ゴン太の心

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明石海人の見た闇

2012年01月27日 | 日記
 先日、「深海に生きる魚族のように自らが燃えなければ何処にも光はない」という言葉を紹介しました。私が中学卒業時に恩師からいただいた言葉で、確かどこかの歌人の言葉だと紹介していましたが、この言葉は「明石海人」という歌人の言葉なのだそうです。

 明石海人。本名は野田勝太郎。明治34年7月、現在の沼津市に生まれ。沼商から師範学校をへて、教職に付いた彼は、その後、結婚して、長女が生まれ、これからという26歳の時にハンセン病を発病します。
 みなさん、ハンセン病って知っていますか?主に末梢神経と皮膚が侵される病気で、外見上の醜さから、古くから特殊な病気として扱われ、患者とその家族は多くの偏見と差別を受けてきました。
 現在ではノルウェーのハンセン氏によって発見された「らい菌」によって起こる細菌感染症であることがわかり、特効薬も見つかって比較的容易に完治することができる病気となっていますが、昔はその原因も治療法もわからないことから、特定の家系の人が発病する病気、遺伝する病気という誤解を生み、患者のみならず、その家族・親族まで、ものすごい差別を受けました。
 そのハンセン病を発病した明石海人も、愛する妻や子と別れ、故郷と別れ、名前を捨てて素性を隠し、国立らい療養所「長島愛生園」に隔離収容されます。
 その後、知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われるなど、かなりの病状悪化にもかかわらず、彼は短歌を勉強し、34歳ごろから発表しはじめます。その才能は開花し、昭和14年には歌集「白描」を刊行します。その歌集は25万部を売り上げ当時のベストセラーになりました。そして彼は
『私自身は人間である以上に癩者です。私が作る芸術品は世にいくらでも作る人があります。けれども、癩者の生活は我々が歌わなければ歌う者がありません。我々の生活を出来るだけ広く世人に理解してもらいたい。癩に対する世の感心を高めたい。自分の書くものが何らかの光となって数万の癩者の上に返ってくるように・・・・。それが私の念願なのです。明石海人などという名がどんなに広まろうとも、そのことは私にとって、何のよろこびでもありません。』
と友人への手紙に書いたそうです。
 そしてその昭和14年、明石海人は37歳の短い生涯を閉じてしまいます。療友の献身に支えられた壮絶な日々だったそうです。

 明石海人の求めていた光は、私達がハンセン病についてきちんと認識することで見えてくるのだと思うのです。そしてまた、彼が見ていた闇を思えば、今の自分の苦境など如何ほどのものかと思えてくるのです。

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