極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

デスクトップな試作場

2016年03月26日 | ネオコンバーテック

 

 

   

        ぼくは市民運動が嫌いです。群れて集まって、その数を頼みにしていろいろな
        ことを言う。
そこには冷静さがなく根拠といえば漠然とした「感覚」だけです。


                               

 

                                    Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

        ※ ここまで言い切ることはできないと考えるが、指摘するようなことがあり、該
          当することがあれば、是正すればいいことで、完全無欠でない市民運動を拒絶
          するのも不自然なことだと考える。

 

【すごいぞ!ロードスター】

  2017 Mazda MX-5 Miata RF

世界各国の自動車ジャーナリストが選ぶ、ことしの「ワールド・カー・オブ・ザ・イヤー」――去年1月以降に世
界の2つ以上の大陸で発売された車の中から、最も優れた車を世界各国の自動車ジャーナリスト73人の投票によ
って選ぶ賞――に、マツダの新型オープンスポーツカー「ロードスター」が選ばれた。今朝も、彼女が、湖西の春
を感じたいというので、それじゃと、午前11時からマイロードスター「クワトロ・セブン」に乗り朽木村まで走
らせ、遅めの昼食を道の駅で頂き、鯖の燻製とへしこを買って、風が少しきつかったが、帰りは湖岸走路をオープ
ンで日本一のパワースポットの右方向に、木蓮、白木蓮や河津桜の開花を愛で、沖のパラサーフィンを眺め帰って
くる。

 

【デスクトップな試作場】

落成式?竣工式?それはさておき、デァゴスティーニの三次元プリンターの組み立て試運転調整が終了。これから
トレーニングに入り9月頭には、やってみようの試作を開始し、サンプル提供――非営利の無料試作――していく
予定。

さて、なぜ、これほどまで遅れてしまったのか反省点もある。49号のエクストレーダーの組み立てを間
違ってい
たことだ。笑われるかもしれないが、マニュアルの写真が不鮮明なので、キャップ型拡大鏡で見ながら組み立てて
いくのだが結局見落とす。すべては眼精疲労・欲張り計画の二つになるのだが、言い分けがましいが、透明のアク
リル樹脂製の照明技術
に工夫がいると考えている。八畳のフィットネスマシン付き書斎兼作業兼寝室の上に、さら
に、スリーディープリンタがテーブルにオンされる。ノウハウの習得と、もう忘れてしまったCADリテラシーと
言っていいのか、要再学習とあとはイメージングの質次第――カッティング・ラビング・カラーリングなどの派生
工程をどうするか?――ということになり、"すべてはデザインで決まる"世界がこの小さな空間で試行されていく
ととなる。ところが、彼女はご機嫌斜めだ。

 

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】

  ● 目 次

   解題

   秦
   斉
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山


 

   『戦国策』の成立と内容

 中国古代の大歴史家・司馬遷が『史記』を書くにあたり、戦国時代に関する事件、人物の事跡は、『戦国策』
 から多くをとったといわれている。
『戦国策』の原著者は明らかでない。おそらく、当時の口承の類、記録の
 断片などがまとめられたものであろう。書名も、『国策』とか『国事』、あるいはまた『短長』『長書』など
 と呼ばれ、一定しなかった。
その錯乱を正し、現在ある形に編集しなおして『戦国策』と命名したのが、前漢
 末の劉向(前七七~六年)である。
 

 ちなみに、「戦国」ということばは、もともと「天下の戦国七」(戦国策)などといわれたように「大国」と
 いう意味であった。古くは、歴史書の中に分類されていたが、のちに、子部の従横家の中に入れられるように
 なった。従横家とは、蘇秦、張儀の合従、連横から名をとったもので、戦国時代に、外交戦略を説いた学派を
 いう。むろん学派とはいっても、儒家、道家などのように、整然たる思想体系は持っていない。全篇ことごと
 く、いわゆる策士、説客の権謀術数の言論、行動でうずめられている。

