毎日新聞社が発行する週刊点字新聞「点字毎日」が11日、創刊90年を迎えた。1922年の発刊以来、視覚障害者20+件に必要な情報を提供し続け、社会へ開かれた窓としての役割を果たしてきた。今や新聞社が発刊する世界でも珍しい点字新聞となった「点毎」の創刊を提唱したのが、英国で貿易商を営む傍ら、視覚障害者20+件の福祉や教育を研究していた好本(よしもと)督(ただす)だ。「日本盲人の父」と呼ばれる人物だが、生涯や人柄はほとんど知られていない。彼を知る数少ない人たちの証言とわずかに残る資料から、その人物像を探り、「点毎」創刊に至る秘話を紹介する。
◆内村鑑三と出会い転機
好本家は岡山県和気郡の庄屋で、父忠璋(ただあきら)は西南戦争に従軍した元軍医。名家の長男として好本は1878年、現在の大阪市中央区で生まれた。網膜色素変性症による弱視だった好本は、東京高等商業学校(現一橋大)入学のため上京、人生を変える人物と出会う。思想家の内村鑑三だ。
内村の思想と聖書の教えは、大きな影響を与えた。好本を知る人たちが必ず口にする言葉がある。「敬虔(けいけん)なクリスチャン」。岡山市に住む義理のめい・好本和子さん(88)は、夫の寛さん(故人、元岡山大理学部長)との婚礼で初めて夫の伯父と対面した。不自由な夫の足に「神様が現れてらっしゃるから」と言葉をかけてくれたという。
恵まれた家庭に生まれた好本自身、「目が不自由なのは神の御業(みわざ)」とする聖書に救われたのではないか。
更に「汝(なんじ)の隣人を愛せよ」との教えに、弱視である自身の隣人は盲人だとの思いに至り、その救済に注力した。
◆渡英し起業、福祉伝える
1900年に大学を卒業した後、英国・オックスフォード大で神学を学んだ。帰国後は早稲田大で初の視覚障害教員となり、英国の先進的な盲人福祉や教育を紹介した著作を発表。盲人の全国組織も結成したが、資金調達に行き詰まり、職を辞して渡英する。
08年に貿易会社「オックスフォードハウス」を設立。もうけの全てを日本盲人の救済に充て、後の「点毎」初代編集長・中村京太郎や日本ライトハウス創設者・岩橋武夫の留学などを支援した。
このような取り組みは内村の日記でも「神と人類と殊に助けなき盲人の為に共に語って話題のつきざる一人の日本人」と高く評価された。
「すごい紳士。あんな方は会ったことがない」と力を込めるのは、71年から14年間、「点毎」編集長を務めた銭本三千年(みちとし)さん(81)。55年に東京であったアジア盲人福祉会議で初めて好本と会い、英国でも再会した。
厳格な面もあった。「オックスフォードハウス」神戸支店に丁稚(でっち)奉公し、後に「最後の相場師」と称された是川銀蔵の伝記には「仕事やしつけの面では、一切の妥協を許さない厳格な人」との回想がある。
◆地位向上へ「罪滅ぼし」
12年、好本は英国で社命留学中の大阪毎日新聞記者、河野三通士(みつし)に「何かと罪作りをしている新聞記者の罪滅ぼし」として、「点毎」創刊を提案する。発想のヒントの一つが英国にあった。同国の新聞社・デイリー・メール社が06〜15年、点字の週刊新聞を発行していたのだ。
好本はこの新聞を知っていたようだ。盲人の社会的な地位向上には、知識や教養を伝える点字による出版が必要と確信していたことから、点字新聞発行を思い描いたのではないだろうか。
64年、好本は「第1回点字毎日文化賞」を受賞。知らせを受け「私のしたことはただ、英国のいいところを見て、それを報告し、盲人の福祉、教育が進められるよう励ましただけだ」と話した。
73年、95年の生涯を閉じた好本。彼の言葉から生まれた「点毎」は、確かな情報を点字で届ける新聞として、読者と共に歩み続けている。
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◇主な事業
� 点字毎日は新聞発行以外に、盲学校の教科書出版などさまざまな事業を行ってきた。1928年に始まった「全国盲学校弁論大会」は視覚障害者20+件の声を社会に届ける役割を果たし、10月に岡山市で第81回大会が開かれる。64年には視覚障害者20+件の文化や福祉の向上に貢献した人を表彰する「点字毎日文化賞」がスタート。ほぼ半世紀にわたり、視覚障害関係者の目標になってい
