性が自由でなければ、その国は自由でない”、は国家の解放が、何をおいても先ず女性の解放でなければならないと規定し直したスローガンである。彼の獄中での著作で、女性の解放は、歴史、現代社会、政治活動についてのオジャランの議論の中で数多く触れられている。この小冊子はこのトピックについての彼の書き物からの抜粋から、特に彼の最近の、まだ英語に翻訳されてなかったものから、編纂されている。
 アブドゥッラー・オジャランは単に理論家であるだけではなく、クルド人の解放のみならず、どうすれば意義ある人生を生きることができるか、その答えを見出そうと励む運動の指導者でもある。彼の著作が極めて多くの人々の人生に大きな影響を与えた理由はここにある。
 彼はこれまでの人生で、とりわけクルド解放闘争に従事しながら、女性の解放問題に関わり続けてきた。彼は、その家長制度批判を通してインスピレーションを与えながら、男性の支配に反対する闘争に立ち上がることを女性に強く奨励した。彼のような影響力のある指導者からの語りかけと指揮は運動の目覚ましい進展に貢献した。
 長年の間、彼は女性と男性の構築された役割を超克することの重要性について語るだけではなく、女性たちが自分自身、彼女たちの生活、男性たち、社会について疑問を投げかけ、再構成することが出来るように、女性運動とその組織を設立することを励ました。かくて、クルドの自由解放闘争と互いに手を取り合って、クルディスタンでは、並外れて強力な女性の参加が生活のすべての面で湧き上がった。実際、クルディスタンにおける女性運動の目覚ましい精力と生命力は、どちらかと言えば男性優位的と見なされる世界のこの地域でのこの盛り上がりを予期しない人々をしばしば驚かせる。
 これまで多年にわたって、アブドゥッラー・オジャランは、女性の自由のレベルはその社会の自由のレベルを決定すると度々語ってきた。これを彼はまた先日のBDP(平和民主党)代表団との会見で、“私にとって、女性の自由は母国の自由よりもなお貴重だ”と再び言明した。
 こうして女性の自由の問題に関する小冊子のアイディアが出てきたのだ。