 乱世の戦国時代ともなれば、道学者の金科玉条とする伝統的な規範、道徳は、用をなさない。そしてそれに代
 わって新しい時代にふさわしい規範、生き方が求められる。時代に適応したものは生き残り、それに失敗した
 ものは滅びる。この理屈は、今も昔も変わりない。各国ともあらそって富国強兵をはかる一方、国力の損耗を
 最小限にくいとめるため、兵を動かさずに、もっぱら外交交渉にうったえて、事態の収拾をはかろうとする。
 
 こうした時代の要求にこたえて、国際紛争の解決にあたった。"移動大使"が、すなわち従横家と称される一群
  の説客たちである。かれらは大臣・宰相として、一国の存亡を双肩にになって外交の秘術をつくす。あるいは
  また自己の売り込み、保身に、機知をふるい、脆弁を弄する。一歩あやまれば、国の滅亡、身の破滅を招くだ
  けに、真剣そのものだ。その弁説にはかれらの合がかかっていた。それだけにかれらの弁説には、処世の知恵、
  乱世の英知がこめられている。現実に密着した思想、行動に根ざした思考がある。

  古来、融通のきかない道学者は、『戦国策』を目して、内容浅薄、思想低劣として、眉をひそめた。しかし、
 『戦国策』の面白さは、まさに道学者流のひんしゅくをかった、その点にあるといっても過言でない。唐来八
 家の一人曽鞏は、劉向以後再び放映した『戦国策』をもとの形に編集しなおした人物であるが、かれは、『戦
 国策』 の内容を「流俗に惑い、自ら信ずるに篤からず」と批判しながらも、その存在価値をこう評価する。


  「君子の邪説を禁ずるや、固よりその説を天下に明らかにせんとす。当世の人をして、皆その説の従うべ
  からざるを知らしめ、しかる後もって禁ずれば、すなわち斉る。後世の人をして、皆そのなすべからざる
  を知らしめ、しかる後もって戒となさば、すなわち明らかなり」

 また、元代の呉師道は、

  「君子のこの書におけるや、事変を考え、情偽を究むれば、すなわち、守ますますもって堅く、知ますま
  すもって明らかなり。小人のこの書におけるや、その始めに利あって終りに害あり、小に得て大に喪うを
  見ば、悔悟懲創の心生ぜん」

 と述べている。

 この二人は、儒家の立場にたって、逆の意味での教育的な効果、つまり現代中国のことばをかりれば、"反面
 教師"を期待したのである。また、末代の李格非は、

  「『戦国』策の載する所は、たいていみな、従横捭闔(はいこう)の譎誑(けつきょう)
、相軋傾奪(そ
  うあつけいだつ)の説なり。その事、浅嗣にして道うに足らざれども、これを読まば、必ずその説の工な
  るを尚び、その事の師なるを忘れん。文辞の勝これを移すのみ」

 明代の王覚もこういう。

  「義理の存する所にあらざれども、弁麗横肆にして、また文辞の最たるものなり」

 つまりこの二人は、内容はともかくとして、その文辞については一旅中の一流だと評価しているわけである。

 これが『戦国策』を最初に編集した劉向となると、さすがに違う。道学者流の偏見から完全に免れている。

  「みな、高才秀士にして、時君のよく行なう所を度り、奇策異智を出し、危を転じて安となし、亡を運(
  めぐら)して存となす。また喜ぶべく、みな観るべし」

 宋代の蘇洵は、いっそう積極的に評価する。

  「少年の文字なり。まさに気象をして崢(そうこう)ならしむべし」

 気象を崢ならしむとは、気持をふるいたたせる、やる気を起こさせる、というほどの意味であるが、あるい
 はこの辺に、古来、『戦国策』が読みつがれてきた秘密がかくされているのかも知れない。
日本には、横田惟
 孝の『戦国策正解』、安井息軒の『戦国策補正』等の注釈書がある。

 『戦国策』の構成は国別に分かれている。すなわち、四周・乗馬・秦・斉・楚・趙・魏・韓・燕・来・衛・中
 山の十二国である(一国をさらに数篇に分け計三十三篇)。ここでは、歴史的に大きな影響をもち、説話とし
 ても興味のある七国を重点的にとりあげ、四周・車馬・来・衛・中山の小国はまとめて一章におさめられてい
 る。
            
