?色の「ためいき」

ほんと世の中「わからない」ことばかり。ニュースを見ても「?マーク」が増えるだけ。そんな「?」を書き連ねてみました。

気軽にラーメン『でも』食べられるお店が少なくなっている理由は?

2014-05-08 16:08:58 | グルメ
結局、探していた「ラーメン屋さん」には巡りあわなかった。などというと、とてつもなく「ラーメン好き」のように思われそうだが、「嫌い」ではないが「スープがどうの、麺がこうの」という趣味はない。

いつも行っていた「中華屋さん」が閉店してしまい、その代わりに「気軽にラーメン『でも』食べられるお店」を探していただけのことである。

消費税増税を機に閉店したその「宝来」という「中華屋さん」は、まさしく「どこにでもある『中華屋さん』」だった。ちょっと古ぼけてはいるけど「普通に掃除の行き届いた店内」、塩味系のラーメンも「驚くほど美味しい」わけでもなく、かといって「なんじゃこれ」と思うほど「不味くはなく」、650円という比較的リーズナブルな値段もあって、「昼はラーメン『でも』食べるか」という気分に「ピッタリとはまる」お店だった。

かといって別に「宝来のオジサンとオバサン」と深い関係があったわけではない。もちろん、週に一度くらいは必ず行っていたので、それなりに雑談をしたことがあるが、「適度な距離」から踏み入れたことはない。今でも恰幅の良い白髪のオジサンの年齢やご夫人と思われるオバサンと、本当に夫婦なのかも、わからずじまいである。

だから、代わりの「中華屋さん」を探すのは、そう難しいことではないと楽観していた。「宝来」から駅に歩く途中には、ラーメン専門の「ラーメン屋さん」もある。しかし、ラーメン専門の「ラーメン屋さん」の一軒は、「コッテリ」で知られるチェーン店だが、何回か行っても「ラーメン」も「お冷や」も、なぜか必ずヌルイのが問題外で、もう一軒も「煮干臭い」のが鼻につくという弱点があった。

それだけなら「好み」の問題といえなくもない。しかし、どちらのラーメン専門の「ラーメン屋さん」も共通して、「沈黙のまま急いでラーメンをすすり、沈黙のまま急いで席をたつ」のが「ルール?」のようになっている点だけは「ここでは食べたくない」と思う切札になってしまっていた。

ところが、「ラーメン『でも』食べるか」のお店屋さんを探すうちに、ほとんどのラーメン専門の「ラーメン屋さん」では、「雑談『でも』しながら、ゆっくり味わう」のはご禁制になっていることを知った。なかには「スープが冷める、麺が伸びる」と注意される店もあるらしく、「○○『でも』」という中途半端な味わいかたは許されないようである。

それはそれで「一所懸命」と理解できなくもない。たしかに、ラーメンを作る側にとっては、けっして「客の回転」という売上ではなく、「真剣」に「一所懸命」味わって欲しいという思いがあってのことだろう。せっかく作ったラーメンを前に延々とお喋りされては「喋るなら別な場所に行け」となるのもわからないわけではない。

だが、「食べる」というのは、そんな「真剣」で「一所懸命」になるべきことなのだろうか。「食べる」ことに不可欠なのは「楽しむ」ことだろう。「真剣」に「一所懸命」とは正反対の「気楽」とか「和む」ことも、「食べる」ためには必要なはずだろう。たとえお喋りしていても、目の前のラーメンで「居住まいを正し」「真剣」で「一所懸命」に味わうこともあるだろう。それが「食べもの」の持つ説得力なのかもしれない。

しかし、いま街で目立つラーメン専門の「ラーメン屋さん」の多くは、「食べもの」の説得力よりも暗黙の「ルール(らしきもの)」が優先されている。「ラーメン『でも』」とか「蕎麦『でも』」という曖昧さは許されず、「真剣」で「一所懸命」味わうことを強制されているような気がしてならない。

たしかに、そんな「食べかた」もアリだろう。しかし、毎日の食事がそれでは息がつまってしまいかなない。曖昧で無目的な「○○『でも』」という「食べかた」だって尊重されてもいいのではないだろうか。

もっとも、「ラーメン『でも』」と選んだラーメンが、一杯1000円では、「真剣」で「一所懸命」にならざるをえないのも事実だが.....。


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