1. はしがき

女性の自由の問題は私の人生を通じて私の興味を掻き立ててきた。はじめの頃は、中東での、また、一般的に、女性の奴隷化は封建的後進性の結果だと見ていたが、多年の革命的実践と研究の後、問題の根はもっと深いという結論に私は到達した。文明5000年の歴史は本質的に女性の奴隷化の歴史である。したがって、女性の自由は、この支配のシステムの基礎に対して闘争を挑むことによってのみ達成されるであろう。
 自由の問題に関して主流文明を分析すれば、文明はいや増す奴隷制によって圧迫されていることが明らかになる。この“主流文明”とは、シュメールからアッカド、バビロンからアッシリア、ペルシャからギリシャ、ローマ、ビザンチン、ヨーロッパ、そして最後にUSAへと伝承され、また、逆方向にも影響を与えた文明を指す。この文明の長い歴史を通じて、奴隷制は三つのレベルで永続されてきた。:はじめに、イデオロギー的奴隷制の構築がある(際立った、しかし、もっともらしい)恐ろしさを持つ支配的な神々が神話から構築される;次に、暴力の行使;最後に、経済の掌握が来る。
 この三段構えで社会を鎖で束縛するやり方は、シュメールの神官支配国家が設立した神殿であるジッグラトによって見事に例示されている。ジッグラトの上層階は心を支配する神の居所とされている。中層階は神官たちの政治的また行政的本部である。最後に、低層階はあらゆる生産部門で労働を強制される職人や農業労働者を収容する。本質的には、このモデルは今日まで変わっていない。かくて、ジッグラトの分析は、事実、綿々たる主流文明の分析なのであって、それは、我々が現行の資本主義的世界システムをその真の基礎に目をつけて分析することを可能にする。資本と権力の連続的で蓄積的な発展はメダイヨンの一面に過ぎない。その裏側は、そら恐ろしい奴隷制、飢餓、貧困、そして、獣群的社会への強制である。
 人間社会からその自由を剥奪して、それを家畜の群のように取り扱う事が出来ることが確かでなければ、中心的文明は、そのシステムがその本性に従って機能するその性格の故に、自らを保持し持続する事は不可能なのである。それを可能にするのは、さらに資本と権力の手段を増大させ、いや増す貧困と獣群的心理をもたらすことによってである。あらゆる時代に、自由の問題が鍵となる問題である理由は、文明のシステム自体の性格にあるのである。
 この自由の喪失の歴史は、同時に、如何にして女性がその地位を失い、歴史から姿を消したかの歴史である。それは、如何にして支配的な男性が、その神々としもべ達、支配者と家来、経済力、科学と芸術を用いて、権力を掌握したかの歴史である。女性の没落と喪失は、かくて、社会全体の没落と喪失であり、その結果が性差別社会である。性差別的男性は女性に対する社会的支配を構築することにあまりにも熱心なため、彼は、女性とのあらゆる接触を支配の見せびらかしの機会にしてしまう。
 女性の奴隷化の深さとこの事実の意識的な隠蔽は、かくて、社会内部での、階級制度的、国家統制的権力の勃興に密接につながっている。女性が奴隷制に慣らされると、階級制度(ハイアラーキーはギリシャ語起源で“大司祭による支配”を意味する)が確立されると;社会の他の階層の奴隷化への道が整えられる。男性の奴隷化は女性の奴隷化の後にやってくる。社会的性別奴隷化は階級的なまた国家的な奴隷化とやや異なる。その正当化は感情に働きかける虚言と組み合わされた手の込んだ熾烈な抑圧を通して達成される。女性の生物学的相違が女性の奴隷化に利用される。女性が行う仕事はすべて当然のこととされ、価値のない“女の仕事”と呼ばれる。公的な場所に女性が居ることは宗教が禁じているとされ、道徳的に恥ずべきこととされる。;女性は、次第に、すべての重要な社会的活動から締め出される。政治的、社会的、経済的活動の支配的権力が、男達によって乗っ取られるにつれて、女性の弱さはますます制度化されて来る。こうして、“弱き性”という考えは一つの共有信念になる。
 実際、社会は女性を単に生物学的に異なる性としてではなく、ほとんど、異なる種族、国あるいは階級として取り扱う –– それも最も抑圧された種族、国、あるいは階級として:どんな種族でも、階級あるいは国でも、家庭主婦化ほど組織化された奴隷化に曝されたことはない。
 闘争の失敗によって経験された失望は、それ自由とか平等を求めたものであれ、あるいは、民主的、道徳的、政治的、または階級闘争であれ、女性と男性との間の力関係の典型的な闘争の刻印を担っている。この関係から、不平等、奴隷制、独裁政治、ファシズム、軍国主義を育むすべての形の関係が生じる。もし我々が、平等、自由、民主主義、社会主義といった言葉の真の意味を理解したいと思うならば、我々は女性の周囲に張り巡らされた関係の古い網を分析し、そして、粉砕しなければならない。それ以外に、真の平等(多様性を然るべく許容する)、自由、民主主義、道徳性を達成する道はない。
 しかし女性の地位を曖昧さなしに明確化するのはこの問題のただ一面に過ぎない。それより遥かに重要なのは解放の問題である。;換言すれば、問題を解決することは、問題を明らかにし解析することより遥かに重要である。資本主義システムの現在の大混迷の最も希望の持てる点は、(限られてはいても)女性の地位が露呈されたことである。20世紀最後の四半世紀に女性解放運動(フェミニズム)は(十分ではないにしても)女性についての真実を何とか明るみに出した。大混迷の時に、何の現象に対してもその変化の可能性は、手の届くレベルの進歩あるいは明確化と歩調を合わせて増加する。;だから、そうした時には、自由のためになされた小さなステップも、積もれば大きな前進になることもあろう。女性の自由化は現在の危機から大きな勝利として姿を現わしうる。人間の手で作り上げられたものは、何であれ、人間の手によって取り壊すことが出来る。女性の奴隷化は自然の定めでも宿命でもない。我々に必要なのは取り壊しの理論、プログラム、組織、そして、これらを実行に移すメカニズムである。

***** 「はしがき」終わり *****

次は 2. 女性の革命:新石器時代 の翻訳に入ります。これから展開されるオジャランの「女性の歴史」は、大変ユニークなもので、アカデミックな専門的歴史学者がどのような学問的評価を下すか、私には見当がつきません。しかし、読み進むうちに、「これはオジャランという稀有な人間の声を聞いているのだ」という想いが昂るのを抑えることができません。そして、この男は、離島の独房の中から、「別の世界が可能なのだ(Another World is Possible)」と、何事にも何者にもめげず、15年間、叫び続けているのです。ただ事ではありません。
 アブドゥッラー・オジャランについては、沢山の記事がネット上にあります。日本語のものを三つ以下に挙げておきます。

http://reki.hatenablog.com/entry/2015/04/14/【抵抗者】クルドの生ける英雄・オジャランの戦

http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20150322_073201.html

http://sonegoronet.jimdo.com/イスラーム圏/


藤永 茂 (2015年9月2日)
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4 コメント

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オジャラン ⑶ (sugiyama,hideko)
2015-09-03 12:09:05
マルクス的女性解放論でもなく、フェミニズム的女性解放論でもなく、一国の自由度をみるに女性の解放がいかになされているかでその開放度を推しはかることができるというオジャランの両性の開放度を平準化してみているところに極めて斬新なテーゼをみることができる。面白い、とても参考になる。今後の展開を大いに期待する。!!
「廃仏毀釈田布施伊藤博文日本史上初の売国棄民Freemasonry総理」 (通りがけ)
2015-09-04 04:37:58
廃仏毀釈明治六年クーデター実行犯田布施Freemasonry伊藤博文が現代まで続く売国総理の大元締めである。

