散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

曠野の花~満州に渡った近代日本の貧しき女性達~

2013年05月23日 | 読書
『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』は近代日本を一軍人として生きた石光真清の自伝四部作だ。作品の中の“曠野の花”は満州に渡り、娼婦を稼業として生きる貧しき女性たちである。筆者の手元には龍星閣版(初版発行昭和33年)があるが、現在は四部作すべて中公文庫に収まっている。

昨晩、思い立って、久し振りにパラパラと捲ってみた。何故、思い立ったのか?それは橋下徹氏の慰安婦発言に対するある反応に接して、精神解毒剤を必要としたからだ、とでも言おうか。

中味・内容をよく調べないで、人権問題、女性蔑視などと発言している自民党を筆頭にした政治家たち、有識者たちが結構多くて、食傷の感があったからだ。一般の人は、娼婦という言葉は知っていても、娼婦という人間に接する機会はないだろう。そこで、聞いたこと、読んだことからイメージが作られる。筆者が思い出した理由だ。

さて、話を戻そう。『曠野の花』は、満州における作者の対露諜報活動を中心に描かれている。これを初めて読んだのは高校一年生のときで、義和団事件を発端とする「ブラゴヴェヒチェンスクの虐殺」の凄まじさは息をのむ思いであった。他にも馬賊がいとも簡単に処刑される話もあり、冒険小説的ではあるが、現実の殺伐感は相当なものだったと記憶している。

その中で作者は“曠野の花”を助け、また、命を救われるのだが、その観察は透徹し、眼差しは暖かく、表現は平明である。おそらく、共に生きるという発想があってのことだろうが、それでも生き別れがちょっとしたタイミングのずれで起こる。これがマクロな歴史の動きの中で翻弄されるミクロな個々人の判断と行動に顕れる。

高校一年生のとき、「現代国語」の教科書に『城下の人』の一部が載っており、授業の中で接して感銘を受けたのが四部作を読むキッカケであった。このときは高校の図書室に偶々、置いてあったのだ。次に通読する日は来るのだろうか。

      

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