月刊ボンジョルノ

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「芝居見たまま」の成立と展開 ― 近代における歌舞伎の「記録」と「読物」 ―(上)

2005-03-06 | 伝統芸能
「芝居見たまま」は略して「見たまま」ともいわれ、歌舞伎を中心とする演劇の舞台上演の様子を読物風また実況中継風に記した雑誌記事の一形態である。雑誌『演芸画報』第一巻第十一号(明治四十年十一月一日)に初めて登場した「芝居見たまま」はその後も継続的に掲載され同誌の中心的記事となった。同誌の最終号である第三十七年第十号(昭和十八年十月一日)掲載の渥美清太郎「演芸画報略史」大正八年の項には、

本年度に至つて記事特輯の企画に妙案多く、殊に七月号の「見たまま十種」などは素晴らしい売行を示した。

とあるが、同誌における「芝居見たまま」の人気ぶりを示すものであろう。
「芝居見たまま」の名称は『演芸画報』のみにとどまらず『新演芸』・『歌舞伎』(1)等の雑誌にも用いられるようになり、さらに掲載された記事が単行本としてまとめて出版されたもの、また単行本書き下ろしに「芝居見たまま」の名称を付して刊行されたものもある(2)。これらは「芝居見たまま」が特定の雑誌の内にとどまる特殊なジャンルではなく相当の幅広い読者を獲得していたこと、また特定の興行に即した一時的な記事として読み捨てられるのではなく繰り返し読まれることを期待されていたことの証しになると思われる。このように「芝居見たまま」は出版物における記述の形態の名称として定着し、近代における歌舞伎を対象とする言説群の中で一つのジャンルを形成しているといってよい。
また「芝居見たまま」の特色の一つは、現代の歌舞伎公演制作の現場において演出および舞台製作の重要な典拠資料として活用されていることである。特に長らく上演の絶えていた演目や場面を復活上演する場合、「芝居見たまま」は過去の上演形態を知るためのまたとない貴重な資料となる。次のような記述は、過去の狂言を窺い知るに際して『演芸画報』の記事がいかに恒常的に用いられる資料であるかを示している。

われらの虎の巻『演芸画報』に頼れぬ復活狂言『阿国御前化粧鏡』、今回の“見たまま”は、補綴・監修の郡司正勝、演出の中村歌右衛門、作調田中伝左衛門、以上三氏のお話をおりまぜて ― (土岐迪子「舞台づくり 阿国御前化粧鏡」)(3)

猿之助 僕は国立の仕事の中でも養成と資料、この二つはすごいと思いますね。非常にす ばらしい。こういう復活もので重要なのは衣裳考証ですよ。昔は衣裳考証の先生がいらっ しゃったけど、今はもう演出が考えなきゃならないんですよ。そのときに頼るのは錦絵で しょう。それをすぐ探し出してくれる。
石川 大助かりですよね。
猿之助 これが大変ありがたい。それから昔の台本とか、「見たまま」とかがすぐ出てくる。これを自分で探すとなったら大変ですからね。前の『四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』のときもそうだったけど、国立劇場以外では考えられないことですね。
(市川猿之助・石川耕士対談「『競伊勢物語』上演にあたって」)(4)

『演芸画報』は芸能研究、特に近代歌舞伎研究の基本資料として重要な位置を占めているが、雑誌それ自体を対象とした研究は十分に行われているとはいえず、その中心的な記事であった「芝居見たまま」を対象とする体系的な分析もなされていないのが現状である。しかし近代における歌舞伎の普及・研究の両面において『演芸画報』をはじめとする演劇雑誌は大きな役割を果たしたと考えられ、その記事の特性を検討することは重要な意味をもつと考える。
本稿ではまず『演芸画報』に掲載された「芝居見たまま」の歴史的推移について整理し、歌舞伎をめぐる言説史上における意義について考察を進めるための足がかりとしたい。
『演芸画報』は明治四十年一月一日創刊。初期には初代社長でもある中田辰三郎、菊池武徳、後に渥美清太郎、安部豊、三島霜川らが編集にあたった。豊富なグラビア写真と、歌舞伎にとどまらず新劇・寄席・花柳界等まで含んだ芸界の情報を掲載し、芸能娯楽誌として人気を博したが、戦時の雑誌統合により第三十七年第十号(昭和十八年十月一日)をもって廃刊した。
編集の任にあたり、自らも「芝居見たまま」を執筆した渥美清太郎が、