「廃仏毀釈拝金利己他害カルトFreemasonry伊藤博文の明治六年武士道下剋上クーデター」
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7856.html
「決定版 昭和史 第一巻昭和前史・文明開化(幕末ー明治18年)」昭和59年6月30日毎日新聞社刊行

【近代日本の礎となった政治家 大久保利通】  毛利敏彦 (p212~p215全文)

『強固な意志の人』

 すべて歴史上の大変革がそうであったように、近代日本の幕開けとなった明治維新もまた、華麗なロマンと冷厳な現実とが交錯する一大ドラマであった。そして、維新のロマン、つまり英雄的、叙情詩的側面を象徴する人物が西郷隆盛であったとすれば、維新の現実的、叙事詩的側面を代表したのは大久保利通であった。

 大久保は、明治維新政治史において、二つの偉大な役割を果たした。一つは、江戸幕府の最大の敵となった薩摩藩を倒幕の方向にまとめあげたことであり、もう一つは、幼弱な明治政府の基礎を固め、守り抜いたことである。

 かれは、強固な意志力と実行力に恵まれた希有の人物であった。反面、将来への見通しや構想力の面では、いささか貧困であったのは否めない。しかし、いったん、こうと目的を定めると、その実現へ向けて恐ろしいほどの集中力と粘りを発揮し、あらゆる手段を尽くして目的実現に没頭した。このような大久保の個性は、明治維新の過程と結果に深く刻み込まれている。

 大久保は、天保元年(1830)八月十日、薩摩国鹿児島城下の下級藩士の家に生まれた。奇しくも、吉田松陰と同年同月生まれである。竹馬の友の西郷隆盛は三歳年長であった。

 大久保が十五歳になった弘化元年(1844)、薩摩藩に重大事件が突発した。薩摩支配下の琉球(沖縄)にフランス軍艦が来航し、開国と通商を求めたのである。それは、鎖国日本に一大衝撃をもたらした九年後のペリー来航の事実上の前ぶれであった。この事件を通じて、薩摩藩は、幕府や諸藩より一足早く十九世紀のきびしい世界情勢に直面したのである。

 この事件は、大久保個人の生活にも大きく影響した。事件への対応をめぐって藩内に深刻な政争が発生し、改革派に属していた父大久保利世(としよ)は、藩庁主流に対立して、遠島処分の憂き目にあったのである。大久保家の生活はどん底に墜ち、若い大久保は、一家を支えて苦闘しなければならなかった。この経験が、大久保固有の粘り強さ、負けん気、慎重さなどの性格を鍛えたといわれる。そして、失意の大久保の心の支えとなったのは、親友西郷の変わらぬ励ましであった。

『島津久光との出会い』

 やがて、ペリー来航をきっかけに、ついに江戸幕府は開国に踏み切り、日本は否応なく弱肉強食の国際政治の渦中に引き入れられた。ここに、幕末激動期の幕が切って落とされた。薩摩藩の政情も変化して、利世は赦免され、ようやく大久保の前途も明るくなってきた。

 開国後の社会の激変は、幕政批判の声を高めたが、大老井伊直弼は、「安政の大獄」でもってむくいた。それは、火に油を注ぐ結果となり、尊皇攘夷運動を燃え上がらせた。薩摩藩の青年武士のなかにも、西郷、大久保をリーダーとする尊攘のグループが生まれたが、西郷は安政の大獄のあおりをくって奄美大島への潜居を余儀なくされた。焦った同志たちは、前後の見境もなく、井伊を襲撃せよといきりたった。

 しかし、大久保は冷静であった。かれは、激情にかられた一過性の直接行動の限界に気づいていた。そして、幕政=国政に影響を及ぼすためには、まず薩摩藩自体を動かさなければならないと考えた。そこで着目したのは、藩主島津茂久(もちひさ)の実父で藩政実力者の島津久光であった。しかし、大久保と久光とでは身分上の隔たりが大きすぎ、容易に接近できる関係ではなかった。

 ここで、いかにも大久保らしい粘り強い努力が発揮されたのである。かれは、同志の暴発を懸命に食い止めながら、久光への接触の糸口を探した。そして、久光が碁好きであり、城下吉祥院の住職乗願(じょうがん)の指導を受けていることをさぐりあてると、大久保は乗願の囲碁の弟子となった。このまわりくどいやり方に、なにがなんでも久光とのつながりをつけねばならないという大久保の執念が表れている。

 大久保と親しくなった乗願は、ある日、久光が国学者平田篤胤が著した『古志伝(こしでん)』を読みたがっているとの耳よりの話をもたらした。大久保はこの機会を逃さなかった。かれはこの本を探し出し、乗願を経由して久光に届けた。そして、本のなかに時局への意見や同志の氏名を記した紙片を密かにはさみこんでおいた。これを機会に、久光は、しだいに大久保やその仲間たちの言動に注目するようになった。

