バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「イエス・キリストの福音」

2017-04-16 12:17:24 | Weblog
「イエス・キリストの福音」

イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされた救い。


(1)神の国の到来。

(2)神は、独り子をお与えになるほどに、世を愛された。

(3)私たち人間の罪の贖いとして、イエス様は十字架にかかって犠牲となられた。

(4)イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、神との和解が与えられた

(5)イエス・キリストを信じることにより救われて、神の子とされ、永遠の命に与る。


■ 関連する聖書箇所

(1)マルコ福音書1章15節(マタイ4:17)、
   ルカ福音書4章16~21節。
   マタイ福音書5章3~12節(ルカ6:20~23)

(2)ヨハネ福音書3章16節、ヨハネの手紙一 4章7~12節
   フィリピの信徒への手紙2章6~11節、

(3)マルコ福音書10章45節(マタイ20:28)
   マルコ福音書12章10~11(人々に捨てられたイエスこそが大切な救いの土台)
   マルコ福音書14章22~25節(マタイ26:26~30、ルカ22:15~20、
   1コリント11:23~25)
   マルコ福音書15章33~39節(マタイ27:45~56、ルカ23:44~49、
   ヨハネ19:28~30)
   ヨハネ福音書1章29~34節、ローマの信徒への手紙3章21~26節、
   コリントの信徒への手紙一 15章3~11節
   ガラテヤの信徒への手紙1章4節、エフェソの信徒への手紙1章7~10節
   テモテへの手紙一 2章5~6節、ヘブライ人への手紙7章27~28節、
   イザヤ書53章1~12節(旧約聖書)

(4)マルコ福音書8章31~38節(マタイ16:21 ~28、ルカ9:22~27)、
   ヨハネ福音書2章19~22節
   ローマの信徒への手紙4章24~25節、5章6~11節、
   コリントの信徒への手紙二 5章17~21節、
   エフェソの信徒への2章14~22節、
   コロサイの信徒への手紙1章19~22節、

(5)マルコ福音書13章24~27節(マタイ24:29~31、ルカ21:25~28)
   (上記に関連する旧約聖書 ダニエル書7章9~14節)
   マルコ福音書16章14~16節(マタイ28:16~20、ルカ24:36~49、
   ヨハネ20:19~23)、ヨハネ福音書11章25~27節
   使徒言行録4章10~12節、ローマの信徒への手紙6章3~11節、
   コリントの信徒への手紙一 15章20~28節、
   ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節、
   エフェソの信徒への手紙1章3~14節、
   エフェソの信徒への手紙2章1~10節、
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「神は、(この方を)死者の中から復活させて下さった。」

2016-03-27 07:19:28 | Weblog
「神は、(この方を)死者の中から復活させて下さった。」

聖書では、「神は、(この方を)死者の中から復活させて下さった。」という言葉が何箇所も書かれています。(ό θεος ηγειρεν εκ νεκρών. と、ギリシア語で書かれてあります。これは、弟子たちが伝えた大切な信仰告白の言葉として、教会で受け継がれたのでしょう。

 使徒パウロが受けたイエス・キリストの復活に関しての伝承として、コリント15章12節があげられます。
 その他にも、イエス・キリストの復活に関して聖書では以下の箇所で、「死者の中から復活させられた」という言葉が原形となって、証言が書かれてあります。

マタイ福音書17章9節、マタイ福音書27章64節、マタイ福音書28章7節、マルコ福音書9章9~10節、ルカ福音書24章46節、ヨハネ福音書2章22節、ヨハネ福音書20章9節、ヨハネ福音書21章14節。
使徒言行録3章15節、使徒言行録4章2節、使徒言行録4章10節、使徒言行録10章41節、使徒言行録13章30節、使徒言行録13章34節、使徒言行録17章3節、使徒言行録17章31節、使徒言行録26章23節。
ローマ1章4節、ローマ4章24節、ローマ6章4節、ローマ6章9節、ローマ7章4節、ローマ8章11節、ローマ10章9節、第1コリント15章20節、ガラテヤ1章1節、エフェソ1章20節、コロサイ2章12節、第1テサロニケ1章10節、第2テモテ2章8節、
第1ペトロ1章3節、第1ペトロ1章21節。黙示録1章4節
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「イエス様の受難を覚えて」