ことに、同誌で案出した「芝居見たまゝ」の記事は演劇を誌上に再現する試みで、最も重要な読物であり、演出記録でもあった。 (『演劇百科大事典』(5)、「演芸画報」の項)

十一月号から「芝居見たまゝ」と題し、舞台演技を誌上に再現する企画の下に新読物を掲載し始めたが、大好評で最近まで続き、見たまゝは新しい劇界熟語として行はれた。最初は川尻清潭氏が執筆したが、次年度から三島霜川氏が盛んに書き出し、一種の新文学として各方面から認められた。 (前掲「演芸画報略史」、明治四十年の項)

とするとおり、「芝居見たまま」は同誌において重要な位置を占める記事として、第三十七年第五号(昭和十八年五月一日)に至るまでの間(6)、継続的に掲載されたのである。
先述のとおり「芝居見たまま」は明治四十年十一月の『演芸画報』に初めて現れる。まずはこの川尻清潭による「芝居見たまま 『岸姫松轡鑑(きしのひめまつくつわかゞみ)』の舞台面」の一部を掲げてみよう。

○役割及鬘と衣裳
飯原兵衛 市川小團次
鬘は白糸棒茶筌、着附は茶地繻珍唐草やうの織物、白茶二枚下着(つけ)、裃は金通し菊桐の織物鶴の丸の紋附、白足袋、白柄の大小、後に茶柄の大小、(略)
琴唄の唱物(なりもの・ママ)で幕が明くと、左手(しもて)の門口の脇に「施行」と書た高札が立てヽあつて、正面は銀の襖に鶴の丸の模様、すべて飯原兵衛邸(やしき)の体裁、爰へ腰元共が出て居て、司姫は隼人之助と不義の科で御預りの身の上と云へど、誠は源頼家の胤を宿せしとの事と噂をして居る、(略)
此間に藤巻はうしろへ立つて、赤い裂(きれ)を掛けてやり髪をすく事があつて、覚悟を極(き)めて 刀を持上げ斬つて掛る、おそよは此有様が鏡へ写るので吃驚して飛のき、手に持つて居る鏡で止め、コレかゝさん何とがあつて斬らしやんす何で何で何でとにげ出し、それを投出し、次ぎに鏡台を押やつて、ずつと左手(しもて)の方までばたばたと逃げて、べたりと坐つて右の手を突き、腰を落して左の掌を藤巻の方へ向けて下から見上げた形ちになると、藤巻は間を離れた右手で刀を構へておそよを見込んだ形ちで極り、猶も斬らうとして追駈ける、おそよは逃げ廻る、爰へ左手の戸口から与茂作が出て、此体(さま)を見て羽織をぬぎ中へ入つて止める。

最初に各役の鬘・衣裳と舞台装置の指定があり、役者の身体の動き・所作が劇の進行を追って記されている。実はこの記事の形式は、同時期に雑誌『歌舞伎』に掲載されていた型の記録とほとんど変わるところがない。
この『歌舞伎』は明治三十三年一月の創刊。大正四年一月まで月刊で通巻百七十五号を数える。編集の実質的な主幹は三木竹二こと森鷗外実弟篤次郎、その没後は伊原青々園に引き継がれた。誌上には衣裳・舞台装置・下座音楽等の演出から役者の所作の流れ・演技の段取り等に至るまでを、台帳等に見られる専門的な語彙を用いて詳細に筆記した型の記録が掲載された。その背景には歌舞伎の技芸伝承に対する危機感の高まりがあり、実際に舞台で演じられた型を後代のために記録として書き残そうという意図があった(7)。
この型の記録の主な執筆者は三木竹二・鈴木春浦・真如女史(竹二夫人森久子)らであるが、最初の「芝居見たまま」の筆者であった川尻清潭も、同時期に並行して『歌舞伎』誌上に型の記録を執筆しており、双方の記事の形式の間にはほとんど相違を見出せない。『歌舞伎』の型の記録の例として次に挙げるのは「六段目勘平の型」(清潭生編、尾上芙雀・坂東三津五郎校、第八十五号、明治四十年五月一日)より『仮名手本忠臣蔵』六段目勘平腹切の場、お軽の出の場面である。

