徳丸無明のブログ

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虚構と現実の狭間で虚構と現実を考える・前編

2017-09-04 21:23:32 | 雑文
世間を騒がせる殺人などの凶悪犯罪を未成年が犯した際、その犯人が暴力的でグロテスクな描写を含むゲームに耽溺していたり、残酷描写のある漫画やDVDを所持していた場合、属に有識者と呼ばれるお歴々が決まって口にする定型文句が「虚構と現実の区別がつかなくなった故の犯行」というものだ。(もっとも最近はそういう話を聞かない。ただしそれは、有識者の意見が変わったのではなく、犯罪の傾向や報道の切り口のほうが変化しているのだろう)
小生はずっと前からこの解釈に疑問を感じていた。とある精神科医だったと思うが、この定型句に対し、「虚構と現実の区別がつかなくなるほど意識が混濁していれば、目的を持った行動を取ることすらできなくなるので、殺人など犯しようがない」との反論を加えていた。おそらくそれは正しいのだろう。しかし、何か足りない気がする。この(たぶん)精神科医の反証だけでは、肝心要の部分を言い落しているのではないかという気がするのだ。
また、小生は10代の頃、「漫画だろうがゲームだろうが、あるいはインターネットだろうが、現実の一部としてこの世界に存在しているわけで、それを虚構と呼ぶのはおかしいのではないか」と思っていたのだが、それも部分的には正しくても、本質的な反論にはなっていないのではないかと今は思う。
「ゲームばかりしていると虚構と現実の区別がつかなくなり、犯罪行為に手を染めてしまう」という、一見もっともらしく、あまりにわかり易いこの説明は、現代を生きる我々が陥りやすいある種の思考の落とし穴の産物なのではないか。そんな気がするのである。
まず、「虚構と現実の区別がつかなくなる」という言明が成立するには、その前段として、「虚構」と「現実」が明確に区別されていないといけないわけだが、この2項の間に確たる分割線を引くことはできるのだろうか。

仮に物理的実体を備えているものを現実とし、それ以外の「現実に在らざるもの」を虚構としてみよう。
すると、漫画やゲームのみならず、頭の中で「今晩のおかずは何にしようかな」と考えることもまた虚構になってしまう。人間は未来を予測し、計画を立てて行動する生き物である。未来に思いを巡らせてこそ合理的で建設的な行為が可能となる。我々が何事かを成す、というのは、言い換えれば虚構を現実化する、ということである。また、虚構の助けを借りてこそ現実はより理想的なものとなる、と言うこともできるだろう。(余談になるが、その意味で、現政権の中枢にいる連中がよく使う「仮定の質問には答えられない」という言い訳は実に不愉快である)
一概に、虚構を「現実社会に混乱を及ぼすもの」と決めつけるのは乱暴なのではないだろうか。
また、漫画や映画、小説などのフィクションについてよく考えてみると、虚構と現実を区別することの難しさが見えてくる。
「創作された物語=虚構」と思っている人は少なくないだろう。しかし、それらフィクションであっても、現実の世界の延長線上に創造されたものである。
「これはフィクションです。実在の人物、団体等とは関係ありません」。しかし、フィクションは一から創り出されるものではない。固有名を持った人物・団体・組織は架空の存在として描かれる。だがその登場人物は、現実の人間と同じ身体構造を備えた生物であって、その物語オリジナルのヒューマノイドではない。架空の野球チームや会社が出てくることがあるが、団体や組織の形成の仕方もまた現実の規則にのっとっている。(その他重力の法則だとか、太陽や空気の存在だとか、生と死の概念だとか、現実世界が成立するための諸々の前提条件も当然のものとしてフィクションの中で生きている)
SFやホラーなどは現実とかけ離れた世界設定だったりするが、それだって現実の発展形、あるいは部分的に現実の姿を変容する「もしこんな世界があったら」という形で創作されるのが普通である。つまり、現実を下敷きにしているという点は同じなのであって、どれだけ突拍子もない作り話であっても、現実と一切の共通点を持たない、ということはあり得ないのだ。もしも、現実と全く関連性を持たない物語が創造されたとして(理論上は不可能ではない)、ほとんどの人間はその物語を理解することができないだろう。言い換えれば、フィクションは現実の延長線上にあってこそフィクションとして理解されうる、ということである。
また余談になるが、一昔前のSF作品が「◯◯の到来」「◯◯の誕生」を予見していたとして、SF作家の想像力が称賛されることがあるが、小生はこれはそんなに凄いことだとは思わない。SF的想像力もまた現実世界の発展形であり、現実を踏まえ、その延長線上にどんな未来が訪れるかに思いを巡らせれば、来るべき世界を描写するのはそんなに難しいことではないと考えているからだ。
そして、フィクションが現実に影響を与え、現実を動かすことがあれば(それは実際「聖地巡礼」のような形で毎日のように起きている)、それは「現実の虚構化」と言うこともできるだろう。現実を反映して創作された虚構(フィクション)が新たな現実を作り出す。さて、虚構と現実の境界線はどこにあるのだろう。