2016-03-20 10:30:00 | Weblog
「イエス様の受難を覚えて」

■マルコ14章12~21節「過越の食事をする」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「ユダがイエス様を裏切ろうとした心は、この私の中にもひそんでいる
ことを知らされ、この裏切りの心がイエス様を十字架につけたことを憶え、1つ目のローソクを消します。」
(消灯1)

■マルコ14章22~26節「主の晩餐」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「イエス様が、パンを裂き杯を与えられたのは、ご自身の体を裂き、血を流し、私たちに命を与える覚悟の表れだったことを憶え、2つ目のローソクの火を消します。」
(消灯2)

■マルコ14章32~42節「ゲッセマネで祈る」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「十字架の苦しみは、イエス様にしても『できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』と祈られたほどの苦しみであったことを憶え、3つ目のローソクを消します。」
(消灯3)

■マルコ14章66~72節「ペトロ、イエスを知らないと言う」
  マタイ受難曲第39番“憐みたまえ、わが神よ”
 「私は決してあなたを裏切りません、と言ったペトロが三度イエス様を知らないと言ったその罪と、その罪を思い激しく泣いたペトロの心を思いつつ、4つ目のローソクを消します。」(消灯4)

■マルコ15章6~15節「死刑の判決を受ける」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「人々は、『十字架につけろ』と叫びました。傲慢にも主の命が私たちの手の中にあるかのように振る舞ったのです。この私たちの罪がイエス様を十字架につけてしまった罪を思いながら、5つ目のローソクを消します。」
(消灯5)

■マルコ15章16~20節「兵士から侮辱される」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「イエス様を侮辱し、頭を叩き、唾を吐きかけた兵士たちと、それに耐えられるイエス様の心を思いながら、6つ目のローソクを消します。」
(消灯6)

■マルコ15章21~32節「十字架につけられる」
 賛美“キリエ・エレイソン”
 「兵士たちは、イエス様の服を分け合い、罪状書きを用意して、イエス様をののしりました。そればかりではありません。通りかかった人たちも、イエス様を侮辱し、ののしります。一緒に十字架につけられた強盗にまでののしられます。今や、孤独の中で、死に向かわれるイエス様を思いつつ、7つ目のローソクを消します。」
(消灯7)

■マルコ15章33~39節「イエスの死」
  讃美歌136番
 「『なぜ私をお見捨てになったのですか』と叫ばれ、十字架上で死なれたイエス様。このみ苦しみは何のためだったのでしょうか。私たちを愛する故です。十字架に進み、私たちに救いを下さったイエス様の愛を受け取り、心に留めつつ、受難週を迎えましょう。」
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『主の救いをみなさい』

2015-07-26 07:49:29 | Weblog
『主の救いをみなさい』

出エジプト記14章5~31節

 エジプトを脱出したイスラエルの人々に訪れた最初の試練は、エジプトの軍隊が大勢で追いかけてきたということです。イスラエルの人々が逃げようとする目の前には、葦の海が広がっていたために、逃げ場がない危機的な状況に追い込まれたのです。それでイスラエルの人々は不平不満を言い出します。「われわれをここに連れて来たのは、荒れ野で死なせるために連れて来たのか。エジプト人に奴隷として仕えた方がましだった」などと言い出したのです。そんな彼らにモーセは、「恐れてはならない」と語ります。私たちの心の中に恐れが生じると、消極的になり、また物事の判断を正しくできなくさせてしまう面があります。

 続けて、「落ち着いて」と語ります。静まること、冷静になることを求めたのです。イザヤ書30章15節で、「お前たちは立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と書かれてあります。心が動揺している時に、私たちは静まって神様に信頼することが教えられています。そのことを通して、見えてくるものがあるのです。モーセはイスラエルの人々に、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」と言うのです。エジプト軍が、騎馬や戦車などに乗ってすごい勢いで迫ってくる。イスラエルの人々は、女性も、老人も、子どももいる。戦えばとても勝てない、まったく無力でした。

 私たちは、ついつい目に見える物で判断する。目に見える物に頼ろうとする。しかし、神は人の思いを越えて働かれるのです。今まで見えていなかったが、そこに救いの道を開かれたのです。この危機的な状況の中で、モーセが杖を持って海に向かって手を差し伸べると、海が二つに分かれて、イスラエルの人々は、そこに現れた道を通って、危機を乗り越えることができたのです。「主は、人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。」(詩編37編23節)