 このように布石を打ったうえで、大久保は、暴発寸前の同志のエネルギーを、久光への圧力と取引の材料に使った。つまり、暴発近しを久光ににおわせ、その抑止の代償として、自分たちの主張の藩政への反映を求めたのである。一方、久光は、藩内での発言力拡大を図って、活力あふれる大久保ら下士団を自己の支配下に組み入れたいと望んだ。ここに、両者の利害は一致し、久光と大久保の提携が実現したのである。

 大久保が久光に着目してから提携の実現まで一年半かかっている。ここに、いったん目標を定めたら倦むことなく目標に向かって粘り強く手段を尽くすという大久保の行動様式がよく表れている。それは、大久保の政治的生涯を通じての特色であった。

 なお政治に全身全霊を投入した大久保は、ほとんど趣味らしい趣味と無縁であり、囲碁が唯一の例外であった。ところがその囲碁修得自体が若き日の政治的目的の副産物であったのである。

 久光の知遇を得た大久保は、水を得た魚のように頭角を現し、久光側近として藩内の地歩を固めていった。やがて、文久二年(1862)には、久光を擁して公武合体運動に着手し、いよいよ中央政局に乗り出した。それは、開国以後しだいに鮮明になってきた「公」(京都朝廷)と「武」(江戸幕府)との対立を薩摩藩の手で調整して挙国体制を生み出そうとする野心的な試みであった。この過程で、薩摩藩のやり手大久保の名は天下に知られるようになった。

 しかし、外様薩摩藩の中央政局介入は幕府の反発を招き、幕薩関係を悪化させた。そこで、久光は運動から手を引いたが、すでに大久保は一本立ちしていた。かれは、旧友西郷隆盛と手を組み、薩摩藩を倒幕の方向にまとめ上げた。そして、西郷は長州藩との同盟を実現した。こうして、西郷と大久保の絶妙のコンビは斜陽の幕府を政治的に追い詰め、ついに、大政奉還、王政復古となったのである。大久保の粘り強さと集中力が大いに寄与したのはいうまでもない。

『新国家形成への苦闘』

 こうして、京都に明治新政府が誕生し、三十八歳の大久保は参与(さんよ)に就任した。しかし、政府の実態は、大久保と岩倉具視の提携を軸とする倒幕派藩士と王政復古公卿(くぎょう)の寄り合い所帯にすぎなかった。政府とはいえ、町内会に毛が生えた程度で、固有の行政組織も軍事力もなく、財政基盤も貧弱で、いつ潰れてもおかしくないお粗末な代物であった。俄(にわか)づくりの政府首脳たちは政権確保に自信をもてず、前途に悲観的であった。大久保も、「皇国の事、すべて瓦解土崩(どほう)、大御変革も尽(ことごと)く水泡画餅(がべい)」と、不安を記している。しかし、大久保は、動揺する岩倉らを叱咤激励し、不退転の決意で、新政府の創出と維持に全力を投入した。かれの強固な意志の力が欠けていたならば、維新は腰くだけに終わったかもしれない。

 大久保が渾身の力で新政府をもちこたえているうちに、情勢は好転してきた。なによりも、新政府は天皇権威という無類の資産を擁していたし、時の勢いにも乗っていた。そこで、当初は薩長など倒幕派諸藩にのみ依拠していたが、立ち上がりの鳥羽・伏見戦争を辛(かろ)うじて乗り切ると、日和見(ひよりみ)していた西日本の諸藩は、バスに乗り遅れまいと、なだれをうって新政府の側についた。京、大阪の大商人たちも政府に献金して忠誠を示した。

 ここに大勢は決し、観念した徳川慶喜は江戸城を明け渡して新政府の軍門に降(くだ)った。旧幕府側の拙劣な対応に助けられたとはいえ、もし大久保という強烈な個性が存在していなかったならば、明治政府は発育不全のまま野垂れ死(じ)にしたかもしれない。

 こうして、新政府の権威と指導性は確立したが、諸藩は依然として半独立の体制を残していた。国家統一のためには廃藩が不可避の課題であったが、諸藩の抵抗が新政府の命取(いのちと)りになるおそれもあった。そこで、またもや大久保は、郷里鹿児島で藩政改革にあたっていた旧友西郷隆盛の助けを借りることにしたのである。

 大久保の懇望(こんもう)を容(い)れた西郷は、手塩にかけて育て上げた精鋭の鹿児島軍団を率いて政府に入った。ここに、政府の威力は格段に高まったので、明治四年(1871)七月、廃藩置県が断行され、明治政府は日本全土の直接統治にこぎつけた。

 幕末の場合と同じく、廃藩置県においても、西郷と大久保のコンビは絶大な力を発揮した。維新変革のドラマには、天皇・将軍から庶民にいたるまで有名無名の多数の人物が登場したが、西郷と大久保は文字どおり主役であった。そして、長い日本の歴史において、これほどの大仕事を遂行した名コンビは稀(まれ)なのではなかろうか。ところが、二年後に両者は悲劇的な対立と決別の運命に見舞われるのである。