では、設問を「虚構と呼ばれるものはいつ誕生したか」に変えてみよう。
中沢新一の『芸術人類学』によれば、10万年前にアフリカに誕生した現生人類には、それまで接続されていなかった脳内のニューロン同士の間を媒介するネットワークがつくられ、それによって心の中に新たな領域が出現したという。
新たな接続が生まれたということは、これまで無関係に並列して存在したもの同士の間に関係が生まれたということである。それによって比喩や象徴といった、高度な脳の働きが生じ、「芸術」や「宗教」といった文化が生まれたが、同時に「妄想」や「狂気」も誕生してしまったという。(ただ、人間以外の生物からしたら、芸術や宗教も妄想や狂気でしかないだろう。と言うより、人間の妄想や狂気のうちで、社会的に有用な対象にのみ芸術や宗教といった呼称を与え、それ以外と弁別を図っている、というのが正確なのだと思う)
人間は、この脳の変化によって、現実世界の中に、実在を超える「何か」を見出すようになった。たとえば、リンゴ。リンゴを糧とする人間以外の生物は、リンゴに対し、食料以上の意味を見出すことはない。それはただ飢えを回復するための対象であり、ひとたび空腹が満たされてしまえば(食糧を備蓄する習性を備えた生物以外は)もう見向きもしない。しかし人間は、それから季節の移ろいを感じ取り、人知を超えた何者かの意図を直感し、香りに恍惚とし、鮮やかな色彩から創作意欲を掻き立てられる。対象から過剰な意味を汲み取ってしまう。それが人間である。
中沢は芸術と宗教にしか言及していないが、それ以外にも言語がこの脳内の変化によってもたらされたと見ていいだろう。喉頭の振動によって発せられる「i‐nu」という音の連なりと、太古から人類の傍らにいた愛玩動物との間には、もともと何の因果関係もない。言語もまた、無関係のもの同士の結びつけによって成立している。
母国語を覚えた幼児にせよ、外国語を学んだ者にせよ、言語を習得した者がまず最初に夢中になるのが言葉遊び、すなわち「ダジャレ」である。「音の近さ」によって意味のかけ離れた事物同士を結び付けることに、人は快感を覚える。これもまた比喩や象徴の産物であり、ここから詩や俳句や小説などの文化が誕生した。

(後編に続く)
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虚構という言葉が違うのかなと (麦)
2017-09-05 07:57:21
完全なる虚構
で思い出すのは
スタンリー・キューブリックの
2001年宇宙の旅のクライマックス
ストラヴィンスキーによる前衛的な音楽と、脈絡が見つけづらい映像で
何を見せられているのか理解できなかった。
おっしゃるようにこういった虚構は問題視する必要はないかと思います。

しかしながら、私は
問題視される「虚構と現実」における虚構と言うのは 
現実をベースに、さらなる魅力を求めて人の手が加わったもの、調整、加工された仮想現実
もしくは視覚情報のみによる根拠なきイメージを指すのだと思っているのです。

