聖書から人生を考えよう

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★母性愛と偉大な神の愛

2007-05-09 | 「神の愛について」


 
  江戸時代のことですが、ひとりの子供をめぐり、私が実の母親だと主張する二人の女が奉行所に訴えるのです。これに対して、裁判官は真偽を見極めるために、女たちに、子供の腕を両側から引っ張り、引き勝ったほうが、子供の親とすることにすると言いました。二人の女は、何としてもその子を手離したくないという一心で、両側から必死に腕を引っ張りますが、子供は痛みに耐えかねて、泣き出してしまいました。それを見た片方の女は泣きじゃくる子供の姿に耐え切れずに、とうとう子供の手を放してしまいます。子供を奪い取った女は、自分が勝ったと喜んだのですが、この裁判官は、手を放した女こそ真の母親であると裁定を下したのです。真実の親だからこそ、泣く子を哀れに思い、手を放したのだと、判断したのです。

 江戸町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)の温情篤く、人情味に溢れる裁きはよく知られていますが、上に記したのは、その中の一つの感動的な話です。今でも、公正で人情味のある裁定や判決が下されるときに、使われる、俗に言う「大岡裁き」のひとつで有名な逸話となっているものです。
ところで、旧約聖書の中に、これと非常によく似ている実話が記録されてあります。イスラエルの初代の王ソロモンは、神に知恵を求めて、すばらしい知恵を与えられた王ですが、神様から特別な知恵が与えられていたソロモン王の知恵と思慮に満ちた裁判が記されています。これは、列王記第一の3章に記されている有名な実話であり、読む者に非常に大きな感動と教訓を与える話です。

 よこしまな生活をしていた二人の女性が同じ家に住んでいたのですが、あるとき、王のところに来て互いに訴えました。一人の女が「わが君。‥‥‥私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。‥‥‥ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、私が眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、その子は私が産んだ子ではないのです。」 と言いました。

 ところが、もう一人の女が訴えて言いました。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」と。先の女はまた言いました。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」と。このようにして、二人の女たちは互いに一歩も譲らず、王の前で言い争ったのです。そこで王は、彼女たちが互いにこれは自分の子だと言っている姿を見て、「剣をここに持って来なさい。」と、大変驚くようなことを命じたのです。剣が王の前に持って来られると、王は何と、次のように言い放ったのです。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」 と。これは、一体、何という恐ろしい非情な命令ではありませんか。

 すると、生きている子の本当の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言いました。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言ったのです。そこでソロモン王は宣告を下して言いました。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」 と。イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて驚嘆し、王のうちにある神の知恵を知って神を崇めたのでした。このように非常に難しい裁判を、ソロモン王は、知恵を用いて難なく裁いたのです。

 ソロモンは、母親の「母性愛」がいかなるものかを知っていたので、その母性愛という本能に訴えたのです。ソロモンがその子どもを剣で二つに断ち切るようにという恐ろしい命令を出して、彼女たちがどのような反応を示すかをじっと観察していたのです。そして、すぐに、どちらがその子どもの真実の母親であるかが明らかになったのです。その子どものほんとうの母親は、自分の子どもが苦しみを受け、いのちを断たれるのを見るよりも、自分が一生苦しむとしても赤ん坊を(手放して)失った方がいいと思ったこのです。しかし、もう一人の婦人は、盗んだ赤ん坊がほんとうの母親に返されるよりも、むしろ子どもが死んだ方がいいと思うほど、その婦人に妬みを覚え、また、その赤ん坊を愛していなかったことは明らかです。

 これは、ソロモン王の何と賢明で、明敏な裁きではないでしょうか。ことばだけで分からないことも、問題の核心に触れる危機がおそうとき、真実と虚偽が識別されることも教えられます。いずれにしても、ソロモン王にこのような知恵を与えたのは、愛に満ちた神であり、母親にこのような母性愛を与えたのも神なのです。この箇所を読んで、真の愛とはいかなるものかを覚えさせれます。神の前に虚偽は必ず明らかになる時が来ることも教えられます。このような難しい問題の訴えにも冷静に判断し、それを正しい方法で対処したソロモンの知恵にもすばらしいものがあり、深く考えさせられます。ここを読んで何の感動も覚えない人が果たしているでしょうか。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。

 これは、紀元前750年位に書かれたイザヤ書のことばですが、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。」と、自分のお腹を痛めて産んだわが子に対する母親の愛がいかに大きなものであるかをはっきりと教えています。シェークスピアのことばに「女は弱し、されど母親は強し」ということばがありますが、確かに女性は結婚して子供を産み、母親になると、わが子を守るために非常に強くなるのです。「母の愛は、世界を敵に廻しても、わが子のためなら自分のいのちまで捨てる。」というそのような強さを感じます。わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのですね。

 しかし、この世で最も美しく気高いと思われていた母親の愛でさえも、最近は何かおかしくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、虐待して殴り殺したり、高い橋から川に投げ捨てたり、食べ物を与えずに放置して死なせたり、昔は考えられなかったような悲しい報道が目立っています。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようでもあります。しかし、このようなことは、最近に始まったことではなく、旧約聖書を読むと、自分たちの住む街が敵に包囲され、兵糧攻めに会って、極限の空腹の状態になったときに、母親が自分の子を煮て食べるというぞっとするような恐ろしい話が記録されています。Ⅱ列王記6:24~29参照。 
 
 しかし、母親が万が一、あなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはない、と聖書は語っています。先ほどの聖句の中で、「たとい、女たちが忘れても、このわたし(愛なる神様)はあなたを忘れない。」と言っています。昔も今も、女性が自分の産んだ子どもを忘れることがある可能性を示唆していますが、神は決してご自身がお造りになられた人間をお忘れになることはないのです。もし、一瞬でも神があなたのことを忘れて、心臓を動かすのを忘れたならどうでしょう。あなたは、今日生きていることはできません。太陽の熱と光をこの地上に降り注がせるのを止めたら、あなたは、今、生きていることはできないのです。あなたは、日々神に生かされている存在なのです。
 
●「天の父は、悪い人の上にも良い人にも、太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 
 神様の愛は、何と偉大でしょうか。私たち人間はみな神から離れ、自己中心の罪の中に生きています。人類の始祖アダムとエバが自分勝手な罪の道を歩み始めてから、数千年以上過ぎましたが、今日も人類は坂を転げるようにまっしぐらに滅びへの道を突き進んでいます。このまま突き進んで行くと、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル書9:27)とあるように、人類は間違いなく、永遠の地獄に向かっているのです。でも、愛なる神様は、私たちひとりひとりを救うために、ご自身の御子イエス・キリストを救い主としてこの世にお遣わしになられました。そして、33年間の罪のない聖よいご生涯の後に私たち罪人の身代わりとなって、十字架につけられ、死なれ、墓に葬られ、三日後に復活されました。この方を個人的な救い主として信じるなら、どなたでも永遠のいのちを得ることができるのです。  

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