聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ザアカイの孤独な心

2007-05-16 | 「人生と孤独」
  
       
 あなたは、友人とおしゃべりしている時も、街の雑踏の中を歩いてにいる時も、仕事や勉強に追われている時も、ひとり自分の部屋にいる時も、何かしらふっと、「自分はひとりばっちだ‥‥」「たまらなく寂しい‥‥」「人は何のために生きているのだろう‥‥」という思いに満たされ、孤独感に陥ってしまうようなことがありませんか。そんなことは、どなたも経験することだと思います。家事や育児に追われている家庭の主婦の方も、未来に希望を持てないお年よりの方も、勉強で疲れている子どもたちも、職場でコツコツと働いている働き盛りの男性も、ビルの窓外の春の青空(いや、スモッグの灰色の空かも‥)を仰ぎながら、そんな思いに浸ることがおありではありませんか?  

●「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。‥‥‥」(ルカの福音書19:1~)。

 ルカの福音書19章1~10節には、このような書き出しで始まる非常に興味深く、心に残る出来事が記されています。私は、聖書の中にいろいろな人物を見い出すのですが、非の打ち所のない立派な人物(たとえば、ヨセフとか、ダニエル)もすばらしいのは当然ですが、罪深い人や欠点弱点の多い人物に、何かしらとても親しみを覚え、言葉では表せない安心感のようなものを感じることがあります。ここに記されている「ザアカイ」という人物もその中の一人なのです。それから、イエス様の弟子のペテロもそうです。それが何故なのかは分かりませんが、自分自身がそのような欠点が多く、罪深い人間だからではないかと思っています。そして、そのような欠点や弱点の多く罪深い一人の人間がイエス様に出会って変えられて行く過程にとても興味があり、また神の大きな愛と慈しみに深い感動を覚えるのです。
 
 さて、かつて、ユダヤのエリコの街にザアカイという大変孤独な人が住んでいました。ザアカイの職業は取税人のかしらでしたが、彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザア~カイ!」といじめを受けながら成長して大人になったのではないかと思います。「ザアカイ」という名前の意味は、「正しい」とか「聖よい」という意味があります。ザアカイが誕生した時に、その家の跡継ぎができたことで両親は大変喜んだことでしょう。そして、心の正しい人間になってもらいたいとの親の願いを込めて、日本語流に分かりやすく言えば、「ただし」または「きよし」と命名されました。さて、当時ユダヤの国は、ローマの属国であり、ローマの支配下にあったのですが、「取税人」というのはローマ政府から委託されて税金を徴収する仕事で、しかも、その取税人のかしらですから、税務署の署長さんのような立場であったかもしれません。

 ところが、当時の「取税人」というのは、当然集めるべきお金よりも多くをだまし取って、ごまかして、着服していたことが多かったと言われています。ザアカイも、他の取税人と同じようにお金をだまし取っていました。彼はローマ政府から委託され使役されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。ですから、日々良心の呵責を感じて過ごしていました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのですが、彼の心は空虚で、どんなにお金を貯めても、立派な邸宅を建てても、それで心が満たされることはなかったのです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)とソロモンが言っている通りであったのです。

 それから、ザアカイは幼少時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとあるクリスチャンから聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、同胞からは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。

 さて、ザアカイがそのような心が満たされない孤独な日々を送っていた時に、イエス様がエリコの街をお通りになったのです。彼はイエス様がどんな方か見ようとして、家を飛び出し、群集がいる方向に向かって走って行きました。しかし、彼は背が低くて、群集のためにイエス様を見ることができなかったのです。それで、イエス様を見るために、前方に走って行き、いちじく桑の木に登りました。大の大人が、見栄も外聞も捨てて、木に登ってイエス様を見ようとした彼の純朴さに感動します。そして、イエス様は、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。ザアカイは、今まで一度もイエス様にお会いしたことがありませんでしたが、自分のことを知っていて、ザアカイの名前をお呼びになられたことに非常に驚きましたが、木から急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えたのです。

 ここで、「ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとして」(4)と、「イエスは、ちょうどそこに来られて、」(5)に、「ちょうど」という言葉が二回でて来ます。このことから、人生のあらゆる出来事には、”偶然”ということがないことを教えられます。すべての出来事の背後には神の摂理と導きがあるのです。私がクリスチャンになった最初のきっかけは、ほんとうに些細な出来事であったのですが、あとで考えてみると、あれは間違いなく神の導きであったのだと確信することができました。神の導きとか摂理は、あとになって、初めて分かるということが度々あります。そして、この箇所の記事で、イエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは。あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)と、イエス様がおっしゃったのには、深い意味があります。「‥‥泊まることにするから」ではなく、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。これは、すべてをご存じのイエス様は、ザアカイの家に泊まることを最初から計画しておられたことを意味しています。

 そして、イエス様はその晩、ザアカイの家に招かれてお泊りになられ、親しくお交わりになられました。宇宙を創造された偉大な神の御子イエス・キリストが、罪深い一介の取税人の家にお泊りになられたことは何と驚くべきご謙遜ではないでしょうか?そして、ザアカイとねんごろにお交わりになられたイエス様の愛によって、ザアカイの頑固で冷たい心は、太陽の熱に解かされる氷のように砕かれ、自らの罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、その日の夜に回心したのです。神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、神の御子イエス・キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出し、その孤独な人生からも解放されたたすばらしい見本がここにあります。

 彼は、お金もちになって、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも、イエス様は彼の孤独な心の中をすべて知っておられました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストを信じてに神に帰えり、孤独な人生から解放されて下さい。イエス様は、あなたの救い主となってくださるばかりでなく、真の友となってくださる方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。 

●「わたし(キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9:13)。

●「わたし(キリスト)は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14:18)。 

●「見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。


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