私は今
これらと現実の混同に関しては非常に危惧しています。

「この物語はフィクションです」
と明記しなければならないのは
すべての虚構があくまで現実をベースに加工を加えてあるからであり
このドラマから連想される実在の団体はこんなことしてませんよ、と言う念押し。

聖地巡礼ブームを盛り上げたガルパンのようなアニメなら
この街に戦車は走ってませんと書くべきでしょうが、そこまで混同する人は流石にいない。
しかし、現実の風景が写し取られた背景をバックにかわいい女の子達が戦車に乗って町を壊しながら大活躍する舞台になった場所に行ってみたい気持ちはわかります。
ドラマのロケハンなどもそうですよね。
実際に行ってみたところでキムタクはいないのに、みんなで繰り出していた。
想像力で補填する作業には現実がベースであればあるほど面白い。

人の微調整が加わっていることを忘れないことが、
虚構と現実の区別なのだと思うのです。

可愛い女の子大好きです!
と。豪語する男子によく話を聞くと
初音ミクが大好き
だけど
生身の女の子は全く眼中に無いという
りんごが好き!という小学生に
りんごを出すと、
あ、これは無理
という
話をよく聞けば
好きなのはアップルパイ
本物のシャリシャリした酸っぱいりんごは一口も食べられない

少年誌の中には
全身から大量出血しながら、雄叫びを上げて全力疾走し大太刀を振り上げるヒーローがいれば
ボッコボコにされて。全身複雑骨折してそうな暴力を受けても立ち上がるヒーローもいる
私は当時これは由々しきことだと思いました
平素暴力を受けていない平成の子供たちはこれを読むと。ここまでしても人体は平気だとなんとなく想うのではないかと。
そこまで子供が馬鹿でないにしても

毎年川で溺れる子供が絶えないのは
穏やかな川の水面を川のイメージとして受け取り
実際に入ったとき。その思いもよらなかった水量と流れの強さに飲み込まれてしまう。

実際に普段喧嘩をしない女性は 
怒りに任せて子供に暴力を振るうときケリを入れるのだそうです、
ダメージを与える=キック
というなんとなくの、視覚から入った情報による行動ですが
蹴りと言う身体の中で一番筋肉量の多い大腿による暴力が
入ってしまった時に結構な怪我をさせることを知らない女性は多い。

ネット社会が進み、視覚情報はとても重要な要素となりました
美味しそうな菓子
世界の絶景
素人でも簡単に加工が可能になり
見目形のうるわしい画像が幅を利かせ氾濫する

