「聖書との対話」浜崎英一ブログ

聖書はもはや現代人には関係のないものなのか。わたしは今も、聖書との対話から再発見することことがあり、感動している。

「神のいのち」(13)

2017年07月13日 | 聖書の真理発見

「誰が死んだのか」

今年、2017年も半分終わりました。若い時と違って、後期高齢者となると、時間の過ぎる感覚が、だいぶ感じが違ってきます。
時間や時が、あっという間に過ぎる、そのスピード感が早まったというという感じです。
もう一つは、人生の終わりが近づいているという漠然とした感じです。
それだけに神のいのちについての関心が強くなったのかもしれません。

神のいのちについての話しですが、もう少し続きます。
これは、わたしもそうでしたが、意外と、多くのクリスチャンが頭の知識としては知っていても、
自分の現実として受け取っていない大切な霊的事実です。

主イエスを信じて、新しいいのちに生きる者とされているのに、
その新しいいのちに生きることを妨げるのは、古き人であり、アダムのいのちでした。
その古き人を支配し、影響与え、縛り、奴隷とする、その正体は、うちに宿っている罪でした。
その罪の問題の解決はどこにあるのでしょうか。
これこそ、キリスト教の神髄とも言えるテーマです。

何度も、取り上げていますが、次のみ言葉が問題の解決を教えています。
ローマ6:10-11
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、
キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、
キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。(口語訳)

ここに「罪に対して死んだ」という言葉が2回も出てきます。
誰が死んだのですか。
罪が死んだのですか。
罪が死んだのではありません。
キリストを信じたあなたやわたしが死んだのです。
一つは、キリストご自身が十字架で死んだのは、この罪に対してでした。
もう一つは、キリストを信じているあなたやわたしも、この罪に対して死んだのです。
キリストと共に死んだのです。
聖書はそう言っています。
何度も言いますが、罪が死んだのではありません。
その罪に縛られ、自由を失っていた人が死んだのです。
死んだ人間は、殴られても、けられても、何の反応もしません。

このみ言葉を信じ、このみ言葉の啓示が自分のものとなった人は、ハレルヤです。
これは単純に信じ受け取った人だけが分かる霊的な世界です。
しかし、分かっただけでは終わりません。変化が起こってきます。
新しいいのちに生きるという変化です。
復活のいのちです。
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