 前途に、そのような運命が待ち受けているとも知らず、大蔵卿になった大久保は、その年十一月、右大臣(副首相)岩倉具視を大使とする使節団の副使として、米欧各国歴訪に出かけた。明治新政府の発足を各国に伝えるとともに、条約改正への瀬踏みと西洋文明の調査を目的とした旅であった。
「廃仏毀釈Freemasonry拝金利己他害カルト伊藤博文の明治六年武士道下剋上クーデター」 (通りがけ)
2015-09-04 04:38:38
『明治六年政変(その一)』

 大久保が岩倉大使より一足早く帰国したのは、明治六年(1875)五月であったが、半年後の十月二十三日、ただ一人の陸軍大将で筆頭参議の西郷隆盛が、病気を理由に辞表を提出し、翌二十四日、参議を解任された。同じく二十四日、参議の板垣退助、江藤新平(えとうしんぺい)、後藤象二郎、副島種臣の四人も、西郷に一日遅れて、いっせいに辞表を提出した。ここに、政府首脳は真っ二つに分裂し、半数が野に下るという大事件となった。

 いわゆる「明治六年政変」であるが、従来、この事件は征韓論政変とも呼ばれ、征韓論の西郷派と非征韓論の大久保派の衝突が原因で生じた事件とみなされてきた。さらに、西郷が征韓を主張したのは、国権拡張を期すとともに、不平士族の不満を外にそらし、かつ没落士族の活路を求めたからであり、一方、大久保は、欧米先進国を視察して内治優先を痛感し、私情を超えて開戦のおそれがある西郷の主張に反対せざるを得なかった。そして、閣議で征韓論が敗れたので、西郷派はいっせいに下野(げや)した云々(うんぬん)、というのが通説である。

 ところが、先入観を去って関係史料をよく調べてみると、この通説の根拠は意外にあやふやなのである。西郷が閣議などの公式の場で征韓を主張したとの記録は皆無であり、かれが士族のために征韓を図ったと直接に証明できる証拠もない。また、朝鮮問題に対する西郷の議論が閣議で否認された事実はないのみか、むしろ、閣議で孤立し辞表を提出したのは大久保のほうであった。征韓論政変説というのは史実と食い違う誤謬に満ちた俗説である。

 では、なぜ大久保は生涯の親友で無二の同志であった西郷と対立し、政府の大分裂まで引き起こしたのであろうか。その謎を解くために、政変の経過を簡単にたどってみよう。

『明治六年政変(その二)』

 大久保帰国前後の明治六年初夏のころ、隣国朝鮮との間に厄介な問題が発生した。そもそも、江戸時代には日朝間に友好関係が存続していたが、江戸幕府の倒壊とともにその関係が途切れ、明治政府は朝鮮との国交再開をもくろんだものの、両国の思惑(おもわく)が食い違ってうまくいかず、外交上の重要懸案となっていた。そのようなときに、朝鮮国釜山(ふざん)所在の日本側出先機関が朝鮮現地の官憲に侮辱(ぶじょく)されるという不幸なトラブルが発生したのである。

 事態を重大視した外務省は閣議に問題をもち込んだ。強硬派の参議板垣退助(いたがきたいすけ)は現地に軍隊を急派せよと主張したが、西郷は反対した。西郷の意見は、派兵は開戦の危険をもたらすからよくない、それよりも全権の使節を派遣して公明正大に談判すべきだというものであった。そして、みずから使節を引き受けたいと申し出た。そこで、太政大臣(首相)三條実美(さんじょうさねとみ)は、使節は護衛兵を連れて軍艦で行くのがよいと論じたが、西郷はこれにも反論し、交渉をうまくまとめるためには相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならないと強調した。

 結局、閣議は西郷の主張の線でまとまり、西郷使節の朝鮮派遣を内定したが、なお正式決定は(各国歴訪中の)岩倉帰国後とされた。ここで注意しておきたいのは、西郷の立場が、征韓論(せいかんろん)とまったく正反対の平和的道義的交渉論だったことである。むしろ、板垣や三條が征韓論に近かったといえよう。

『明治六年政変(その三)』

 さて、岩倉大使一行が一年十ヶ月ぶりに帰国したのは、この年九月十三日であった。そのころ、一足先に帰国していた大久保は、夏期休暇をとって神戸の有馬(ありま)温泉に湯治に出かけていた。俗説では、大久保が征韓論に対抗するために同志岩倉の帰国を手ぐすねひいて待ち受けていたことになっているが、実際はそうでなく、のんびり湯治に行っていたのである。

 久しぶりに右大臣岩倉を迎えた三條は、たまっていた政務の扱いを相談し、協力して処理を急ぐことになった。三條の指導力が弱かったので、岩倉の留守中に各参議や各省が勝手に活動しがちだったため、政務が混乱していたのである。そのようなわけで、懸案の西郷使節朝鮮派遣の正式決定がずるずると遅れ、棚上げ同然となっていた。