本舞台三間田舎屋の平舞台、上手一間の附屋体には障子立切り、正面押入に続いて納戸口、その下手鼠壁には狩道具、その前居炉裏に茶釜を掛けある。例の処格子戸、その外野遠見の書割よろしく、在郷唄で幕明くと、板附に蟹十郎のお萱が箒を持つて掃除をして居る。(略)
正面の納戸口から芙雀のお軽、「アイアイ」と返辞をして、潰し島田、栗梅の黒餅、黒の丸帯前垂掛(髪を結つてた心で汚れて居る)で晒の手拭を姐さん冠に被り、浅黄の襷を斜に掛け、双紙紙で油手を拭き乍ら出て、客と見て下手奥の居炉裏前に座り、前垂と手拭を取り、片襷を外してそこに置き、盆に茶碗を二つ載せ、茶を注いで客の前へ出すと、両人はそれを受取り、扇子で玉はこの女ですといふ科をするので、お軽は恥かしい思入で盆で顔を隠し、立上つて下手へ来て以前の処に盆を置いて座り、手拭を畳んで帯の右に挿み、次に前垂と草紙紙を一緒に持つて土間の処へ来て、前垂をはたいて居ると、お萱が上手の両人に向つて挨拶をするのでお軽もそれを見て前垂を下に置き、座つて手を突いて挨拶をして、今度は座つたまゝ前垂を取り、又はたき、それに付いて居る抜毛を取つて、指先で丸めて捨て、以前の草紙紙で手を拭いて新に前垂を畳み、その紐で括り後に置く。

これを先掲の「芝居見たまま 『岸姫松轡鑑(きしのひめまつくつわかゞみ)』の舞台面」と比較すると、掲載開始当初の「芝居見たまま」が、『歌舞伎』掲載の型の記録とほぼ同じ形式を有するものであったことが分かる。
しかし「芝居見たまま」掲載の意図は、『歌舞伎』の型の記録とは明らかに異なるものであった。前掲「『岸姫松轡鑑』の舞台面」の前には「芝居みたまま」と題した前書(無署名)があり、「芝居見たまま」の掲載意図はここに端的に述べられている。

劇評は有用なり面白し、然れとも芝居をす演る俳優(やくしや)や芝居を観る人観た人達に取りて有用なるのみ面白きのみ、頭(てん)から芝居を観ない人観なかつた人に取りては劇評は寧ろ難有迷惑なり、堪能し難しと思はる、そこで本誌は是より「芝居見たまゝ」欄を設け、重もなる芝居を写生し実叙し、一枝の筆の力にて芝居を絵画の様にも見せ小説の風にも現はして、種々の事情にて思ふ様に芝居などに行かれぬ人々に、たとひ野の末山の奥に住むとも、舟車の旅路に在りとも、又は病床無聊の時に於ても、一たび本誌の此欄を読めばドウかコウか芝居を観たやうな心地がすると言せて見たいとの大望を起したり、(略)
先づ芝居の筋を明(あきらか)にして一幕毎の背景舞台面から役々の活動の外形内情を写し尽せば、申分なきも、つまらぬ処は略しに略して「山」だけの処を描くも一式なり、「山」の中の一人だけのを捉らへ画き出すも不可なりとせず、次号よりは少くとも二三座に及ぼして種々の書き方も用ゐられん。
本誌の愛読諸君中には劇に通ぜる人少なからず、幸に右の趣意が悪くなければ、何卒芝居を観て一人で楽まず、其の「見た侭」を写して続々寄稿せられんことを祈る、御骨折りに対しては何とか御礼の致方もある可し、兎に角劇趣味の弘布の為めなり、人助けの為めなりとして御奮発を冀(こひねが)ふ。

『歌舞伎』の型の記録の動機が、次第に失われてしまうであろう型を網羅的に筆記し紙上の記録にとどめおくという点にあったのに対し、「芝居見たまま」の掲載意図の特徴として次の三点を指摘しておきたい。
まず「芝居見たまま」は「劇趣味の弘布の為めなり」とあるように、後代を意識した記録の保存よりも、同時代における歌舞伎の普及を目指したものであった。ここでは「芝居をす演る俳優(やくしや)や芝居を観る人観た人達に取りて有用なるのみ面白きのみ」である劇評との相違を強調しており、特に「頭(てん)から芝居を観ない人」、観劇趣味をもたない人をも対象読者に想定していることは注目に値する。
第二に型の記録が評論家・新聞記者といった専門的な知識をもつ者による執筆であったのに対し、「芝居見たまま」は一般読者の寄稿を積極的に求めていること。この前書「芝居みたまま」にも読者の寄稿を募る文が見えるが、次号の第一巻第十二号(明治四十年十二月一日)には改めて「『芝居見たまゝ』を募る」と題した次のような社告が載る。

