日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

心臓程度

2009年11月07日 | 五行歌な日々
夫がよく行く理髪店は、
ある大きなスーパーの中にある。

それをいいことに、
「買い物に付き合うから、一緒に行って!
そして、散髪代を、出して!」
と、よく懇願される。

「お小遣いからだしぃや!!」
と、よくケンカをするのだが、
結局私が折れてしまう。

今日も、また。

夫が髪を切っている間、
私はいつも、スタバで時間を潰す。

日記を書いたり、
仕事の報告書を書いたりするのだが、
今日は、『五行歌』11月号を持ってきた。

最近は、こんな強制的な状況でも作らないと、
歌誌を読まなくなった。

どうしても、
関心がそっちへ行かない。

それが自然だから、無理をするわけにもいかず。

引越を機に、
13年間、書き綴ったノートも、
一旦持ってきたのに、結局全部捨てた。

歌になっていないけど、
歌になりかけている『種』として、
ずっと持っていたのだけれど、

「これらはもう、実らない」

という見極めができてしまい、
数十冊に及ぶそれらのノートを、
一冊一冊、抱きしめてから、
粗雑に、半透明のゴミ袋に入れた。

もちろん、
「作品」という意識で投稿した歌は、
エクセルの中に入れて、管理しているけど。

今、何かを感じている自分だけが、
次の自分を生み出していく。

「稲田準子」と名乗る自分を意識するとき、
まだ、この世に生まれていない、
心臓しかないような心地しか持てない。

かろうじて、蠢いている程度の。

     ★

少しばかり髪をチンチクリンにさせて、
夫が私のところにやってきた。

「もう少し、読ませて。せめて、あと、佳作だけでも」

そう言って、コーヒー代を彼に渡した。

夫は、五行歌よりも、詩の形式の方が好きだ。
が、私の五行歌に対する姿勢も、一定の理解は示す。
彼は我慢づよく、私が佳作を読み終えるのを待った。

私は巻頭と佳作だけ読み終えて、
冷めかけたコーヒーの残りを啜りだした。

読んでもいいよ、と、歌誌を渡す。

と、言っても、彼には根本的に五行歌に興味がなく、
また、私が「この歌いいな」と思ったものに、
ケチられたくもないので、
私が話をして、彼がうっすらと知っている人の歌が、
ここに載っているよ、とか、
ある程度誘導して読ませたのだが。

「あんたは、歌投稿してるんか?」

と、聞いてきたので、

「巻頭に、一首載ってた。後ろの方のページにあるわ」

と、答えた。

と、同時に、
残りの四首が、何処に載っているのか、
確かめもしていないことに気づいた。薄い。

が、詠った歌の中で、
掴んだ感覚があったのもこの一首だけだったので、
やっぱり読み手にも(具体的には、この場合、草壁センセだが)、
そういうものは、伝わるんだな、と、改めて思ったりして。

       「気が利く」と
       「気を使う」の
       決定的な
       心根の
       差よ


夫は、しばらく、その歌をじっと見て、
少し苦々しく首を横に振って、
何の感想も言わず、「行こうか」と、席を立った。

ある程度、予想は付く行動だったけど、
毎回の如く、気になる。その態度。

毎回の如く、食い下がる。

エスカレーターに乗りながら、
「なんで首かしげたん?」
と、聞いてみると、
しばらく沈黙をした後、

「『よ』が、あかん」と言った。

歌会では、まずこうもバッサリ言われないし、
こうもバッサリ言われて、へこんだり怒ったりしないのは、
彼が夫だからだろう。

とはいえ、説明を求めたくなる好奇心。

帰りの車の中で、
「どうして『よ』があかんの?」
と、蒸し返す。

多少、逃げたい気持ちを含めながら彼は、

「折角な、『気が利く』と『気を使う』という対象物を見つけたのにな、
なんでそこを突き詰めて、しっかり書けへんの?
なんか、『よ』っていうことで、誤魔化している感じがする」

と、彼にしては、
それでも、いつになく、誠実に答えた気がした。

むむむ……『心根の差』という答えでは、
彼は納得しないということか。

「『気が利く』と『気を使う』っていうのは、
真逆ではないよね。『似て非なるもの』というか……。
表面上は同じ行動でも、根っこが違うっていうか……。

でもね、その行為を受けた人にとって、
そういう根っこの部分って、どうでもいいよね。

例えば、介護だとかさ。
『あんたにとって、それが偽善でも何でもいいのさ。
はやくあたしに、寝返り打たせて!!』みたいなさ。

根っこの部分なんて、どうでもいいって思われるのが当然っていう考え方を、
基本的には認識しているほうがいいと思うのね。

でもね。
それでも、他人にとってはそうでも、
自分の内側の見極めって、大切なんじゃないかと思う。

そうじゃないと、
いつも出来ていたことが急に出来なくなったり、
前に進むことが出来なくなってくるんじゃないかな。

『気が利く』っていうのは、
……まぁ意識してするもんじゃないかもしれないけど、
『気を使う』っていう動機ならば、
かつ、
持続的にその行為をしなければならないのなら、尚更。

認識すればさ、無理矢理にでも、ガス抜きをしようとするさ。
だって、命に関わるもの。

世の中の人は、大げさだって笑うかもしれないけど、
何も自分まで、同じように、
自分のことをそんな風に嘲る必要ないじゃない?

多少、人に迷惑をかけても、多少不細工なやり方でもさ、
ガス抜きが必要だと思ったら、真剣にガス抜きしなくっちゃ。

それは、辿っていくと、親の躾というルーツまで、
見え隠れしてくるけど、
まぁそれは、ある程度の年齢になったら、
言ってはいけないことのような気がするし。
なんていうんだろう……責任転嫁の匂いがしてくるって言うかさ。

疲れたら、
決定的な心根の差を思い知って、感嘆して、
大きく深く、息を吐くってこと以外は、
何も自分に求めなくていいんじゃないかな。

己を知るって、そういうことなんだよ、きっと。
だから『よ』止まりなんだよ。

その『似て非なるもの』の
細かい差異を具体化して、人に伝えたいとは、思えなかったよ。

それに、Yさんの言っていることをちゃんと書いたら、
それ、五行には収まらないと思うけど。

ま、五行に収まらなければ詩にしちゃえばいい話だけど(できないけど)」

……なんか、ものすごく、
どっかが、なんか、ひっかかったが、
手を伸ばしても、その糸口はもう掴めなかった。

夫は、完全に、めんどくさくなっていた。
「これだから、感想を言いたくないんだよ」とでもいうような。

「……まぁいいんじゃないの?」と夫は言った。

「どうせ、あんたの歌は、下ネタに落ち着くんだから」
ケケケケケと、そう言って、夫は誤魔化した。

一瞬、意味がわからなかったが、
「大仏の男根を触ってうふふ」の歌だとか、
「私のことを蹴り上げた夫の背を流すって、
一緒に風呂入ったの、何バラしてるねん!」という歌だとか、
そこらへんの頃の歌であることを教えてもらった。

その後も、いくつか夫には、歌を読ませたことがあるけれど、
結局、そこらへんの歌が彼の中には残ったということか。

捨てても捨てても、生き延びる歌は、生き延びる。
「下ネタ」と言い捨てられても、これはこれで、嬉しいことだ。

だが、多分、もう。

心臓しかない私は、
唯一出来る深呼吸を、深々として、
車から流れる景色をただただ浴びて、
無口になった。

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