                              『戦国策』(「中国の思想」第二巻)より


マイケル・ピルズベリー著『China 2049』(『帝國のロングマーチⅡ』2016.02.26参照)で「戦国策」から
の引用記述が多いので、「墨子」の次は「戦国策」をリラーニングすることにした。併せて、『China 2049』
を読み進めていくことにする。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』17


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                   マイケル・ピルズベリー 著
                                                   野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづ
けてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年
マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これから
の数十年
先の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、
職種や年齢を問わず興味をそそる内容とな
っている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

  第3章 アプローチしたのは中国 

 


                                  東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                                        毛主席への覚え書き(1969)より引用  

  1978年、米中の関係は正常化、つまりアメリカが共産主義中国を中国の政府として正式に認める方向へ
 向かっていた。その年、鄭はアメリカに求めるもののリストのトップ、すなわち科学と技術に狙いを定めた。
 これは「無為]と呼ばれる戦国時代の姿勢で、自らは動かず、ほかの人間に仕嘔をさせることを意味する(注
 50)。1978年になてた戦略で述べているように、鄭は、経済発展にとって「技術は第一の生産力(注51)」
 だと考えていた。そして、中国が経済力でアメリカをしのぐ唯一の道は、科学と技術を大々的に発展させるこ
 とだと確信していた。それを手っ取り早く実現するには、アメリカがすでに持っているものを拝借すればいい。
 男はその目論見を助けてくれる最溶のパートナーを見つけた。米中の公式な協力関係の確立を熱望する新大統
 領、ジミー・カーターである。

  1978年7月、カーター大統領は中国に、それまでに海外に派遣した中では最高レベルの科学者の代表団
 を派遣した。団を率いたのは、カーターの科学顧問で、地震科学を専門とする元マサチューセッツエ科大学教
 授、フランク・プレスだ。プレスは1975年から77年にかけて、米中の学術交流委員会のt席を務めたため、
 中国との学術交流に強い関心を寄せていた,この代表団に中国は大いに注目した。人民日報が外国人のスピー
 チを掲載することは滅多になかったが、晩餐会の席上でブレスが行った、グローバル化のメリットを強調する
 スピーチは同紙に掲載された。国家安全保障会議で中国政策を担当するマイケル・オクセンバーグはそれまで
 14回ほど、郵小平との会談に同席したことがあったが、この時ほど郵が知的好奇心をみなぎらせ、中国の未
 来についての展望を熱く語ったことはなかった、と後に述べている。この時も鄭は、か弱い嘆願者という役割
 を演じ、プレスらに、中国の科学と技術は絶望的なまでに遅れていると語り、アメリカが中国へのハイテク輸
 出を抑制していることを心配しているそぶりを見せた。

  それまで中国政府は、亡命を怖れて、科学者のアメリカヘの渡航を制限し、渡航後も厳しく管理してきた。
 したがって、西側諸国との科学交流の拡大についても慎重になるだろうとプレスは予想していた。だが、驚い
 たことに郵は、科学を学ぶ中国の学生700人の留学受け入れを求め、さらにその後数年のうちに、数万人を
 アメリカに留学させたいという大きな目標を掲げた。郵が回答をすぐに聞きたいと迫ったため、これは自分の
 キャリアにとって重要なブレークスルーになると考えたプレスは、ワシントンは夜中の3時だったが、かまわ
 ずカーター大統領に電話をかけた。プレスと同じくカーターは、中国が科学的交流に急に熱を入れはじめた理
 由を考えることもなく、それを米中の関係改善を歓迎する証と見なした。

  1979年1月、郵はワシントンD.C.を訪問し(これが最初で最後となったが)、成功を収めた。カー
 ター大統領は鄭をもてなすために公式晩餐会を開き、対中政策における二大政党の連携を讃えようと、リチャ
 ード・ニクソンを招待した。ニクソンにとってホワイトハウスに足を踏み入れるのは、ウオーターゲート事件
 で1974年7月に退陣に追いこまれて以来のことだった。郵は13口問、アメリカに滞在し、コカコーラ本社、
 ヒューストンのジョンソン宇宙センター、さらにはディズニーワールドまで訪れた。アメリカの大衆メディア
 が彼を受け入れた証として、鄭の顔写真がタイム誌の表紙を飾った。それも二度にわたってである。