芝居見たまゝを記して芝居を観ない人に見せる見せられる人は嬉しがる可く見せる人亦興なしとせず、芝居を観て独り楽むを欲せず趣味を他に頒つの雅懐ある諸君子乞ふ其『見たまゝ』を本社に寄せられよ。

このことからも、執筆者と読者とがある程度の専門的な知識を共有していた型の記録とは異なり、必ずしも専門的な知識を要しない娯楽本位の読物を志向していることがうかがえる。
第三に、「芝居を絵画の様にも見せ小説の風にも現はして」「一たび本誌の此欄を読めばドウかコウか芝居を観たやうな心地がすると言せて見たい」とある通り、ここに述べられるのは観劇の代替行為としての〈読み〉である。このような、芝居を見ぬ者は舞台を想像して楽しみ、また実際の舞台を見た者は記憶を甦らせて楽しむという読み方は、近世以来歌舞伎を題材とする出版物の重要な受容形態であったが、「芝居見たまま」はこのような受容のしかたを期待して創り出された読物の形式であった。
さらに次に挙げるのは井桁佐平著『芝居みたまま』(大正七年、玄文社)に載る、岡村柿紅による序文である。著者井桁佐平は本名内山理三、『演芸画報』の対抗誌ともいえる『新演芸』(大正五年三月~十四年四月)の編集部に勤務した。市村座の経営にも参画した劇評家・劇作家岡村柿紅は、当時『新演芸』の主筆でもあった。

こゝに「芝居見たまゝ」といふ一種の読物が起つた。これは演劇を観て得た感じを、そのまゝ文章を以て現はそうとするの術である。読者をして直に観客たらしめようとするのである。戯曲は幕内の専門家にのみ読まるべきものであるが、「見たまゝ」は一般読者を対象とする。故に「見たまゝ」は読書界に於て、戯曲よりは正当なる一の位置を占め得べき性質を以てゐるものである。果して、演芸雑誌の上に於て、「見たまゝ」は最早重要なる位置を占めてしまつた。さうして読まるべきのみの戯曲は、次第に駆逐してしまつた観がある。
然しながら「見たまゝ」が、演劇を観た時と同じ感じを与へなかつたら、その「見たまゝ」は 役にたゝない。この「見たまゝ」は、抑も「見たまゝ」といふものが起つた当初からの作者井桁佐平君の作である。読者は佐平君の妙術に依つて、書斎を忽ち桟敷に変じられてしまふであらう。

「芝居見たまま」はすでに『演芸画報』の枠を超えて特定の形式をもつ記事の総称として用いられており、前掲『演芸画報』の「芝居みたまま」と題する前書と同じく、ここには観劇の代替行為としての〈読み〉が既定の事柄として強調されている。
なおこの書の表紙には、芝居小屋の桟敷を思わせる場所で挿絵入りの冊子を読みふける娘の姿が描かれている。背景には定式幕と芝居提灯、傍らの手焙りには「さる屋」の文字が見える。猿屋は実在の芝居茶屋の名(8)。しかしこれは実際の観劇風景の写生と受け取るのではなく、「芝居見たまま」を読みふけるうちあたかも桟敷に居るかのような心になる、まさに「書斎を忽ち桟敷に変じられ」た心象を描いたとみるべきであろう。とすればこの表紙絵は「芝居みたまま」の執筆意図を視覚的に象徴していることになる。
このように芝居見たままを観劇経験に擬する発想は、『演芸画報』第十九年第四号(大正十四年四月一日)が芝居見たままの特集を掲載するにあたって「画報社四月興行」と銘打ち、「大序・一番目・中幕・二番目」、また「一番目・二番目」と伝統的な歌舞伎興行の番組立てを模した目次立てを行っていることからもうかがえる。

芝居見たまゝ集(画報社四月興行)
第一部 大 序「楼門五三桐」(一幕)
一番目「小 豆 島」(二幕)
中 幕「鎌倉三代記」(一幕)
二番目「修善寺物語」(一幕)
第二部 一番目「五三桐真砂石川」(三幕)
二番目「梅雨小袖昔八丈」(三幕)

以上のような当初の掲載意図をふまえつつ、次に「芝居見たまま」が具体的にどのような記述方法を用いたのかを検討したい。(続く)