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ヤマハの社長がバイクの免許を取った理由

2017年05月12日 | モーターサイクルメーカーなど


ヤマハの社長がバイクの免許を取った理由
プレジデント 5/12(金) 8:15配信

ヤマハの社長がバイクの免許を取った理由
試作車に乗る、ヤマハ発動機の柳 弘之社長。
ヤマハ発動機の柳弘之社長は、社長就任まで二輪の免許を持っていなかった。なぜ夜間に教習所へ通ってまで自らがバイクに乗る姿を見せたかったのか――。経済ノンフィクション「企業の活路 ヤマハ発動機」。前後編のうち前編をお届けする。

■「バイクに乗れないのはやっぱり恥ずかしい」

 静岡県磐田市にあるヤマハ発動機の本社から車で約20分、隣の袋井市に同社のテストコースがある。彼らが「袋井」と呼ぶその試験場は1周約6キロメートル。鈴鹿サーキットを模した立体交差を備えるレイアウトで、1969年に竣工した歴史あるコースだ。

 満開だった桜が散り、茶畑で一番茶の摘採が始まろうとしていた昨年の4月下旬。同社の開発エンジニアや部長クラスの社員は、オイルの匂いが漂うこの試験場のピットからホームストレートを一様に見つめていた。社長の柳弘之による二輪車の試乗が行われていたからである。

 その日、午後から「袋井」にやって来た彼は、2時間半をかけて10台以上のマシンに乗った。試乗のラインアップは、小型排気量のスクーター、開発中の中型車機、フロント二輪の三輪バイク「トリシティ」、さらにはいくつかのスポーツモデルや1900ccの「XV」にまで及んだ。以前はバイクレースの最高峰・MotoGP用に造られた「M1」を試乗したこともある。

 柳の着る革ツナギは浜松市の世界的ツナギメーカー「クシタニ」製で、肩と腕に白と赤のライン、背中には「柳」と大きな赤い刺繍が施してあった。

 1~2周を走り終えるごとに彼は開発者に簡単なコメントを伝え、次々とバイクを乗り換えてはコースに出ていく。その姿に接する社員たちは、様々な思いを胸に抱いた。たとえば技術本部長の島本誠は「やはり社長が乗るとモチベーションが上がる」と感じ、20代の頃からバイクレースを趣味とする三輪バイク「トリシティ」の開発責任者・海江田隆は「俺のほうがぜんぜん速いな」と思い、柳の担当秘書は「転んで怪我をしたら大変だ」と気を揉む、というように。

 だが、そこにいる全員の胸に共通していたのは、それがヤマハ発動機の「いま」を象徴する一つの光景だということだった。1955年に日本楽器製造(現・ヤマハ)から独立した同社の社史において、社のトップが製品を実際に試乗するのは、初代社長の川上源一を除けば、ほとんど初めてのことだったからだ。


 柳は2010年3月に社長へ就任するまで、二輪の免許を持っていなかった。同社から十数キロメートル離れた掛川市にテクニカルセンターという自前の教習所があり、社長になったばかりの彼は日中の仕事を終えると、地元の若者たちに混ざって夜間の教習を受けた。

 しかし、なぜ柳は社長就任後に教習所へ通ってまで、自らがバイクに乗る姿を見せなければならなかったのだろうか。

 「私が乗ったからといって、なんということもないのですが――」

 鹿児島出身の柳は、少し九州の方言を感じさせる朴訥な口調で言う。

 「売り上げの6割が二輪車である会社の社長ですから、バイクに乗れないというのはやっぱり恥ずかしいと思ったんです。それに現地、現場、現物の『三現』を重視するのが、日本的経営の一番の強みだと僕は思っている。だから、開発途上の製品に乗ったり、現場の若い人たちと定期的に話す機会をつくったりすることは、ずっと意識的に続けてきました。やっぱり現場に入っていくと、彼らもいろんな意見や質問をフランクにしてくれるから」

■創業以来で最悪の赤字

 彼が社長に就任した2010年、ヤマハ発動機は創業以来の危機的状況にあった。

 08年のリーマン・ショックの影響を受け、09年に同社は創業以来最大となる2000億円以上の赤字を計上。主要市場の一つである北米では在庫が飽和し、四輪バギーの事故によるPL訴訟も抱えていた。そのなかで社長になった柳は当時、「業績の立て直しのために2つのテーマを改革の中心に据えた」と振り返る。

 1つ目は国内外の工場の集約化や製品のプラットフォーム化を進め、コストを下げる「損益分岐点型経営」を徹底すること、2つ目は「ものづくりにおける『ヤマハらしさ』をあらためて再定義し、存在感を発揮できる製品開発の種をまくこと」――である。

 「とにかく物事をシンプルに示すのが僕のやり方なんです」

 1978年にヤマハ発動機に入社した柳は、20代のときのナイジェリア駐在を振り出しに、キャリアのうちの約18年間を海外で過ごしてきた。中でも原点となっているのは30年前、米国アトランタで物流と生産管理に携わった経験だ。


