散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

トランプ現象と永井政治学~“情報”と政治の世界

2016年11月27日 | 永井陽之助
永井は先進国における現代政治社会における権力と大衆心理との関係を以下の様に描写する(『政治を動かすもの』初出(1955)、「政治意識の研究」所収)。

「資本主義の発達は、各生活領域に錯綜とした利害の分化をうながし、その違いの調整を国家権力に待つ問題はますます増加の一途をたどっている。
そのうえ、テクノロジーの発達に伴って、様々の象徴を操作し、大衆を一挙に把握しうる装置、技術が異常に発達した結果、政治権力は著しくその浸透力と機動性を増大し、傍若無人にどこへでも侵入しうるようになった。」

「政治権力のインパクトが増大したということは、他面においてその圧力に触発された、諸々の反応が、巨大な政治的エネルギーとして逆に政治の世界へ動員されることを意味する。
あたかも極微の世界における原子構造の破壊からおそるべき物質エネルギーが放出されたように、人間心理の外殻を破って浸透する権力は、逆にその深層に潜む潜在的エネルギーを政治の世界へと解放するに至った。」

以上の様に、権力と心理は相互に媒介し、また相互に、その安定を依存するに至った。ここで、象徴の操作と述べているが、なかでも、“情報の操作”が大きなウエイトを占めること間違いない。

この論文が書かれた当時(1955年)の対象時期は、第一次大戦前後をイメージしているのであろうから、テクノロジーの発達が「ラジオ」を生み出し、それが大衆化していた。第二次大戦において日本の降伏を国民へ知らせた玉音放送もまた、ラジオの産物で実現したのだ。これがいみじくも天皇の政治的権威を示すものとなり、おそらく、戦後憲法における象徴天皇の発想と実現を支える事実であったと推測する。

ラジオからテレビへ、更にパソコンによるインターネットへ、そして携帯電話、タブレットのSNS時代へと、まさに通信技術は異常に発達してきた。

永井が1970年に書いた論文『解体するアメリカ』(「柔構造社会と暴力」所収)は、ニクソン政権が誕生した米大統領選挙を題材に、技術革新による偶発革命がもたらした米国内部の巨大な社会変動を概観している。そこでは、社会生態系の均衡破壊として、人口・資本・情報のシステムに生じた攪乱を指摘している。

そのなかで、情報革命を“情報空間の拡大”と呼んだ。テレビによる暴力行為の映像は、“暴力の情報化”をもたらし、また、少数集団の政治活動は“露出の政治”としてとして数以上の政治的効果を挙げることが示され、それが逆に、サイレントマジョリティを励起するニクソン戦略にもなった。その一方で、ベトナム戦争反対の声が高まり、新たな孤立主義が台頭していることも指摘されている。

更に、そのような社会状況の中で、大統領選挙で第三党として立候補したウォーレスに関しても、その支持された理由、支持層の内容等が報告されている。
その内容を読むと、トランプはウォーレスを50年後に蘇らせたように思えるのだ。すなわち、当時は少数であったが、ニクソンを駆逐するかもしれない基盤ができていたのだ。

「米国は基本的に保守的な国である。…ゴールドウォーター支持の基盤になった自由青年同盟の学生の数は、左翼団体であるSDSの約4倍の数である。」とは、その論文の「おわりに」で指摘されている。リースマン『右傾化するアメリカ』も引用されていり、米国の政治的保守化は、その頃から先端的な知識人によって意識され出していると思われる。

ニクソン以降、レーガンからティーパーティー運動を経て、今回のトランプへと米国の保守体制は続く様相を示している。
おそらく、90年代で永井は情報機器の「自己装備率の飛躍的向上」(今、手元に文献が見当たらないので正確さを欠くが)と言ったはずだ。パソコン/インターネットの普及と、すさまじい使われ方を指しているのだ。その帰結に対する予測は永井流に悲観的であったと思われるが。

つい昨日、ツイッターを使いこなしているトランプが、ある企業のメキシコでの工場設置に反対を表明したとのニュースに接した。安部首相の春闘介入どころの騒ぎではない。おそらく、そのつぶやきは、大量のリツイートを生み、様々なメディアによる伝搬を通して政治問題化することは確実のように思える。

こうなると、現代における政治家の資質とは何かを根本的に考え直す時期に来ていると感じざるを得ない。かつて、橋下大阪市長がツイッターを使いまくっていた時期があったが、発想、知恵共にトランプは橋本とは比較にならないシャープさを備えているように思える。