ALTER EGO

La vie est belle sauf la mienne?

大学病院

2009年03月20日 | Physique
本日の予約患者数3459人、危険ですから(開院の時間がきて)ドアが開いても走らないでください、だって。走る人がいるんですね。元気だ。ラッシュ時の駅みたいに人が行き来していて、待合室はちょっとしたコンサートホールのようです。

診療データは全部ではなくごく一部だったらしく、事前に記入していった問診票も生理の記録もあまり役には立たなかったようで、「事情聴取」に終始。そうとわかっていたらちゃんとメモを用意していったのに。また MRI を撮ることになりました。それなら前の病院でもできたのに。

なんて不平たらたら。

ガンの疑いはあまりないらしいです。なんだかめんどうになってきましたが、とりあえず MRI は撮ってもらってきました。外部委託とやらで、別のクリニックへ。そしてここでもまた事情聴取。検査料だけかと思ったら、初診料、診察料もとられました。何なんですかもう。

と、またしても不平。

とりあえずセカンドオピニオンは聞けますから、まったく意味がないわけではないんでしょう。

父の49日です

2009年03月14日 | Ma vie
仏式で「ちゃんとした」お葬式をしなかったものに何の意味があるのかわかりませんが。と、思っていたら母から電話。近くのお寺に頼んでお経をあげてもらえることになった。小さな仏壇も買った。けっきょく位牌も戒名もありらしいです。

無宗教だった父は苦笑いしているかもしれません。でもこうした「儀式」は父のためであると同時に、残された母のためでもあるのでしょう。母が満足ならそれでけっこう。

49日には帰ってくるのかとは聞いてきませんでした。どんなに帰って来て欲しくても、けっして自分からは言わない/言えない。プライドの高い人なのです。話題にならないのをいいことに帰らないわたし。もちろん父の冥福を祈らないわけではないし、法事を軽視するつもりもないのですが。

というわけで、またしばらく罪悪感となかよしです。

ガンかもしれない

2009年03月07日 | Physique
CA125の値が200台から下がりません。いちどこれを持って大学病院に行って診てもらってくるようにと、先生が紹介状と診療データをまとめて待っていてくれました。めったにないことだけど、子宮筋腫や内膜症がガン性のものに変化することもあるらしいです。あるいは筋腫や内膜症だと思っていたらガンだったこともある、だっけ?どっちでもいいです。たぶん手術になるでしょう。子宮も卵巣も取ってしまえばすっきりするからと。

気が重いです。いっぽうで ça me fait rêver. Si c'était le cancer, et si c'était mortel, je pourrais partir? comme ça "légalement", sans aucun effort? Ce serait super même si c'est pas terrible de mourir à l'hôpital.

これだけは言っておかなくちゃ。

1. もしわたしがガンだったら、必ず告知してほしい。周囲の人間だけ知っていて知らないのはわたしだけ、というような人をバカにしたようなことはやめて欲しい。自分が何の病気なのか、今している治療行為は何をどうするためのものか、きちんと知っていたい。

2. もしわたしが死んだら、臓器をすべて提供 and/or 献体をする。役立ててください。

3. もし手術に失敗したりして「たいへんなこと」になったら、いわゆる「延命治療」はやめて欲しい。よけいなお世話です。

それにしても、年明け早々いろんなことが続きますね今年は。Malheur sur malheur? 


母を愛せないなんて

2009年03月06日 | 
子供じみていましたね。反抗期じゃあるまいし。少し落ち着きました。

これでもふだんはちゃんと割り切れているつもりなんです。愛せないものは愛せないのだから罪悪感を抱かなくてもいい、母は母の思う通りに生きているだけだ、子供の嫌いな女を母に持ったのはわたしの運が悪かったのであって、母が悪いわけではないと。だから恨んではいないし、憎んでもいない。楽しい思い出がひとつもない子供時代を思うと少し悲しい気がするけど、それもしかたのないことだと。

以上、言い訳です。

母を愛せない

2009年03月02日 | 
父が亡くなって1ヶ月たって、やっと母に電話をした。母の声が聞きたかったとか、ひとりでどうしているか心配だったとかいうわけではない。娘として「しなければならない」だろうと考えたからしたまで。ただ義務感からだけでしたことはいつもそうだ。してもしなくても後悔する。そしてまいどおなじみ、このまとわりつくような苦い後味。

たとえこの世にわたしを送り出してくれた人であっても、愛されている、大切にされている、守られていると感じた記憶のない人間を愛したり大切にできるだろうか。守ろうと思えるだろうか。そんなことのできる人がいるのだろうか。

母の生き方をとやかく言うつもりはない。母は母なりに、ただ自分に正直に、忠実に生きてきただけだし、これからもそうやって生きて行くのだろうとは思う。Chacun à sa manière. それは認める。でもだからといって愛せるかというと pas toujours でしょ?それはまた別の問題。わたしにはできない。母をうとましいとしか思えない。

あなたはまちがっていない、それでいいと、誰かに言って欲しい。しかし、もしそんな人がほんとうに現れたら、まちがっているのはその人のほうだとわたしは考えるだろう。けっきょくのところ、罪悪感は消えない。自分を責めているのは、ほかの誰でもない、自分自身だからだ。

救いようがないですね。今日はここまで。