散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

永井陽之助 「ポリティカル・エシックス」まで読んだ!~著作目録から

2016年10月09日 | 永井陽之助
ようやく、最後の論文まで読むことが出来た。これも青学の永井研究室で博士課程を修めた大徳貴明氏の「永井陽之助教授の著作目録」によるものだ。氏に感謝すると共に、更に、永井に関する何らかの論考が出ることを期待したい。

筆者は、もちろん、専門家ではないが、専門家が論じていない永井の側面について、落穂ひろいをしてみたいと考え、その構想を記事にした。その骨格を変える必要はないが、全著作の主だったものは読めた段階なので、立て直しする必要を感じる。特に、冷戦終焉後の世界の在り方について、ハンティントンの「文明の衝突」を批判しながら「文明対文化」を展開しているところだ。
 『企画『永井政治学の世界』~“自己認識の学”として141017』

この中には、永井の70年代前半の著作に表現される日本文化の問題を発展させて論じている部分がある。極めて息の長い、永井らしい発想だ。例えば、「イメージギャップの中の日本」(諸君)、『日米コミュニケーションギャップ』(サイマル出版)の中に収められた論考だ。

表題の最後の論考は1988年のものだ。90年代になると、論考よりは対談の記録が多く残されている。『21世紀フォーラム』(政策科学研究所)、『アジア時報』(アジア調査会)は99年まで参加しており、2000年を契機に引退されたとも推察されるが、その辺りのことは新聞、雑誌の追悼で触れられたものはなさそうだ。

亡くなられたのは「2008年12月30日」とのことだが、その間、私的な活動と読書三昧だったのだろうか。何か書いたものを残しているも考えられるが、もし、公になるのであれば、是非、読みたいものだ。

 『序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ110502』
上記の企画では以下のように考えている。

「序.永井政治学の位置~「主体的浮動層」へ向けて」
「1.永井陽之助の思考方法~「迂回」しながら「飛躍」へ」
「2.現代社会への政治学的接近~作品としての「秩序」
「3.大衆民主主義と統治~「政治意識」からの出発」
「4.偶発革命から「柔構造社会」へ~「成熟時間」の発見」
「5.政治的人間論~「政治的成熟」への道」

考え直す処は、どこかと云えば、「4」「5」だ。特に、米国論は先進社会のトップランナーとしての面と、米国特有の面とが絡み合って議論されており、そこを組み込む必要がある。また、国際政治の国内状況との絡みは、冷戦後の世界の変容を議論する中で、複雑に相互作用を与えている。

素人がまとめるわけにもいかないが、息長く試みていきたい。最近の状況では、『平和の代償』での対ソ連アプローチがプーチン・ロシアとの接近で改めて見直す意味を含んでいると感じる。