2003年に創設された「オンキヨー世界点字作文コンクール」は今年、第10回の節目を迎えた。当初は国内だけだったが、アジアや太平洋地域、中東、ヨーロッパ、北米・カリブ地域と対象を広げ、点字を通じて国際社会をつなぐ懸け橋となっている。今月末まで作品を募集しており、詳しくは点字毎日「作文コンクール係」(06・6346・8386)へ。
� また、今回の90周年を機に、創刊からの点字毎日のバックナンバーのデータ化事業も開始した。紙の劣化が進み保存が急務である大正期のものから着手し、日本の視覚障害者20+件を巡る近代福祉史の貴重な資料として次代へ引き継がれ
日本盲人福祉委員会・笹川吉彦理事長の話
◇盲人文化の灯、燃やし続けて
東日本大震災は、東北地方や北関東地方に大きな被害をもたらした。特に巨大津波は2万人に近い死者・行方不明者を生じさせた。テレビやラジオは連日、被害の状況を報道し、世界中に大きなショックを与えた。
その報道の中には、災害に最も弱い立場にある目の不自由な人々の情報はほとんどなかった。私たちが最も気にしていた障害者20+件の被害状況は、いまだに明らかにされていない。
一方、点字毎日は現地に記者を派遣し、被害状況を把握するとともに、多くの紙面を割いて被害者の実態や生の声を詳細にわたり、報道してくれた。私も立場上、幾度も現地に赴き、被災者と懇談したり被災者の家庭を訪問し、その実態を把握すべく努めたが、点毎のそれにはとうてい及ぶべくもなかった。おそらく、点毎愛読者の皆さんも紙面を指で追いながら、その惨事に涙したに違いない。
今、点字毎日には「年表に見る90年の歩み」が連載されている。その記事は克明に記録をとどめており、行を追うごとに歴史の重さが指先に伝わってくる。特に印象的なことは、目の不自由な者までも戦争要員として駆り出した、あの忌まわしい第二次世界大戦のことである。それにしても、極端に物資不足に陥った戦中戦後に、1回の休刊もなく、点字毎日を発行し続けた関係者のご労苦に深く感謝の意を表したい。
晴盲を問わず文字離れと言われる今日、盲人文化の灯、点字毎日を絶やすことなく、発行し続けてくださることをただただ、こいねがうばかりである。
毎日新聞 -2012年05月11日
◆内村鑑三と出会い転機
好本家は岡山県和気郡の庄屋で、父忠璋(ただあきら)は西南戦争に従軍した元軍医。名家の長男として好本は1878年、現在の大阪市中央区で生まれた。網膜色素変性症による弱視だった好本は、東京高等商業学校(現一橋大)入学のため上京、人生を変える人物と出会う。思想家の内村鑑三だ。
内村の思想と聖書の教えは、大きな影響を与えた。好本を知る人たちが必ず口にする言葉がある。「敬虔(けいけん)なクリスチャン」。岡山市に住む義理のめい・好本和子さん(88)は、夫の寛さん(故人、元岡山大理学部長)との婚礼で初めて夫の伯父と対面した。不自由な夫の足に「神様が現れてらっしゃるから」と言葉をかけてくれたという。
恵まれた家庭に生まれた好本自身、「目が不自由なのは神の御業(みわざ)」とする聖書に救われたのではないか。
更に「汝(なんじ)の隣人を愛せよ」との教えに、弱視である自身の隣人は盲人だとの思いに至り、その救済に注力した。
◆渡英し起業、福祉伝える
1900年に大学を卒業した後、英国・オックスフォード大で神学を学んだ。帰国後は早稲田大で初の視覚障害教員となり、英国の先進的な盲人福祉や教育を紹介した著作を発表。盲人の全国組織も結成したが、資金調達に行き詰まり、職を辞して渡英する。
08年に貿易会社「オックスフォードハウス」を設立。もうけの全てを日本盲人の救済に充て、後の「点毎」初代編集長・中村京太郎や日本ライトハウス創設者・岩橋武夫の留学などを支援した。
このような取り組みは内村の日記でも「神と人類と殊に助けなき盲人の為に共に語って話題のつきざる一人の日本人」と高く評価された。
