ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

『まちんと』

2017-08-09 00:41:53 | 日記
本日『長崎原爆』の日です。

《広島、長崎への原爆投下から72年、被爆者団体の活動が高齢化背景に細っている。
………中略……長崎市に次いで被爆者が多い長崎県諫早市でも解散決定が相次ぎ、
団体が姿を消す。
7月に核兵器禁止条約が国連本部で採択される一方で、次世代への継承が深刻な
課題となっている。
………中略……
長崎大核兵器廃絶研究センターの中村桂子准教授は
「核兵器禁止条約は被爆者の苦難に言及しており、核兵器の非人道性を学ぶ重要さは
世界的に増している。被爆者が高齢化する中、被爆地以外の国内外でも証言や思いを
継承することが必要だ」》(8/8  西日本新聞)
と指摘しています。

被爆者の高齢化と同様、戦争の悲惨さを体験した世代も少なくなってきました。
直接的な「語り部」としてだけでなく、戦争を知らない世代(と言っても巾がありますが)に、
どう伝えていくのか、難しい課題ではあるようです。

   『まちんと』
  
   すこしむかし ちいさな子が もうじき三つになる子が 広島にすんでいて
   昭和二十年八月六日の朝 げんしばくだんに おうたげな
   ただいっぱつの ばくだんだったけれど
   いっしゅんのうちに まちはもえあがり いっしゅんのうちに まちはくずれおち 
   人もほのおともえ いきのこった人びとは やけただれて さまよった
   黒い雨は そのうえに ふりそそぎ ふりそそぎ
   その子も くるしみながらねかされて トマトをくちにいれてやると 
   まちんと まちんと といって ほしがった
   ちょっとまってねえ トマトさがしてくるからねえ
   その子のおかあさんは そういってさがしにでたけれど
   くずれ やけおちたまちに トマトはなかった
   たったひとつでもいいから トマトを…… トマトを……
   ようやくひとつみつけてもどったとき その子はもう死んでいた
   まちんと まちんと といいながら 死んでいったげな
   その子は死んで 鳥になったげな
   そうして いまがいまも まちんと まちんと となきながら とんでいるのだと
   ほら そこに―― いまも――》
              (『まちんと』松谷みよ子・文 司修・絵、偕成社、1983)

子ども達に伝えたくて、読み聞かせた絵本の一冊です。
〈死んだ者が鳥になる〉というハナシは民話の世界に沢山出てきます。
死んでいった者たちの魂を、生き残った者が飛翔させたかった想いなのでしょうか。

私の地方の方言に読み替えても 語ってみました。
伝えることは、難しいことではありますが、戦争の悲惨さを体験した者の一人として、
何とか、伝えたいと願っている〈ばーば〉です。

昭和20年の夏、私は食べ物が少なくて 毎日お腹をすかしていました。
疎開先で、母が農家の家に行って「トマトを分けて下さい」と頼んでも、
お金ではなく、何か品物を持っていかないと、中々分けてはくれませんでした。
当時9歳で体の小さな私を見て、ほんの僅かなトマトを頂いたのです。
一つ食べ終えて、
「もっと、ちょうだい」
と母に言っても、兄や姉の分まで私に食べさせるわけにもいかず、
「ダメ」
と母に、言われました。

母も切なかったことと思います
私は、死にはしませんでしたが、絵本の中の子どもの様に
『まちんと』
と、言ったのでした。

72年前の夏のことです。
ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「おっしゃる通りでございます」 | トップ | 『生きているということ』 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
まちんと懐かしいお話 (chidori)
2017-08-09 16:05:51
松谷みよ子さんいい作品ですよね。

今日はうたごえサークルあじさいでそんなお話いっぱい出ました。

80過ぎのメンバーがいるのでかなり具体的なお話が聞けました。

戦後の話ですが、アメリカの脱脂粉乳まずくて、トマト

ジュースなどもあったが飲めるものじゃあなかった。カ

マスを食べた話。進駐軍がやってきて最初は怖くて逃

げたが、逃げなかった人はチョコ―レートなどもらっ

て、Sの次から逃げなかった・・・。

この戦争は負けると子供ながらわかっていた。負け

たときはうれしかった。もし勝っていたらさらにひど

い戦争を始めると思った。

ひもじい思いをした話はいっぱいでした。

原爆許すまじを知っている人は12人中4人でした。

でも折鶴はみんな大好きです。

子どもに自分の戦争経験を話した人はいませんでした。

ましてや原爆ぴかどんにあった人は ひげさんのお

母さんもでしたが、一言も言わないままだったそうです。
こんばんは。 (ゴマメのばーば)
2017-08-09 20:32:19
 (chidori)さま。
私たちの年代ですと、太平洋戦争末期に、殆どの人が空きっ腹を抱えていたと思います。
食べられる野草類は、何でも食べましたし、ヨモギで餅が出来ると聞いて、兄と二人で背負う程のヨモギを摘んできて、「お餅 作って」と、母に言った時の、母の哀しそうな苦笑いを思い出します。
「あのね、もち米がないと餅はできないの」
という言葉と一緒に。
コメントありがとうございました。

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。