聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★キリストの自己紹介

2005-08-23 | 「キリストの偉大なる生涯」
     

   私たちは、いろいろな機会に「自己紹介をしてください。」と言われることがありますが、そのような場合、私たちは自分の名前、住んでいる所、出身地や生い立ち、年齢、職業や仕事の内容、自分の家族のこと、趣味のことなど、その場面や状況に応じて紹介する内容も異なって来ると思います。しかし、私たちはこれらの「自己紹介」の内容をよく吟味してみますと、正しい意味において本当の「自己紹介」とは言えないのではないかということに気づくのです。私たちは、「自分は何者であるか。」というその根源までをさかのぼって語ることが出来るでしょうか。「自分はどこから来て、何のために生きて、どこに向かっているのか。」を明確に語ることができるでしょうか。私たちは、時々自分のことは自分が一番知っていると思いやすい者ですが、事実は何も知らないのに等しいということに気づかされるのです。

 しかし、イエス・キリストの「自己紹介」は、私たちとは全く異なっています。イエス・キリストは、ご自身について確信を持ってはっきりと断言して語ることが出来ました。新約聖書のヨハネの福音書の中で、イエス・キリストはご自身について七回、「わたしは‥‥‥です。」と語られた箇所があります。これは、ヨハネの福音書独特の言い回しであります。イエス・キリストの「自己紹介」がどのようなものであったかについて、この福音書の中に書かれてある七つの箇所を、見てみますと、大変興味深く、彼がどれほど偉大な比類なき御方であるかがお分かりになると思います。そして、この御方を信頼して歩む人生の幸いを知らされるのです。

【1】いのちのパン。
●「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 」(ヨハネの福音書6:35)。

 キリストは、この時「わたしがあなたがたにパンを与えます。」と言われたのではありません。「わたしがいのちのパンです。」と語られたのです。このことばを語られたのは、キリストが成人男子だけで五千人の飢えた群集に、奇蹟によってパンを十分に分け与えられたあとに語られました。このことによって、キリストがいかに偉大な御方であるかが示されました。ここで、イエス・キリストは、肉体的には物質的なパンが必要であるけれども、さらに必要な霊的な「いのちのパン」について語られたのです。このような力あることばを語ることが出来るのはイエス・キリスト以外に決していません。

【2】世の光。
●「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)。

 イエス・キリストは、ご自身について力強く「わたしは、世の光です。」と宣言されました。このようなことばは、決していかなる人間も語ることのできないことばであることは明らかです。私たちは、自分の心の中を正直に見る時に、光に照らされると困るような汚れた醜く暗い心を持った自分を発見するはずです。そのような人間がどうして「わたしは、世の光です。」などと語ることができるでしょうか。また、この世の中のどんな輝かしい光も、一時的なものであり、やがて消えて行く光に過ぎません。真夏の夜に打ち上げられる美しい花火でさえ、私たちにしばしの間、暑さを忘れさせ涼感を誘うものですが、夜空に一瞬に消えて行くものです。キリストこそ、永遠に輝き続けて永遠のいのちに至る不滅の光なのです。このまことの光であるキリストを信じて従う者は、決して闇の中を歩むことなく、いのちの光を持つのです。

【3】門。
●「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネの福音書10:9)。

 ここでも、イエス・キリストは、この福音書独特の言い方で「わたしは門です。」と言われました。パレスチナでは、羊の囲いは石などを積み上げた高い塀で囲った所で、夜になると羊飼いは羊をみなこの囲いに入れ、野獣などから守ります。この囲いには「門」があって、そこには門番が門の戸の開け閉めをします。そして、羊はこの中に入っている限り安全なのです。イエス・キリストは、ご自分を門に譬えて、この「門」以外に、そこから入って救われる道は決してないことをはっきりと宣言されたのであります。私たちは、キリストという門をただ外側から眺めているだけではなく、そこから入って救われなければなりません。そこでは、私たちの魂に安らぎと憩いが与えられ、また豊かな霊の牧草(聖書のみことば)によって養われるのです。

【4】良い牧者。
●「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)。

 今度は、イエス・キリストは「わたしは、良い牧者です。」と言われました。人間の場合は、通常は、「私は良い○○です。」などと言いませんね。たとえば、「私は良い教師です。」とか、「私は良い医者です。」などと言ったのを聞いたことがありません。そんなことを平気で言う人がいたら、余程の変人と見なされることは間違いないでしょう。このようなことばは、イエス・キリストだけにしか言えないことばであります。良い羊飼いは、あらゆる危険と災いから羊を守り、保護します。羊が命を得、それを豊に持つために牧草地へ導き、いこいの水のほとりに案内します。そして、本当の良い羊飼いは羊のために自分の命を捨てるほどに、自分の羊を愛するのです。キリストは、弱く迷いやすい羊である私たちのために十字架で身代わりに命を捨てて、永遠の滅びから私たちを救ってくださいました。

【5】よみがえり。いのち。
●「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25)。

 今までは、「いのちのパン」、「世の光」、「門」、「良い牧者」などと、すべて比喩で語られたのですが、この「わたしは、よみがえりです。いのちです。」はそのものズバリで語られました。イエス・キリストは、間違いなく「よみがえり」であり、「いのち」そのものであります。どのような道徳家も宗教家も、キリストのように「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と語ることは決してできません。イエス・キリストはすべてのいのちの根源なる御方であり、生きとし生けるものすべてのすべて、彼によって造られ、いのちを与えられ、生かされ、そして、今のこの瞬間にも、キリストによって私たちのいのちは支えられているのであります。ここに記されているラザロは、キリストを信じる者が永遠のいのちを与えられる「しるし」として、本当によみがえらされたのです。

【6】道。真理。いのち。
●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」(ヨハネの福音書14:6)。

 イエス・キリストは、ここで、ご自身が「道」であり、「真理」であり、「いのち」であることを語られました。しかし、特に強調されているのは、ご自身が「道」であるということでます。なぜなら、その後に「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできませんん。」と続いているからです。どのような道であっても、道はすべてどこかへ行くためのものです。キリストが言われたこの道はどこに通じている道でしょうか。父のみもと、すなわち神に帰る道、天国に行く道であります。日本人は何事でも、曖昧に玉虫色で物事を解決しようとします。ですから、多くの人々は、救いに至る信仰についても「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」の歌を引き合いに出して、どの道から登っても結局同じ高嶺の月を見るように、真理は一つであってもそこに到達するには、いろいろな道(宗教)があるのだと、いい加減ななことを言うのです。

【7】まことのぶどうの木。
●「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネの福音書15:1)。

 イエス・キリストは、ご自身を紹介する最後の七つ目のことばとして、「わたしはまことのぶどうの木である。」と語られました。この福音書で「まこと」ということばが使われる時は、ひな型に対する本体、未完成に対する完成、あるいは約束に対する成就という意味で使われています。ですから、ここでも「ぶどうの木」という比喩が示している実体(本体)はイエス・キリストご自身であることを示しています。ところで、「ぶどうの木」はぶどうの実を実らせるためにあります。そして、たくさんの熟した実が成ると一番喜ぶのは農夫です。イエス・キリストは、ご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、父なる神様は農夫であると言われたのです。私たち人間を「ぶどうの木の枝」であると言われました。これは、非常に分かりやすい譬えです。枝がぶどうの木につながっていなければ決してぶどうを実らせることはないのです。それと同様に私たち人間は、キリストを信じて救われ、永遠のいのちを受け、キリストにつながっているならば神様のために豊に実を結ぶ幸福な人生を歩むことが出来るのです。



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