遅れ先立ち 花は残らじ

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魂の行方

2017年04月08日 | 閑話
本居宣長を読んでいると平田篤胤という怪しい人に行き逢う。
宣長の死後、夢の中で弟子になったということからして相当に奇妙な人だが、天狗の生活が真面目に論じられたりする。手元にある「日本思想全史」(清水正之著。ちくま新書)では8か所にわたって篤胤に関する記述があるが、人となりには触れられず「自国文化中心主義」などと比較的穏当だけれど、和辻哲郎によれば「変質者」と切り捨てて、にべもない。
今年に入って講談社学術文庫から「平田篤胤-霊魂のゆくえ-」(吉田真樹著。講談社学術文庫)が発売された。ちょうど良い機会と思い、これと「霊の真柱」(岩波文庫)とを併せて読んでみた。
篤胤から始まるいわゆる平田派国学、復古神道は、水戸学と共に幕末の尊皇攘夷思想を支えて明治維新を推し進め、先の戦前戦中には国粋主義のバックボーンになったと評価(悪評)されるが、吉田氏が指摘しているとおり、篤胤にその意図はなかったろうと思われる。結局のところ後の人があれこれ拵えたものであろうから、これら思想の系譜について関心は無い。

篤胤にとっては、死後の魂の行方が最大の関心事であった。人の魂は神の一部であって永遠であり、死後、あの世(黄泉の国)に向かうのは肉体だけで、魂はこの世にあって目には見えない、大国主命が主宰する幽冥界に留まり親類縁者を見守り、「幸(さちわひ)」を与え続けるという。
20歳で家を出奔するまで長くいじめに耐えた篤胤にとっては、何故この世に生を受けたのかという自らの存在意義こそが重要であり、結論において人間の生の尊厳を神に求めた。生きる意味は全ての人にある。万民になければ篤胤にもないのだから。その意味を不遇、不幸な中でも見出すには、つまり人から崇められるほどに意義あるものとするためには、神の一部が分け与えられたものと解するほかなかったのではないか。おそらくその結論はどこかで既に掴んでいた筈であり、むしろ掴んでいなければ耐えられなかったのだと言えるかもしれない。その確信を得たのが本居宣長の著書であり、そこに自らの人生の意味を見出すことが出来た。であるから、夢の中だろうが何だろうが、宣長の意志を直接引き継ぐ存在に自らを置き直さなければならなかったのではないか。篤胤の説は奇怪でそのまま信ずることは出来ないが、篤胤の身になってみれば、むしろ切実な思想であったと思われる。

世界は自動で認識される。認識の在りようは、時代精神、境涯その他によって定められるもので、意志が入り込む余地はない。もっとも、日頃の努力により一定の指向性をもって育てることができる可能性はある。それが生き方と呼ばれるものであろうか。もっともその指向について、時代精神などからすっかり離れて自由に発想することは無理である。個人の意志にあっても、認識が造り出したものである。認識が造り出したものが、認識を評価するという無限の入れ子構造にある。喩えるならば合わせ鏡であって、私という存在を理解しようとしても容易に辿り着かない、もどかしさの原因は多分ここにあると思う。
個人に世界が自動で認識されるとは、世界に固有の意味を与えるものであり、個人の意志によらないとなれば、人によっては神と呼んでも差し支えないだろう。無限の神の存在を信じても構わないわけであり、同時にそこに世界の不思議を認めることになる。
世界の中には他者がおり、世界認識は他者の魂を認めることに他ならない。人の魂は、それを認める他者の中にある。自らの魂について言うなら、他者の魂の認識の中にもある。合わせ鏡の中にあっては、自らの魂を正にこれとして認識することは出来ないのだから、他者の魂が認識する自己の魂にしか、通常の意味で出会うことは出来ないことになる。

そうなると、自分という人間の生きる意味は何かという問いは、他者の魂にあって意味のある存在かという問いと同義である。他者の魂にとって自らの魂が大切にされているか否か。つまり人間の尊厳は、他者の尊厳にかかっていることになる。些か奇妙に写るかもしれない結論だが、他者の尊厳によってこそ、自らの尊厳は確保されるものであり、アプリオリに得られるものではないことになる。生きる意味が自ずからある訳ではなく、他者との間で良く生きることが大切で、これによって自身の人生にも意味を見出せることになる。
少し穿った言い方をすれば、人間の尊厳は、自らの尊厳を造り出す可能性があるところにある。そうしてそれは、世界認識の在りようをどのように育てるかにかかっていることになる。さらに付け加えれば、他者の魂の中に自己の魂があるなら、自己の魂の存在は自己の生死とは関連がない。自己の生死と関係がないなら、永遠と呼んでも差し支えはあるまい。

このような文脈で見直せば、魂は神から分かち与えられているものであり不滅であって、大切に祀られるべきものであるという考えを、必ずしも奇妙と断言することはできなくなる。繰り返しになるが、このような考え方をせざるを得なかったことが切実に思われる。

さて、その上で一つの問いは、信ずるということである。
篤胤の信じたことが切実であったとしても、現代においてこれを真実であると考えることは容易ではない。宣長が戒めたように現代の考えで過去の人の心を推し量ってはならないのであり、その戒めは然りもっともだが、一体、信ずることの正しさは何に由来するのだろうか。
篤胤を変質者というなら宣長は狂信者と言っても良いほどだが、好信楽を是とした宣長をそんな風に言う人はいないだろう。信ずることが狂信に墜ちないためにはどうすれば良いか。

認識の正しさを、当該認識の中において証明することは困難である。この意味からは誰もが狂信者になり得ることとなる。正しさの最低限の条件は、破綻しないことであろう。この点で自らの信念は、実は頼りにならない。破綻が容易にそれと気付かないためである。そうなると、認識した他者の魂を信ずることが安全弁となり得るかもしれない。
私が持っている他者の魂が確かなものか否かを問うことは可能だろう。人でなくても良いかもしれない。桜を愛していると信ずるなら、桜の心を信ずるほかない。桜の心とは、桜が美しく咲く、そのありのままをいう。何かを信ずるとは、きっとこのようなことだろう。
そうなると、逆説的に聞こえようが、自分を信じないことが信ずることに通じるのではなかろうか。あるいは如何に徹底して自己を捨て去るかが肝要となる。加えてこれも喩えだが、きちんと死に切らないと、きちんと生きることは難しいということだろうか。

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