裏に人間の調整が入った現実、なんとなくのイメージ(虚構)を受け取り続ける日々の中で
確固たる現実との違いをきちんと判別している人がどれくらいいるのだろう
と、時々思うのです
麦さん江 (徳丸無明)
2017-09-06 00:19:26
後編まで読んでもらえばご理解いただけると思いますが、僕と麦さんの考えは違っていますね。
本文中には書いていませんが、そもそも人間は現実と呼ばれるものをありのままの姿で認識しているわけではありません。
視覚情報であれば、網膜にうつしとった映像を、信号のような情報に置き換えて脳に送信する。情報を受信した脳は、それを画像に変換する。その画像こそが人間が現実と呼ぶものですが、眼球から受信して脳で把持するまでの間に、いくらかズレが生じてしまう。
犬の網膜は人間のそれほど色の光を感知できないため、犬が見ている世界はモノクロだといいます。
それと同じように、人間もまた身体構造上の制約があり、その制約の範囲内でしか現実を把持することができない。
人間が認識している現実は、「現実のように思えるもの」でしかないのです。
フィクションのイメージが氾濫しているのであれば、脳に取り込まれた現実の情報は、そのイメージと照会されることでより大きく変容されるでしょうが、一度脳にとりこまれた情報は、現実由来のものであれ、フィクション由来のものであれ、截然と分離することはできないのではないでしょうか。
二次元の女の子が好きで、三次元には興味ない、というのも、僕はそんなに問題とは思っていません。
「女になんか興味ねえ」という男は、今も昔も一定数いたと思います。ただ昔は、その場合の捌け口が酒と博打ぐらいしかなかったのに対し、今は二次元があると。じゃあ酒と博打よりは二次元がいいという男は二次元に向かうと。
そして、昔の男は女に興味がなくても、家の存続やら世間体のために否が応でも結婚していた。それが今ではそんな圧力はない。
それと、フィクションの氾濫によって生身の身体感覚を喪失しているという点ですが、機械化や都市化の影響で体を使う機会が減っていることが感覚喪失の原因であって、フィクションによるものではないと思います(フィクションの享受に時間を取られているぶん体を使う暇がない、という意味ではフィクションの影響と言えるでしょうが)。
川で溺れる子供もまた、今も昔も変わらずいたと思います。昔は今ほど子供が大切にされていなかったので、かえって昔のほうが溺死者は多かったかもしれません。今は子供が大切にされているため、溺死が悲惨な事故として選択的に報道されるので、それが目立って意識される。
子供のケンカ(殴り合いのそれ)をすぐに止めてしまうと、どこまでやればやりすぎになってしまうのか、という感覚が理解できないまま成長してしまうので、ケンカはすぐに止めずにある程度やらせておく、という教育方針を聞いたことがあります。
それもひとつのやり方だとは思いますが、子供のケンカであっても一生残るケガを負ってしまう可能性はあるわけで、どこまでやらせて、どの時点で止めるかという判断も難しいとも思います。
それよりも暴力をどう管理するか、他人を傷つけることへの抵抗感をどう育てるか、を考えたほうがいいのではないでしょうか。

あともうひとつ、返信ついでで申し訳ないのですが、訂正を入れさせてください。
本文中に「中沢は芸術と宗教にしか言及していないが、それ以外にも言語がこの脳内の変化によってもたらされたと見ていいだろう。」という一文がありますが、現生人類以前の人類、ネアンデルタール人や旧人と呼ばれる人たちも、すでに言語は獲得していたようです。
現生人類の言語が「比喩や象徴を獲得した言語」で、それ以前の人類の言語が「比喩や象徴のない言語」というのが正しいようです。
訂正してお詫びします。
ご迷惑おかけしました。 (麦)
2017-09-07 16:18:11
コメント入れてしまった後に
まったく低い次元で全く違う持論を展開している事に気が付きまして
削除をお願いしようかと思いましたが
こんな長文を読ませた後に、なかったことにしてくれと言うのもどうなんだ
ということで
沙汰をお待ちしておりました。
広い心で対応してくだいまhしたこと
お時間を拝借してしまったこと
お詫び申し上げます。

>人間が認識している現実は、「現実のように思えるもの」でしかないのです。

つまるところ
そうなのですよねえ・・。

私が言いたかったのは
今日と現実の区別がつかなくなった犯罪
と言うのは

脳内変換された現実(思い込み)と
大多数が共通認識する事実
の間のズレを微調整できなくなった挙句の犯罪
だと思っているという事でした。

後編読みます
今回は本当にすみません。
麦さん江 (徳丸無明)
2017-09-07 23:11:19
別に誤っていただくことはないですよ。
僕は自分の意見は正しいと考えてはいますけど、それはあくまで主観に過ぎないし、絶対的な心理とまでは思っていません。
また、この先知識と経験を積んでいく中で考えが変わってくることもあるはずだから、今の意見はあくまで暫定的なものでしかないとも思っています。
だから、自分の意見を人に押し付けるつもりもなくて、「いろいろある見解の一つ」、もしくは「自分でものを考えるきっかけ」として読んでいただければそれでいいのではないかと。
僕は自分と異なる意見であっても、それが他人を傷つけるような有害な意見でない限りは尊重するつもりです。
ですので、麦さんがどうしても僕の意見に同意できない、自分の考えのほうが正しいと思う、というのでしたら、それはそれでいいのではないかと思います。

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