(以上、2015年7月26日の礼拝説教の要旨です)
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『雲の柱、火の柱で導く』

2015-07-19 06:54:38 | Weblog
『雲の柱、火の柱で導く』

出エジプト記13章17~22節

 エジプトを脱出したイスラエルの人々は、神様によって遠回りをさせられます。地中海沿岸沿いのペリシテ街道を通っていけば、楽に早く神様が約束された土地カナンに着くことができたはずです。何十万人のイスラエルの人々を連れての大移動でしたから、それが妥当に思われます。しかし、そのペリシテ街道を通っていけば、様々な敵と戦うことが分っていたからこそ、敢えて遠回りの道を示されたのです。敵に遭遇した時に、イスラエルの人々が神に従うよりも、もとのエジプトに帰りたいという思いを持つことを危惧したのです。私たちも、自分が願った通りになりたいと誰しも思います。しかし、それが適わない場合もあります。その時に、回り道を通して必要なことを身に付けていく、学んでいき、それが次のステップへと導かれていくのです。

 そして、神は、イスラエルの人々を、葦の海へと、荒れ野へと導かれたのです。その荒れ野を行くことで、食料不足、水不足といった、試練、困難、危機に直面させられます。そこにおいて、神様との信頼関係が築かれていく、鍛錬されていったのです。40年という年月がかかってしまいますが、そこには十分な意味があったというのです。その荒れ野の旅において、神に従っていくのか、元の生活に戻ろうとするのかが問われた旅だったのです。那珂川教会も伝道開始して27年になりますが、その一年一年も神様に導かれて、養われた年月だったと思います。

 そして、神様は、イスラエルの人々を導くための目に見える印しを与えられます。それが、昼は雲の柱によって導き、夜は火の柱によって導かれた。つまり、神は、昼も夜もイスラエルの民と共に導かれたということなのです。詩編121編4節で、「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」。その神に、私たちは目を向けていくことが、その神に従って行くのが、信仰の旅路なのです。私たちも何に従って行くのかが問われる。今も御言葉は語りかけます。

(以上、2015年7月19日の礼拝説教の要旨です)
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『主の過越(すぎこし)』

2015-07-12 23:00:50 | Weblog
『主の過越(すぎこし)』

出エジプト記13章29~42節

 イスラエルの民が、エジプトから出て行くことを反対したファラオ(エジプトの王様)に対して、神様は十の災いをもって、神の出来事であることを示されます。十の災いとは、ナイル川が血に染まる、蛙、ぶよ、あず、疫病、腫物、雹、イナゴ、暗闇、そして主の過越によって長子の命が奪い取られていく災いです。

 十番目の災いである主の過越しの前に、モーセはイスラエルの長老たちを集めて、神様から教えられたことを伝えます。家ごとに集まって、小羊をほふり、その血を家の入口の二つの柱と鴨居に塗ること。そして、小羊の肉を火で焼いて食べること。酵母を入れないパンと、苦菜を食べることです。それは、主の過越しの時に、小羊の血が塗られた柱の家を通り過ごされるというのです。酵母を入れないパンには、急いで脱出しなくてはいけなかったことを覚えるためです。苦菜も、イスラエルの人々がエジプト脱出して荒れ野を40年間旅した時のことを意味していたのです。これらのことを通して、イスラエルの人々は、神様によって救い出されたことを覚えるために、過越しの祭りを毎年祝うようになったのです。

 エジプト人たちにとって主の過越しは何が起きたかと言えば、ファラオの最初に生まれた男の子も命を奪われたし、牢屋に繋がれた身分の低い者の最初に生まれた男の子の命も奪われたのです。そのために、エジプト中で、嘆き悲しむ大きな叫びが上がったのです。神様からの災いが、全ての人々に及んだのです。そのために、ファラオは、モーセとアロンを呼び出し、エジプトからイスラエルの人々が出て行くことを許可したのです。

 この主の過越しの出来事を通して考えさせられるのは、エジプトの王様の頑固さです。何度も災いが起きても、神を認めようとせず、神の言葉に従おうとできない、人間の姿が表れています。そして、神を認めず、傲慢になるが故に、人々に災いが降りかかり犠牲となっていきます。しかし、私たちは、十字架のイエスを仰ぎ見る。

