懇親会の後の二次会のカラオケ。
時間的には、
まぁなんとかなるんだけれど、
カラオケは、ちょっと……と、思った。
お誘いくださったお気持ちを、
嬉しく思いながら、お断りした。
こういう時、自分はオカタイのかな、と少し迷うが、
でも、やっぱり。
(まぁのどの調子も、時々せきが出て、よくなかったんだけど)
★
帰りも、京阪電車の丸太町の駅から帰った。
余韻が残っていたのか、微熱のボーっとした感じなのか(笑)、
まっすぐ帰りたくない気分だったので、
丸太町駅で合流した、
智さん、川原ゆうさん、満月さん、美雨さん、
そして、
普段はAQ歌会に出ているというかおるさんが、
途中下車するというので、ついていった。
三条の小川珈琲で。
かおるさんが、はがきサイズの紙に描いた、
イラスト入り五行歌を見せてくれた。
歌も、イラストも、素敵だった。
その後、いろいろ話が飛んで、
ドラマの話や、五行歌の人間模様(?)などなどの、
お話をしたりして過ごした。
お話をしながら、気づいたことがある、
あぁ、私は、優先順位に対して、
厳密かつ厳格、いや頑固なのかもしれない。
っていうか、
優先順位の一番最初が、
「うんちく」や「カラオケ」や「人間関係」や「世の中」や「TV」
っていうのが、ダメなのだ。
「五行歌」でないと。
★
一番最初が、五行歌の歌(「五行歌の会」じゃなくてね)の
何らかの話であるならば、
そこからどんどん離れて、
「うんちく」でも「人間関係」でも「世の中」でも「TV」でも、
どんどん変わっていっても、平気なのだ。
(でも、「カラオケ」はダメかも……)
つまり、一番最初の話以外は、どんな順番でもいいんだけど、
一番最初に「歌ありき」でなければ、ダメなようだ。
ちょうど、そう思って、
そういうことに関する苦手意識を話していると、
川原ゆうさんが、
「稲田さんは、五行歌を知り始めの人に対しても、対等を求める」
とおっしゃった。
わかったような気もするし、わからないという気もした。
「対等」という言葉をどうとらえるか、というところで。
その後、説明をもらって、納得し、
いい機会をもらったと思って、じっくり考えてみた。
★
自分なりに、「対等」という言葉を咀嚼したら、
「同じ前提を求める」と言ったほうが、
自分の中ではしっくりくるかな、という気がした。
「同じ前提を求める」というのは、
簡単に言うと、
初めての人だろうが、なんだろうが、
自作が、「自己表現である」という前提だ。
普段の生活の中の、「もの思い」であるということだ。
別にそれは、なんでもないものでも、美しいものであってもいい。
上手く伝わってきても、上手く伝わらなくてもいい。
まず、歌われた作者の内側からのものだという前提。
作者の外側にあるものを、外側のために歌っているものではない、
ということだ。
(※具体的に書くと、誤解を与えそうなので、あえて書かないけれど、
テキトーに想像してください・笑)
五行歌に関係する場でお会いする人との会話には、
最初にそれを求める自分がいる。
世代が違うだろうが、住んでる場所が違うだろうが、
長く書いている人であろうが、なかろうが、
五行歌つながりで同じ場にいる人には、すべて。
★
小川珈琲での会話も、
かおるさんが五行歌の自分の作品を見せる、ってところからではなく、
「ドラマ」から会話が弾んでいたら、
苦手意識が最後まで先行して、
最後まで不器用に笑っていただけになっていただろう。
そういえば、今回、
草壁センセとじっくりと話をするには、
自分にエネルギーがなかったので、
避けていたのだけれど(笑)、
「でも『今年もよろしくお願いします』ぐらい言わないと、
オトナじゃないよ」
と、自分に鞭打って、
なんとか、同じエレベーターにのる機会を得た時、
ご挨拶の後、
唯一話せたことが、
「今回の先生の歌、点数入れれなかったです。
4行目~5行目にかけて、キランと光る感じはしたけれど」
だった。ちょっと(先生の歌に対して)残念な気持ちを込めて。
「アメリカ、どうでした?」とかって話を、
聞くべきなのかな。こういう場合。
その場で思い浮かぶのは、その方が歌う歌ばっかりで。