「すごい紳士。あんな方は会ったことがない」と力を込めるのは、71年から14年間、「点毎」編集長を務めた銭本三千年(みちとし)さん(81)。55年に東京であったアジア盲人福祉会議で初めて好本と会い、英国でも再会した。
厳格な面もあった。「オックスフォードハウス」神戸支店に丁稚(でっち)奉公し、後に「最後の相場師」と称された是川銀蔵の伝記には「仕事やしつけの面では、一切の妥協を許さない厳格な人」との回想がある。
◆地位向上へ「罪滅ぼし」
12年、好本は英国で社命留学中の大阪毎日新聞記者、河野三通士(みつし)に「何かと罪作りをしている新聞記者の罪滅ぼし」として、「点毎」創刊を提案する。発想のヒントの一つが英国にあった。同国の新聞社・デイリー・メール社が06〜15年、点字の週刊新聞を発行していたのだ。
好本はこの新聞を知っていたようだ。盲人の社会的な地位向上には、知識や教養を伝える点字による出版が必要と確信していたことから、点字新聞発行を思い描いたのではないだろうか。
64年、好本は「第1回点字毎日文化賞」を受賞。知らせを受け「私のしたことはただ、英国のいいところを見て、それを報告し、盲人の福祉、教育が進められるよう励ましただけだ」と話した。
73年、95年の生涯を閉じた好本。彼の言葉から生まれた「点毎」は、確かな情報を点字で届ける新聞として、読者と共に歩み続けている。
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◇主な事業
� 点字毎日は新聞発行以外に、盲学校の教科書出版などさまざまな事業を行ってきた。1928年に始まった「全国盲学校弁論大会」は視覚障害者20+件の声を社会に届ける役割を果たし、10月に岡山市で第81回大会が開かれる。64年には視覚障害者20+件の文化や福祉の向上に貢献した人を表彰する「点字毎日文化賞」がスタート。ほぼ半世紀にわたり、視覚障害関係者の目標になってい
2003年に創設された「オンキヨー世界点字作文コンクール」は今年、第10回の節目を迎えた。当初は国内だけだったが、アジアや太平洋地域、中東、ヨーロッパ、北米・カリブ地域と対象を広げ、点字を通じて国際社会をつなぐ懸け橋となっている。今月末まで作品を募集しており、詳しくは点字毎日「作文コンクール係」(06・6346・8386)へ。
� また、今回の90周年を機に、創刊からの点字毎日のバックナンバーのデータ化事業も開始した。紙の劣化が進み保存が急務である大正期のものから着手し、日本の視覚障害者20+件を巡る近代福祉史の貴重な資料として次代へ引き継がれ
日本盲人福祉委員会・笹川吉彦理事長の話
◇盲人文化の灯、燃やし続けて
東日本大震災は、東北地方や北関東地方に大きな被害をもたらした。特に巨大津波は2万人に近い死者・行方不明者を生じさせた。テレビやラジオは連日、被害の状況を報道し、世界中に大きなショックを与えた。
その報道の中には、災害に最も弱い立場にある目の不自由な人々の情報はほとんどなかった。私たちが最も気にしていた障害者20+件の被害状況は、いまだに明らかにされていない。
一方、点字毎日は現地に記者を派遣し、被害状況を把握するとともに、多くの紙面を割いて被害者の実態や生の声を詳細にわたり、報道してくれた。私も立場上、幾度も現地に赴き、被災者と懇談したり被災者の家庭を訪問し、その実態を把握すべく努めたが、点毎のそれにはとうてい及ぶべくもなかった。おそらく、点毎愛読者の皆さんも紙面を指で追いながら、その惨事に涙したに違いない。
今、点字毎日には「年表に見る90年の歩み」が連載されている。その記事は克明に記録をとどめており、行を追うごとに歴史の重さが指先に伝わってくる。特に印象的なことは、目の不自由な者までも戦争要員として駆り出した、あの忌まわしい第二次世界大戦のことである。それにしても、極端に物資不足に陥った戦中戦後に、1回の休刊もなく、点字毎日を発行し続けた関係者のご労苦に深く感謝の意を表したい。
晴盲を問わず文字離れと言われる今日、盲人文化の灯、点字毎日を絶やすことなく、発行し続けてくださることをただただ、こいねがうばかりである。
毎日新聞 -2012年05月11日