 当時、プラザ合意後の円高によって、日本メーカーは海外工場での部品の現地調達を急速に進めていた。ヤマハ発動機でも米国工場での部品を3カ月ごとに「数十個単位」で国産化しており、彼は米国の部品メーカーとの新たな取引に奔走すると同時に、それに伴う工場での混乱に対応する日々を送った。

 「当時、工場には不良品の山ができ、生産計画が時々刻々と変化する状況でした。そのアメリカでの経験から私が学んだのは、生産計画や進捗の状況などを『見える化』する重要性です。生産進度、不良率、モノや人の動き……。細々とした説明などはとにかく省き、それらを図にしてポイントを紙に書き出したりしながら、パッと見ただけでみんながわかる工場にする。問題をシンプルに表現する努力を重ねることが、アメリカの工場をマネジメントするコツだったんです」

 アトランタで5年間を過ごした柳は1998年に帰国し、二輪車のフレームを生産する森町工場に配属される。この工場の工場長を務めるなかでも、その経験が強く活かされたという。

 「工場には『わかりやすい工場』と『わかりにくい工場』がある。日本の工場も当時はかなり酷い状況でしたが、その視点から生産の現場をつくり直すことが、いちばんの基本だという意識をより強くしていきましたね」

■「今後はより『現場』を重視する」

 社長就任後の柳はこうした背景をもとに、採算性の低かったライフサイエンス分野からの撤退など事業の再編、商品開発の手法の見直し、遅れていたインド市場へのテコ入れ、工場の集約化を一気に図った。今でも四半期決算の説明資料をほぼ自分で作ってしまうほどで、この時期にポイントを絞った経営改善を断行したことが、現在のヤマハ発動機の土台となっている。中型と大型の免許を取得してまで「袋井」で試乗を行う姿勢もまた、「今後はより『現場』を重視する」というトップとしての強いメッセージを、わかりやすく示そうとしているからなのだった。

 「僕はたとえば海外出張をしたときも、常に現地の市場と工場を見なければ、経営判断を行いません。商品開発も同じで、投資する際に数字だけを見るのではなく、現場の声を実際に聞いて判断していく」

 そうして組織や生産体制の効率化が成果を上げ始めた後、同社が取り掛かったのが2点目のポイント、「ものづくりにおける『ヤマハらしさ』」をどう打ち出していくかという課題だ。


■「車種の使い回し」でもお客をひきつける方法

 同社の売り上げの6割を担う二輪事業には、新興国と先進国で全く異なる需要がある。日常の足として二輪車が使用される前者に対して、後者では趣味性の高い製品が求められるからだ。

 しかし、エンジンやフレームを共通化する「プラットフォーム化」は、商品開発や生産ラインを効率化できる一方、一つひとつのモデルの個性を犠牲にすることにも繋がりかねなかった。

 技術本部長の島本は次のように言う。「中身がボディによって隠されている四輪と異なり、二輪車はエンジンやフレームが剥き出しになって見えている商品です。プラットフォーム化は部品をとことん共用してコストを下げる作り手側の論理であって、『ああ、これはあの車種の使い回しだ』とお客様に感じられてしまっては全く意味がありません。それをどうバランスよく行うかが、当時からの大きなテーマとなっています」

 それ以前の同社における製品開発は、ニューモデルごとに新しいフレームやエンジンを設計することで、「ヤマハらしさ」という個性を表現していた。そのため、部品の共有化やフレーム・エンジンのプラットフォーム化が進められると、「ものづくりが制約されるんじゃないか」「ベストが追求できなくなるのではないか」という不安が開発者から出てきた。だが、個々のモデルの生産台数は限られており、在庫が工場に積みあがっている状況のなかでは、これまで通りのやり方で開発を続けることは限界を迎えていた。(後編につづく)

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稲泉 連(いないずみ・れん)
1979年生まれ。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など著書多数。


海外だがヤマハのエンジンは素晴らしく故障しない。

ところが消耗部品、、例えば、クラッチダンパーなどがマイナーチェンジした改良型のパーツが皆無だ!!!

ディーラーにもパーツストックなど殆ど無い<<ヤマハが展開する専門店は、皆小規模でパーツが殆ど無い>>

マニラまでオーダーで、、、さらにダンパーだけ売れない<<クラッチアッセンブリーになる=高額4000ペソ以上〉〉と信じられない話。

マイナーチェンジ前ダンパーは市中に沢山あり6個で250ペソ=純正がある。


兎に角パーツが調達できないので事業用に使うとエラいことに成る<<上記問題は、結局、旧型パーツに換装した>>

趣味のバイクならパーツ待ちで2ヶ月我慢出来ようが、、事業用で2ヶ月待ちなどできるわけがない。
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