★
ふと「よくこんなんで、歌会の代表やってるよなぁ」と、
自分を冷ややかに思った。
だけど、よく考えてみたら、
自分が歌会を立ち上げた動機って、
「『歌』が人とつながるための『お口汚し』じゃなく、
『歌』から派生して、いろんな年齢や人生経験を越えて、
同じ目線で、会話ができる感じにしたい」
じゃ、なかったっけ?と思い直す。
歌の上手い下手ではなく、
歌がどのくらい作者の思いを反映させているか、
歌会の中の読み手として、
作者よりも、どのくらい思いを深くして、
汲み取っていけるのか。
そういうところを、楽しみ合う歌会にしたかったんじゃなかったっけ?と。
と、いうことは、
この苦手意識や、
自分の中の厳密さというか、頑固さは、
そんなには矛盾しない。
貫いている証拠なんだ、と気づく。
ただ、相手にそれを求めたとき、
得られなかった場合の「がっくり感」との付き合いが、
ヘタクソなんだな、という気がしてきた。
相手が五行歌に求めているものは、様々で当然なのに、
その前提だけは、どうしても譲れずに、
割り切れずに。
ロコツに態度にでる。
ロコツに態度に出る自分がイヤで、回避したいと思うのだろう。
その見分けるリトマス試験紙が、
会話の最初が「歌ありき」かどうか、ということなのだろう。
貫くことは、入り混じることを拒絶することではないのに。
入り混じって、吸い上げて、太くならなければ。
★
自分んちに帰るころには、
無性に旅にでたくなってきた。
歌会行脚が、したいしたいしたい!!
新年合同歌会から帰って、早速夫に、
「行きなれているし、AQ歌会に行きたいんですが」
と、切り出した。
「どこ?それ」
「新横浜……じゃなくて川崎」
夫から、どんな交換条件が提示されるのか。
それだけが心配ですが(笑)、
2月に行くと思います。
そんな訳で、よろしくです。
時間的には、
まぁなんとかなるんだけれど、
カラオケは、ちょっと……と、思った。
お誘いくださったお気持ちを、
嬉しく思いながら、お断りした。
こういう時、自分はオカタイのかな、と少し迷うが、
でも、やっぱり。
(まぁのどの調子も、時々せきが出て、よくなかったんだけど)
★
帰りも、京阪電車の丸太町の駅から帰った。
余韻が残っていたのか、微熱のボーっとした感じなのか(笑)、
まっすぐ帰りたくない気分だったので、
丸太町駅で合流した、
智さん、川原ゆうさん、満月さん、美雨さん、
そして、
普段はAQ歌会に出ているというかおるさんが、
途中下車するというので、ついていった。
三条の小川珈琲で。
かおるさんが、はがきサイズの紙に描いた、
イラスト入り五行歌を見せてくれた。
歌も、イラストも、素敵だった。
その後、いろいろ話が飛んで、
ドラマの話や、五行歌の人間模様(?)などなどの、
お話をしたりして過ごした。
お話をしながら、気づいたことがある、
あぁ、私は、優先順位に対して、
厳密かつ厳格、いや頑固なのかもしれない。
っていうか、
優先順位の一番最初が、
「うんちく」や「カラオケ」や「人間関係」や「世の中」や「TV」
っていうのが、ダメなのだ。
「五行歌」でないと。
★
一番最初が、五行歌の歌(「五行歌の会」じゃなくてね)の
何らかの話であるならば、
そこからどんどん離れて、
「うんちく」でも「人間関係」でも「世の中」でも「TV」でも、
どんどん変わっていっても、平気なのだ。
(でも、「カラオケ」はダメかも……)
つまり、一番最初の話以外は、どんな順番でもいいんだけど、
一番最初に「歌ありき」でなければ、ダメなようだ。
ちょうど、そう思って、
そういうことに関する苦手意識を話していると、
川原ゆうさんが、
「稲田さんは、五行歌を知り始めの人に対しても、対等を求める」
とおっしゃった。
わかったような気もするし、わからないという気もした。
「対等」という言葉をどうとらえるか、というところで。
その後、説明をもらって、納得し、
いい機会をもらったと思って、じっくり考えてみた。
★
自分なりに、「対等」という言葉を咀嚼したら、
「同じ前提を求める」と言ったほうが、
自分の中ではしっくりくるかな、という気がした。
