「聖書との対話」浜崎英一ブログ

聖書はもはや現代人には関係のないものなのか。わたしは今も、聖書との対話から再発見することことがあり、感動している。

「神のいのち」(17)

2017年07月17日 | 聖書の真理発見
「それはそれ、これはこれ」

わたしはこういう経験があります。もうだいぶ前の話です。
ある時、祈りについての、すばらしい内容の本を読んだことがあります。
祈りとはすばらしい、とその本を読んで、とても恵まれました。
ところが、本を読んで、恵まれたことで、もう祈ったかのように思っていたのです。
知識として分かったことで満足し、それを自分の現実、つまり満足な祈りが
出来ていないことと結びつけようとしなかったのです。

東の国の博士たちが、エルサレムにやってきて、
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と聞いた時、
ユダヤの王ヘロデは、祭司長や律法学者たちを呼び集めて、キリストはどこに生まれるのか、
と聞きました。
聖書に精通していた律法学者たちは
「それはユダヤのベツレヘムです」と、聖書の言葉を引用して、答えています。

クリスマスはまだですが、この話、覚えておられますね。
ところがです。
聖書のことをよく知っていた、その律法学者たちは、幼子イエスに出会うために博士たちと一緒に、
ベツレヘムに行こうとしませんでした。
この人たちは、聖書のみ言葉はよく知っていたのですが、
それを現実のことと結びつけようとしなかったのです。
それはまた、聖書の民でもあったイスラエルの人たちが、
救い主、メシヤ、キリストを受け入れなかったのと同じでパターンです。
それはそれ、これはこれと思っていたのかもしれません。

マタイ13:14
こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。…』(口語訳)

聖書に精通していても、イエス誕生の喜ばしい知らせ聞いても、
それはそれ、これはこれとしていた、あのユダヤ人律法学者たちの姿は、他人ごとではありません。
イエスが払ってくださった大きな犠牲、十字架の霊的な真理のことを知っていても、
現実の自分のことには結びつけようとしない人たちも、主の目には同じように見えるかもしれません。

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