散歩から探検へ~政治を動かすもの

自己認識の学・永井陽之助の政治学を支柱に、自由人による主体的浮動層の形成を目指し、政治状況の認識・評価・態度を語ります。

戦後日本の米国依存から国際化への道~「有識者懇談会」の解釈

2015年08月13日 | 歴史/戦後日本
戦後日本は米国に全面的に占領されたのであるから、その政策に選択の余地は無かった。永井陽之助の言葉を借りれば「日本は…選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造の中に編み込まれた」(「平和の代償」P80)のである。
逆に言えば、様々な国際紛争、内戦にコミットする米国が、沖縄基地を代償として、日本を安保条約によって保護する以上、日本と事を構える国はないのだ。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

その歴史的経緯を「有識者懇談会」報告は簡潔に、要領よく記述している。その意味で非常に参考になる。勿論、この種の報告であるから、すべてが自ら選択したかのように「戦後の日本は、戦前の失敗に学び…」との表現を使うことは免れない。学ぶより先に、米国からの強制があったのだ。

そこで先ず、戦後のマッカーサー改革から高度経済成長への道、になるのだが、日本のODA(政府開発援助)が始められたのは1950年代前半のことだ。ここが一つのポイントになる。というのも、戦後70年での積極的役割を一言で言えば、開発途上国への経済援助、それと共に日本企業による現地への直接投資と云えそうだからだ。但し、ここでの米国の後押しが無ければできないことではあるが。

高度経済成長後の1960年代後半以降における米国との経済摩擦及び1970年代における東南アジアとの軋轢、特にジャカルタ及びバンコクでの反日デモは、日本の自国中心の経済政策に対する強い批判と受け止めることになる。上記の直接投資はそれへの対応も含めてのことだ。

報告では冷静に、日本は政治的にリーダーシップを発揮できなかったとする。しかし、その役割を発展途上国への経済援助に見出し、それが間接的に国際秩序の形成に寄与したと述べる。

日本のOADの総額は有償16.6兆円、無償16.3兆円、技術協力4.7億円、合計37.6兆円に登り、89年には世界第一位となる。その後は97年をピークに減少し、順位も5位に落ちる。

他方、国際経済において、アジア太平洋域内の自由貿易の促進に貢献する様になってくる。APEC、ASEANから現在のTPPに至る90年代から2000年代に向けて経済的連携の組織化に日本は寄与してきた。

これに対して、軍事面での国際貢献は90年代が転機となる。報告書の言葉では、「戦後国際秩序の受益者からそのコストを分担する責任ある国へ」、少しずつ行動を進める。これを安倍首相は“積極的平和主義”と表現するが、単なる言葉の綾であることは最初に引用した記事でも触れた。

報告書では、PKO活動等に反して、半歩遅れの行動と辛く評価し、国際社会の要望に完全に応える形での貢献になってはいない、との総括を与える。
結局の処、報告書が主張するのは、この部分であって、米国の要求とは云わず、国際社会の要求とのすり替えを基調としている。それまでの記述は客観的表現を与える様に、具体的事項を冷静に記載に終始しているからだ。

そこで、最後の評価においても、報告書は日本が平和を享受できたのは日米安保による抑止力によるとする。その一方で、防衛費の見直し、明治以来の民主主義の評価を入れ込む。

日米安保の抑止力を持ち上げるのは、日本が米国に依存していることを強調し、相対的な独立のためには防衛費の見直しが必要との論理を構築するためである。また、明治以来の民主主義の評価は、満州事変以降の軍だけに戦争責任を転嫁するものである。明治から現代までは実は連続性を有するのだが、軍部の一部がそれを中断させ、中国、東南アジア、米国への侵略を図ったとの歴史に書き換えようとするものだ。

そのうえで、日本のナショナリズムを、明治維新を始点として民主主義イデオロギーの下に復興させ、軍事的行動を含めた国際貢献を強化し、戦後レジームの転換を図る試みと解釈できる。

      
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