「同じ前提を求める」というのは、
簡単に言うと、
初めての人だろうが、なんだろうが、
自作が、「自己表現である」という前提だ。
普段の生活の中の、「もの思い」であるということだ。
別にそれは、なんでもないものでも、美しいものであってもいい。
上手く伝わってきても、上手く伝わらなくてもいい。
まず、歌われた作者の内側からのものだという前提。
作者の外側にあるものを、外側のために歌っているものではない、
ということだ。
(※具体的に書くと、誤解を与えそうなので、あえて書かないけれど、
テキトーに想像してください・笑)
五行歌に関係する場でお会いする人との会話には、
最初にそれを求める自分がいる。
世代が違うだろうが、住んでる場所が違うだろうが、
長く書いている人であろうが、なかろうが、
五行歌つながりで同じ場にいる人には、すべて。
★
小川珈琲での会話も、
かおるさんが五行歌の自分の作品を見せる、ってところからではなく、
「ドラマ」から会話が弾んでいたら、
苦手意識が最後まで先行して、
最後まで不器用に笑っていただけになっていただろう。
そういえば、今回、
草壁センセとじっくりと話をするには、
自分にエネルギーがなかったので、
避けていたのだけれど(笑)、
「でも『今年もよろしくお願いします』ぐらい言わないと、
オトナじゃないよ」
と、自分に鞭打って、
なんとか、同じエレベーターにのる機会を得た時、
ご挨拶の後、
唯一話せたことが、
「今回の先生の歌、点数入れれなかったです。
4行目~5行目にかけて、キランと光る感じはしたけれど」
だった。ちょっと(先生の歌に対して)残念な気持ちを込めて。
「アメリカ、どうでした?」とかって話を、
聞くべきなのかな。こういう場合。
その場で思い浮かぶのは、その方が歌う歌ばっかりで。
★
ふと「よくこんなんで、歌会の代表やってるよなぁ」と、
自分を冷ややかに思った。
だけど、よく考えてみたら、
自分が歌会を立ち上げた動機って、
「『歌』が人とつながるための『お口汚し』じゃなく、
『歌』から派生して、いろんな年齢や人生経験を越えて、
同じ目線で、会話ができる感じにしたい」
じゃ、なかったっけ?と思い直す。
歌の上手い下手ではなく、
歌がどのくらい作者の思いを反映させているか、
歌会の中の読み手として、
作者よりも、どのくらい思いを深くして、
汲み取っていけるのか。
そういうところを、楽しみ合う歌会にしたかったんじゃなかったっけ?と。
と、いうことは、
この苦手意識や、
自分の中の厳密さというか、頑固さは、
そんなには矛盾しない。
貫いている証拠なんだ、と気づく。
ただ、相手にそれを求めたとき、
得られなかった場合の「がっくり感」との付き合いが、
ヘタクソなんだな、という気がしてきた。
相手が五行歌に求めているものは、様々で当然なのに、
その前提だけは、どうしても譲れずに、
割り切れずに。
ロコツに態度にでる。
ロコツに態度に出る自分がイヤで、回避したいと思うのだろう。
その見分けるリトマス試験紙が、
会話の最初が「歌ありき」かどうか、ということなのだろう。
貫くことは、入り混じることを拒絶することではないのに。
入り混じって、吸い上げて、太くならなければ。
★
自分んちに帰るころには、
無性に旅にでたくなってきた。
歌会行脚が、したいしたいしたい!!
新年合同歌会から帰って、早速夫に、
「行きなれているし、AQ歌会に行きたいんですが」
と、切り出した。
「どこ?それ」
「新横浜……じゃなくて川崎」
夫から、どんな交換条件が提示されるのか。
それだけが心配ですが(笑)、
2月に行くと思います。
そんな訳で、よろしくです。
お待ちしております♪
年賀状でちらっと書くときは、
「ホントに行きたいと思っている?」
と、自問自答するくらいなのですが、
ここ3年、新年合同歌会が終わると、
無性に、無性に、旅ゴコロに火がついて
AQへ行って、かつ、全国歌会へ行く。
この条件で勧めるので、じっくり交渉しなければ、
と、思っています。
また、時期が来たら、個人メールで、
いろいろお聞きするかと思いますので、
よろしくお願いいたします