(以上、2015年7月12日の礼拝説教の要旨です)
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『主からの鍛錬』

2015-07-05 07:08:04 | Weblog
『主からの鍛錬』

出エジプト記5章1~9節

 モーセは、神様からの命令を渋ります。それに対して神様は、様々な印を示されます(杖を投げると蛇になり、手を懐に入れると重い皮膚病になり、ナイル川の水を血に変えたり)。それでも、モーセは、私は弁が立つ方ではないと言ったために、「神が語るべきことを教えよう」と言われます。そして、モーセの兄であるアロンを代弁者として立てることも認めます。この一連のやり取りは、一対一で神様が関わり、応答して下さる方であることを教えておします。そして、そこに神様を見出すのか、それとも見ようとしないのかかが問われています。

 モーセとアロンは、エジプトの王様の元へ行き、イスラエルの人々を、荒れ野に行かせて神様に犠牲の供え物をささげさせて下さいと交渉します。しかし、ファラオ(エジプト王)は、部下に命じて、イスラエルの人々の労働がもっと厳しいものとなるようにします。ファラオは、神を認めようとはしなかったのです。イスラエルの人々は、今まで以上にきつくなったために、モーセとアロンに文句を言います。

 多くの人は、神を信じることで、物事がうまく行くようになることを期待します。しかし、実際にはそうではなく、逆に悪くなることさえあります。エジプトにいたイスラエル人たちも、どう受け止めたら良いのか分らなかったと思います。物事というのは、観方によって全く違って見えてくるものであります。50年以上のハンセン氏病の患者さんたちに関わった河野進牧師は、その関わりを通して視点の転換に至ります(「ぞうきん」、「病まなければ」等)。

 ヘブライ人への手紙12章には、主の鍛錬ということが書かれてあります。神様が、私たちを子として取り扱って下さり、育てるために鍛錬されることがあることを教えています。苦難や試練にぶつかる時に、それも神様からのチャレンジとして受け止め、苦難を忍耐し、その中で練達をし、そして希望に繋がることを使徒パウロは教えています(ローマ5章3節以下)。

(以上、2015年7月5日の礼拝説教の要旨です)
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『わたしはある』

2015-06-28 07:10:08 | Weblog
『わたしはある』

出エジプト記3章1~15節

 エジプトで殺人の罪を犯して、アラビア半島の西側にあるミディアン地方に逃亡してきたモーセは、そこでエトロの娘と結婚をし、子どもが与えられます。そこで隠遁して羊飼いとして暮らしていました。しかし、神様はあえて、そのモーセをユダヤ人たちを救い出すリーダーとして選ばれます。

 出エジプト記を読んでいくと、「神に従う」ということが大きなテーマとしてあります。ある日、モーセは羊の群れを追っていくうちに、荒れ野の奥の方へとやってきます。そこで、燃えている柴を見るのですが、それが燃え尽きない不思議な光景を見ます。その時に、神様が、名前を呼んでモーセに語りかけられたのです。それは、親しい関係で語りかけられたということであり、その神の語りかけに耳を傾け、応答していくことが、神様と私たちの良い関係です。

 神様は、モーセに履物を脱ぐことを求められます。それは僕の身分であることを教えているようです。つまり、神に従う者であることを、そのことを通して教えられたように思います。そして、エジプトで苦しむユダヤ人たちの叫びを聞いた故に、モーセをエジプトの王様のもとに遣わし、ユダヤ人たちをエジプトから導き出すことを命じられたのです。

 この神様の言葉にモーセは戸惑い、「私は、何者なのでしょう」と反論します。犯罪者であり、逃亡者である自分がそのような働きを担うとは、大きな戸惑いであり、不安と恐れが彼の中に生じたのです。しかし、神様は、モーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである」と言われます。

 戸惑いの中にあるモーセは神様の名前を尋ねます。これに対して、「わたしはある」と神様は答えられます(以前の訳では、「有って有る者」でした)。神様の名前であるヤハウェは、ハーヤー(ある、なる)というヘブライ語の使役形だと言われています。つまり「存在される」方が神様なのだというのです(ローマ11章36節)。