 しびれを切らせた西郷は、三條の怠慢をきびしく責めた。ここに不幸な行き違いが生じた。お上品な上級公卿(くげ)育ちの三條は小心で優柔不断な人物だったといわれている。三條は西郷の抗議にすっかり動転(どうてん)し、自分の不手際を忘れて、西郷が朝鮮と戦争をしたがっていると信じて真剣に悩んだ。これは、三條のまったくの誤解であった。

 自分が勝手に呼び起こした戦争の亡霊に悩んだ三條と岩倉は、湯治から帰京してきた大久保に、参議に就任して助力してくれるように頼み込んだ。しかし、大久保は三週間にわたって固辞(こじ)した。俗説がいうように、大久保が内治優先と反征韓論の使命感に燃えていたのであれば、この固辞について説明できないであろう。

 大久保が参議就任を固く断ったのは、実は旧主島津久光(しまづひさみつ)との複雑な関係のためであった。久光は廃藩を行った政府を恨(うら)んでいた。もし大久保が参議を引き受ければ、久光からの攻撃の矢面(やおもて)に立たされるおそれがあった。それは、大久保には耐(た)え難(がた)いことであった。

 しかし、三條と岩倉の度重なる懇願に、とうとう大久保も断りきれなくなり、参議就任を受諾した。ただし、閣議で朝鮮使節派遣の延期を主張してみるが、それは本心からではなく、三條と岩倉に頼まれたからであること、したがって、中途で変説して二階に上げておいて梯子(はしご)をはずすようなことは絶対にしてもらいたくない、ときびしく念を押したのである。

『明治六年政変(その四)』

 十月十四、十五両日の閣議に西郷使節の朝鮮派遣問題がかけられた。大久保は、三條と岩倉から頼まれたとおりに、使節派遣は戦争を引き起こすかもしれないから延期せよと発言した。一方、西郷は、日朝国交正常化のために平和的道義的な使節派遣の必要性を力説した。両者の議論の優劣はだれの目にも明らかであり、大勢は西郷を支持したので大久保は孤立した。

 これをみて、三條と岩倉は、あれほど固く大久保と約束したにもかかわらず、中途で変説して西郷派遣論に同調した。大久保もやむをえず大勢に従った。ここに、西郷派遣は満場一致(まんじょういっち)で正式の閣議決定となった。西郷が征韓論で閣議に敗れたという俗説は、見当違いもはなはだしいのである。

 ここで、大久保が冷静(れいせい)な態度を保持していたならば、政局に波乱が生ずることもなく、西郷使節の朝鮮派遣が実現し、多分、日朝国交がうまくまとまって、東アジアの平和が促進(そくしん)されたであろう。国内の士族反乱や自由民権運動もあれほど激化せず、日本の立憲政治も、もっとスムーズに実施に移されたのではなかろうか。

 しかし、現実はそうでなかった。三條と岩倉の不誠意と手ひどい裏切(うらぎ)りでピエロにされたと激怒(げきど)した大久保は、三條宅におしかけて辞表をたたきつけた。事態を甘くみていた三條は一大ショックを受けたにちがいない。幕末以来大久保と深いつながりがあった岩倉も、大久保の予想外の怒(いか)りを知ってあわてた。岩倉も辞意を表明した。

 相棒岩倉の態度が急変したので、小心な三條は懊悩(おうのう)のあまり、高熱を発(はっ)して卒倒(そっとう)してしまい、執務不能に陥(おちい)った。政局は大混乱状態となった。

 ここに登場したのが、長州派の策士(さくし)伊藤博文(いとうひろぶみ)である。かれは、かねてから、初代司法卿(しほうきょう)の参議江藤新平(えとうしんぺい)による長州派の同僚山県有朋(やまがたありとも)や井上馨(いのうえかおる)の汚職摘発(てきはつ)を食い止めようと苦心していたが、三條卒倒の椿事(ちんじ)につけこんで、一気に江藤(えとう)追い落としを謀(はか)った。伊藤の策略は、岩倉を太政大臣代理につけて強引に西郷使節派遣を葬(ほうむ)れば、江藤(えとう)を含む参議連中が抗議(こうぎ)の辞表を出すにちがいないから、逆手(ぎゃくて)を取って辞表を受理すればいい、というものであった。

 伊藤は、この陰謀を大久保に吹き込んだ。怒りに平素の冷静さを失っていた大久保は、まんまと伊藤の策略に乗せられた。大久保は、薩藩以来の同志で宮内省の高官になっている吉井友実(よしいともざね)に手をまわし、岩倉を太政大臣代理に就(つ)けることに成功した。

 そこで、岩倉は、無法にも閣議の正式決定である西郷使節派遣を否認するようにと天皇に上奏(じょうそう)した。若い明治(めいじ)天皇は岩倉の言いなりになった。岩倉の行為は、太政官職制(だじょうかんしきせい)や正院事務章程(せいいんじむしょうてい)などの政府の基本法規に違反する暴挙(ぼうきょ)であった。