  北京の国立博物館には、テキサスでプレゼントされたテンガロンハットをかぶって微笑む郵の写真が展示さ
 れているが、その写真は、彼の訪米を象徴するものとなった。それはアメリカ国民に、男はユーモアにあふれ、
 「あの共産主義者]のひとりというより、「わたしたち」にずっと近い人間だと実感させた。だが、後にその
 写真は中国とそのマラソンにとって折り返し地点であったことが判明する。この訪米で鄭小平は、毛沢東より
 はるかに多くを手に入れた。

  1979年1月31日、アメリカ滞在中に、鄭と国家科学技術委員会主任の方毅はアメリカと科学交流を加
 速させるための協定に署名した。その年、最初の50人の中国人学生がアメリカに留学した。最初の5年間に
 1万9000人ほどの中国人学生がアメリカの大学で、主に物理科学、保健科学、工学を学び、その数は増え
 つづけた(注52),カーターと郵は、領乍館、貿易、科学、技術についての協定にも署名したが、それは、ア
 メリカが中国の科学者にあらゆる種類の科学的・技術的知識を提供することを約束するもので、結果的にアメ
 リカの科学的・技術的専門知識の史上最大の流出を招いた。

  さらに中国は全米科学アカデミーにも食指を伸ばし、中国が選んだ複数の分野で科学交流を始めるために、
 科学者の代表団を訪中させることを求めた。アメリカ科学界の要人を手中に収め、物理、原子力、宇宙航法な
 どを扱う国際的な組織に加入する土台固めをするというのが、中国の戦略だった。アメリカは同意し、これが
 八つ目のプレゼントとなった.

  アメリカはまた、秘密裏に軍事協力を強化することも約束した。カーター大統領は中越戦争で中国に対して
 情報支援したが、それについてはヘンリー・キッシンジャーでさえ、2011年の著書『中国』で明かしてい
 る通り、衝撃を受けた。キッシンジャーは、カーターは北京とつながる扉を開き、怪物を作り出してしまった
 とでも言いたげな口調で、中国のベトナム侵攻を認めるカーターの「非公式な共謀」は、「間接的にポル・ポ
 ト派の残党を支援することにほかならなかった(注53)」
と非難した。「ハロルド・ブラウン国防長官の訪中
 は、数年前には想像もできなかったレベルまで、米中の陥力関係を押し上げた」と、キッシンジャーは息巻く。

  九つ目のプレゼントである1978年に調印された大統領指令43は、教育、エネルギー、農業、宇宙、地学、
 商業、公衆衛生の分野において、アメリカの進んだ科学と技術を中国に伝えるために多数のプログラムを創設
 することを命じた(注54)。翌年、カーター政権は、貿易相手国として中国に最恵国待遇を約束した。

注50.Edward Slingerland,Effortless Action: Wu-Wei as  Conceptual Metaphor and Spiritual Ideal in Early China(New
           York: Oxford
univcrsity Prcss, 2003).
注51.  Deng xiaoping,“Realize the Four Modernizations and Ncvcr
Scek Hegemony,” May 7,1978. 以下のサイトで人手可
           能。http://
dengxiaopingworks.wordPress.com/2013/02/25/「ealize-the-four-modcmizations-and-never-seck-hegemony/
注52.  EzraF.vogcl,Deng iaopingand the Transformation of  China(Cambridgc,MA: Harvard Univcrsity Press,2011),323
           (Kindle edition).
注53.Kissingcr,0n China, 366-68
注54.  Presidential Directive/NSC-43,Novembcr 3,1978,以下のサイトで人手可能。http://www.jimmycarterlibrary.gov/do -
          
cuments/y.・gov/docunlents/pddirectives/pd43.pdf.

                                                                                                                                                                                 この項つづく

 

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