散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

原体験、旧制二高時代の自由な生活~永井陽之助の思考方法(1)

2014年09月23日 | 永井陽之助
何処まで辿れば原体験に出っくわすか?良く判らない。
しかし、“永井政治学”をより良く理解するには、先ずは、ここから始めなければ、と思うようになった。

勿論、本人から話を聞くことは誰も出来ないし、関係者から口述史を取材することも現実にはできない。従って、永井の書いたものから推測を含めて理解する以外にない。そこで参考にするのは、以下の二点だ。
1)『座談会・哲学の再建』(中央公論1966/10)
2)『二十世紀と共に生きて』(「二十世紀の遺産」所収、文藝春秋社1985)

そこから抽出したのは、以下の三点だ。本記事では、1)について述べる。
1)旧制二高―社会的圧力からの自由
2)台湾での軍隊経験=病院での入院
3)自己分析~フロイド流の精神分析

旧制二高での世間から隔離された生活、社会的圧力から自由だった学生生活を、自らの関心事に対して集中して過ごしていけたことが、後の永井の学問に取り組む姿勢を決定づけたと考えられる。

あらゆる日本の公的な隔離生活のなかで自由が与えられたのは、おそらく、旧制高校と一部の幼稚園・保育所だけと、筆者には思われる。そこで永井は、「外からの強制と生命の脅威の中で、内面からの生命感を充実」を感じたと云う。

それは社会的圧力からの自由だ。
「最近、東大駒場の寮で、バーを開いたという事件があったが、あれは戦後学生生活の持つ一種の社会的圧力を象徴」「寮は一種の城みたいなもので、一般の社会から隔絶された特権を亭受」(哲学の再建)と云う。

この社会的圧力は、戦後の教育でのキーワードになる。
戦後は高校、大学と受験体制に組み込まれ、模擬試験から偏差値、内申書から一芸へと変化するなかで、受験生達は親、教師を始めとした社会からの圧力を感じて生活を送っていたからだ。

それと比較し、永井の世代の旧制高校生は、死の影の中での自由であり、本人の自覚次第で、厳しくも集中して勉学に励むことができ、それが原体験となって、後の人生に習慣として引き継ぐことが出来た様に見える。

永井は、その間の状況を次のように描写する。
「戦後は自由で戦前は不自由で圧迫されていたと、よく言うけれども、ぼくの実感では、旧制高校時代の寮生活が、ある意味で一番自由で、生命の充実感があった気がする」。

「軍事教練はあり、…しかし、配属将校も、ものわかりが良く、リベラルなところもあり、勝手なことをだべって、戦争中でも結構自由はあった。」「軍国主義イデオロギーや右翼の思想は寮生活に浸透し、その影響から逃れることはできなかった…けれど、自分でものを考える余裕はあった。友人仲間の間でも、道を求めるという気持ちが強かった」。

「台湾の速射砲隊に入隊する1年半くらい前の学生生活ほど、良く本を読んだことがないような気がします」。この雰囲気が、日本の旧制高校のすべてに渡り、覆っていたとも思えないが、二高の雰囲気は、集中して勉学するには、良好な環境であったことは確かであろう。

大学紛争時代おいて、『柔構造社会』との表現を車窓から見えた霞ヶ関ビルから捻り出し、若者に存在証明を与えない社会と論じるとき、永井の自由に対する原体験が映し出されているのかもしれない。
 『柔構造社会、霞ヶ関ビルからの発想140525』

しかし、この雰囲気の中で、後に述べる様に、永井は若きドイツ語教師の影響を受けて、ドイツ神秘主義のイデオロギーに染まってゆくのだ。

      


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