 ここにドンデン返しが生じ、西郷や江藤は抗議辞職するほかはなかった。まんまと罠(わな)にはめられたのである。大久保(おおくぼ)のクーデターは成功した。これこそが明治六年政変の真相である。いうまでもなく征韓論云々(うんぬん)とは無関係であった。

 わたしはかねてから征韓論政変説が不自然であるのに気づき、政変の学問的解明に努めた結果、以上の結論に到達した。詳(くわ)しくは、拙著「明治六年政変の研究」(有斐閣、1978年)、「明治六年政変」(中公新書、1979年)を参考にしていただければ幸いである。

『大久保内務卿』

 大久保は、政変(クーデター)によって権力を奪回(だっかい)したが、最大の同志西郷(さいごう)を失(うしな)うという大きな犠牲(ぎせい)を払わなければならなかった。以後の大久保の政治行動は必ずしもすっきりしたものではなかった。かれは、政変における無理な行動が蒔(ま)いた種を刈り取らねばならなかったし、政変時の首尾一貫(しゅびいっかん)しないわかりにくい行動の事後的(じごてき)な合理化、正当化にも努めなければならなかった。

 しかし、大久保は、その難(むづか)しい仕事を、持ち前の実行力と粘りでやり抜いた。かれは内務省(ないむしょう)を創設し、上(かみ)からの日本近代化に奮闘(ふんとう)した。それは、権力奪回(けんりょくだっかい)の正当性を事後的(じごてき)に示(しめ)すためにも不可避(ふかひ)であったし、なによりも弱肉強食の十九世紀世界において日本が生き残る唯一の途(みち)であった。

  初代内務卿(ないむきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)は、不退転の決意でこの仕事に取り組んだ。そして、明治十一年(1878)五月十四日、東京紀尾井坂(きおいざか)で、不平士族に襲われて四十九歳の波乱の生涯を閉じた。かれは自分の蒔いた種を全力をあげて刈り取り、最後は暗殺(あんさつ)されることで自分なりの精算(せいさん)をつけたともいえよう。それは、政治の戦場におけるいかにも大久保らしい名誉(めいよ)の戦死(せんし)というべきかもしれない。



大阪市立大学教授  毛利敏彦
廃仏毀釈明治六年クーデター実行犯Freemasonry (通りがけ)
2015-09-04 04:39:10
大久保利通は暗殺(あんさつ)ではなく天誅の誅殺(ちゅうさつ)です。


「大久保利通暗殺(あんさつ)事件」より転載
www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku06.htm
(歴史よもやま 第6話)

■明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸と壬生邸にはさまれた、通行人のない閑静な路上で事件は起きました。

 薩摩出身の参議兼内務卿大久保利通は、午前8時10分、二頭立て馬車に乗り護衛もつけず、登庁のため、裏霞ヶ関の屋敷を出ました。
 馬車が紀尾井町1番地へとさしかかり、赤坂御門の前を過ぎ、壬生邸の横に至った時、旧加賀藩士の島田一良、長連豪(ちょう・つらひで)ら6名の刺客が襲いかかったのです。

 大久保は彼ら刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。
「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れ、ついに止めを刺されたのです。大久保利通、享年49歳でした。

 この紀尾井町の、明治新政府の中心人物大久保利通暗殺(あんさつ)事件は当時の社会に大きな衝撃を与えたそうです。
 特に首謀者の多くが旧加賀藩士だったことから、石川県の近代史に特筆される事件となりました。
 この後、政治の主導権は伊藤博文たち長州閥に移ることになり、政府内の権力争いにも影響を与えました。

首謀者6人
 島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
 脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族)
 浅井寿篤(島根県士族)

 彼らは「暗殺(あんさつ)は卑怯だから」と思い、大久保を襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、まっすぐに宮内省に駆けむかいました。
 門前に立ち、大声で自分たちが大久保殺害(さつがい)の下手人であることを名乗ったそうです。


 金沢市野田山麓にある島田一良、長連豪たち6人の
 墓所。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho11.JPG

 島田一良らが集った三光寺。 (金沢市野町)
 島田たち不平士族はここで会合を持ち「三光寺派」と
 よばれました。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho16.jpg


■彼らが掲げた暗殺(あんさつ)理由(斬奸状)
 「薩長藩閥の専制独裁」
 「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
 「国費の乱費と憂国の士の排斥」
 すなわち、大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いたというものです。
 言論の自由がない当時の社会では、自分たちの意見を表現するには暗殺(あんさつ)以外にないと考えたのでしょうか。

■襲撃後、官に名乗り出て死刑(しけい)になるなら、いさぎよくそれを受ける。人を害して我が身のみ逃れることをしないという彼らの態度は(狂信的な面もあり、もちらんテロリズムは許されない行為ですが)、現代のまったく関係のない人を標的にして殺(ころ)し、自分は隠れるという卑劣なテロリストとは違うと思うのです。
 襲われた時に、刺客を制して冷静に書類を風呂敷に包み、馬車から降りた大久保利通とともに、彼ら刺客たちも「武士」だったのだな・・・と思います。