(以上、2015年6月28日の礼拝説教の要旨です。)
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『罪を犯したモーセ』

2015-06-21 07:11:50 | Weblog
『罪を犯したモーセ』

出エジプト記2章11~25節

 強い者の横暴によって、弱い立場の者は、困窮して弱ってしまうという構造が出来上がってしまうことへの危惧を覚えます。まさに、日本本土と沖縄(琉球)の関係においてそれがあることを、今回の3バプテスト合同牧師研修会に参加して感じます。この聖書の箇所では、ユダヤ人でありながらも、川に流されているところをエジプトの王女によって救い出されたモーセが大人になってからの話です。エジプトに移住していたユダヤ人たちは、エジプトの王様によって重労働をかせられて弱っていました。しかし、モーセの場合には、エジプト王女のもとで育ったので立派な体格をしていました。

 しかし、ある日、エジプト人が、ヘブライ人(ユダヤ人)を暴行しているのを見て、怒りを覚えたのでしょう、誰も見ていないのを確かめて、そのエジプト人を殺して埋めてしまいます。次の日に、今後はユダヤ人同士が喧嘩をしているのを仲裁しようとしたら、前の日にエジプト人を殺害したことを指摘されて、あわててエジプトから逃亡して、ミディアン地方(アラビア半島の西側)へと逃げて行きます。モーセは、強い立場の側にいたから、力でもって問題を解決しようとしたのです。しかし、力による問題解決は、新たな問題を引き起こすだけだったのです。積極的平和主義も、まさにこの問題を含んでいます。
 今回参加した研修会で、沖縄の饒平名長秀牧師の講演の中で言われた、「平和」について考えさせられました。私たちは、平和というと、戦争や争いがない状態のことと考えます。しかし、饒平名先生は、「寡婦や孤児などの弱い立場の人たちが、その権利を奪い取られているならば、それは平和ではない」と言われたのです。日本は戦後70年と言っているが、沖縄(琉球)は、いまだに戦争状態にあると訴えられたのです。私たちは、この言葉をしっかりと受け止めなくてはいけないと思いました。神様もまた、人々の叫び嘆く声を受け止められる方です(出エジプト2章23節以下)

(以上、2015年6月21日の礼拝説教の要旨です)
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『救い出された者』

2015-06-14 07:14:18 | Weblog
『救い出された者』

出エジプト記1章22~2章10節

 この聖書箇所は、紀元前1200年頃のエジプトの王ラメセスの時代の話と言われたりします。人を、人として見るのではなく、「モノ」として見るようになると、ここに書かれてあるような悲劇がなされるのでしょう。エジプトの王(ファラオ)は、自分の心の中に生じた不安や恐れを取り除くために、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川へほうりこめ」と命令をしています。

 赤ちゃんというのは、全く無力な存在です。自分自身では、何もできません。周りにいる人々から様々なお世話をしてもらわなければ、生きていけない存在です。そして、自分では何もできないけれども、かわいい存在です。それにも関わらず、エジプトの王様は、生まれたばかりの赤ちゃんを殺してしまえと命じたのです。自分の地位を権力を守りたいと思ったからです。王様の中にあるエゴが罪を生じさせたのです。

 私たちの心の中というのは、このような恐ろしい部分を持っています。日頃は親しく接していたとしても、ひとたび問題が生じたら大きなトラブルになります。それを人間の歴史は繰り返しています。しかし、赤ちゃんの親にしたら、かけがえのない大切な存在です。尊い祈りです。だから、この箇所では、生まれた子を3か月間も隠していたのでしょう。しかし、もう隠せないと思って、カゴに入れてナイル川に流したのです。まさに、神様にお任せする心境でそれを流したのでしょう。私たちもまた、自分の力ではどうしようもない時に、神様にお任せる、そのような心境になります。

 その川に流された赤ちゃんを、エジプト王の娘が見つけて、連れてくるように侍女に命じます。王女は、その泣いている赤ちゃんを見て不憫に思います。そこから救いの出来事が始まったのです。王女が自分の立場を意識したならば助けなかったでしょう。しかし、自分の立場ではなく、その赤ちゃんの身になって考えたところに救いの出来事が生じたのです(善きサマリア人の譬え話もそこにテーマがあります)。

(以上、2015年6月14日の礼拝説教の要旨です)
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