転載終わり
_______________


廃仏毀釈Freemasonry伊藤博文も斬奸状で暗殺(あんさつ)された
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c189

さて、自分が新政府で得た権力の私物化を求めて迷った、公家化(Freemasonry化)した元武士官吏大久保利通は、斬奸状の下に武士道武士らによって誅殺(ちゅうさつ)されましたが、田布施の非武士忍者非人Freemasonry伊藤博文も、皮肉にも和韓論の武士道西郷隆盛を自分の陰謀証拠隠滅の西南戦争で殺(ころ)して攻め込んだ朝鮮半島で、さらに皮肉にも大久保と同じく斬奸状の下にこちらは非人ですから端的に銃殺(じゅうさつ)されたのです。
斬奸状の奸とは佞臣奸賊の奸であり、私利私欲に基づいて公の政治に潜り込み利権をあさる賊は常に、地球の起源から常に存在する造物主を装う一神教悪魔Freemasonryです。

安重根が記したFreemasonryに対する斬奸状はこちらを参照してください↓

「良く、こんなところで暮らしてるな・・・」
http://vrai2.blog.fc2.com/blog-entry-50.html

2012/08/02 13:21
伊藤博文暗殺(あんさつ)事件の犯人、安重根斬奸状の要点

1 韓国のミン皇后を殺(さつ)害した罪
2 韓国皇帝を廃位させた罪
3 5条約と7条約を強制的に結んだ罪
4 罪のない韓国人たちを虐殺(ぎゃくさつ)した罪
5 政権を強制的に奪った罪
6 鉄道,鉱山,山林を強制的に奪った罪
7 第一銀行券紙幣を強制的に使った罪
8 軍隊を解散させた罪
9 教育を邪魔した罪
10 韓国人たちの外国留学を禁止した罪
11 教科書を押収して燃やしてしまった罪
12 韓国人が日本人の保護を求めていると世界に嘘をまき散らした罪
13 現在,日韓で競争が休みなく,殺戮(さつりく)が絶えないのに
  泰平無事なように上に天皇を欺いた罪
14 東洋平和を破った罪
15 日本天皇陛下の父である太皇帝を殺(ころ)した罪

注目すべきは15番目に孝明天皇暗殺(あんさつ)が触れられてる。(笑)

ただ、一々検証は避けますが、
最初のミンピ事件とは大韓帝国皇后ミンピを
日本の三浦梧楼が指揮するとされる集団が宮廷に侵入、
皇后を全裸にして、強姦、嬲り者にした上、くびり殺(ころ)した事件です。
日本の皇后がこれをやられたら、日本人は誰でも激怒する。
安重根の9歳の息子は彼の刑死(けいし)、数日後に殺(ころ)されています。

3の乙巳条約は、日本が欧米列強との間で結ばされた不平等条約と
同じ屈辱的なもの。
これを日本は近代化の流れの中で解消したのですが
日本はそれをすべき政府そのものを略奪した。
日本が山林に植樹したり、鉄道を整備したのは事実ですが、
その前に6があった。
接収したものを日本が整備したに過ぎないんです。

韓国の排日、反感はこの明治政府の政策から始まってるんです。

これをやった日本政府にも言い分は勿論ある。
ロシアの南下があってもう李朝朝鮮がどうしようもなく腐敗していた。
日本の安全保障上の目的からも日韓同盟は必須だったけれど
朝鮮側の政治状況が不安定で政争に明け暮れてる。
やむを得ない手段だった。その通りです。

でも、軍隊を解散させるとか、焚書坑儒的なことが
彼らの自主性を全く無視した結果。結局、恨みを買ってるんです。
100年も前の話じゃなくて、反日教育の原点を冷静に見てきたら
日本の自業自得ということでもある。

そんなのは戦前の話で、オレはやってないというのは関係なくて、
その結果が現在の38度線の朝鮮半島分断につながってるわけだし、
イムジン川ではありませんが、今でも半島の人たちは影響を受けてる。
これは事実であって、自虐史観ではないですよ。

在日の原点は朝鮮戦争難民ですが、何故朝鮮戦争などがおきたのか
当たり前の話で国が分断されてしまった。
これを統一しようとしたのだから、
最初から統一朝鮮なら起きないことなんです。
つまり遠因は日本にある。(あった)

これはほんの一例ですが、こういったことをきちんと理解して、
そのまま事実として受け止め、その上で前向きに在日と接したら、
彼らも自分の苦悩は述べても、前向きな対処をしますよ。

それを差別するのは人の頭をぶん殴っておいて、
自己主張だけを言い続けて、相手が怒ったら、怒った方が悪いと言うようなもの。
「在日の行動背景の裏にはそれなりの理由がある」わけです。

日本人が彼らを嫌うそれなりの理由とはなんですか。

転載終わり

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