一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ハイエク「見せかけの知」(ハイエク全集2期 4 『哲学論集』)

2011-02-01 | 乱読日記

この前とり上げた『不連続変化の時代-想定外危機への適応戦略』で1974年にハイエクがノーベル経済学賞を受賞した際の受賞講演の一節が引用されていました。   

現在の経済学者は、急加速しつつあるインフレーションの世界から自由世界を救出することを求められている。だが、そのインフレーションは、多くの経済学者が支持し、推しすすめてきた政策によって作り出されたものだ。そのことを考えると、内心忸怩たるものがある。経済学者は混乱の張本人なのだ。  

講演"The Pretence of Knowledge "の全文はこちらhttp://nobelprize.org/nobel_prizes/economics/laureates/1974/hayek-lecture.html
邦訳は「見せかけの知」は『ハイエク全集第2期4 哲学論集』に収録されています。
10ページ足らずに4410円も出すのは気が引けたので図書館で借りてきました。(借りてみると、しおりも中に折り込まれたままなので、おそらく僕が最初に借りたよう。何かいいことをした感じ。)

この講演はなかなか面白いです。

ハイエクは講演冒頭から飛ばします。 (上で引用されているのもこの冒頭部分) 

本講演が特別な場であることと、経済学者たちが今日直面している主要な実践的問題とによって、この講演で何を話すかはほぼ必然的に決まりました。一方で、比較的最近、ノーベル経済学賞が創設されたことは、経済学が一般公衆の意見のなかで自然科学の備える尊厳と権威のいくばくかを分け与えられることになった道のりのなかで、重大な一歩を示すものであります。他方で、大多数の経済学者が推奨し政府にたいして強く迫りさえした数々の政策が引きおこしたと認めざるをえない、急速に加速するインフレという深刻な脅威から自由世界をいかに救いだすべきか、経済学者は今まさに発言を求められています。われわれは事実、現時点においては誇りを持つ根拠がほとんどありません。というのも、われわれ経済学者は、職業集団として、大失敗をやらかしてしまったからです。  

ノーベル経済学賞は、『ブラック・スワン』の中で著者のタレブがしつこく繰り返しているように、正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞といい、1968年にスウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環としてノーベル財団に働きかけ設立された賞で、アルフレッド・ノーベル自身が設置、遺贈したものではなく、賞金もスウェーデン国立銀行から拠出されていて、正式なノーベル賞ではありません(しかし、選考や授賞式などの諸行事は他の部門のノーベル賞と合同で実施されているため混同されています。)。  
ノーベルの子孫からはノーベル経済学賞は「全人類に多大な貢献をした人物の顕彰」というノーベル賞の趣旨にも沿わないという批判もあるようです。

ハイエクは、なぜ経済学が誤るのかを続けて語っています。  

経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます。・・・これは「科学主義的(scientistic)」態度と描写されるようになったアプローチであり、私がおよそ30年前にした定義によれば、「思考の習慣が、それが形成されてきた領域とは異なった領域へと、機械的かつ無批判に適用されるという点で、言葉の真の意味において決定的に非科学的な」態度のことです。

物理化学で妥当している考え方とは異なり、本質的に複雑現象をあつかう経済学その他の学問分野においては、説明すべき現象のうち定量的データを入手できる側面は必然的に限定されており、いくつかの重要な側面がそこから脱落してしまうかもしれないのです。・・・多くの個人の行為に左右される市場のような複雑現象を研究するに際しては、…プロセスの結果を決定する事情のすべてが完全に理解されたり測定可能になることはほぼありません。また、物理科学において研究者は、一応正しそうな推論にもとづいて自身が重要だと考えることがらを測定できるでしょうが、社会科学ではたいていの場合、たまたま測定が容易なものが重要事項として扱われることになります。これは時に、われわれの理論は測定可能な数値のみに言及する言葉で定式化されなければならない、と要請されるようになります。  

僕は(ハイエクだけでなく)経済理論については詳しくないので、昨今の経済対策をめぐる議論でも読むたびに(それらが対立するものであっても)いちいち「なるほどなぁ」と思ってしまいます。
なので、今の経済対策をめぐる議論を傍から見ていると、多くの論者の日本経済に対する現状認識は一致しているように見える中で、なんで意見がここまで対立するのだろうという素朴な疑問を持ってしまいます。 
おそらく、それぞれの論者の理論のよって立つところの「正しさ」の根拠が違う-そしてそれぞれが理論としては正しい-というところに原因があるのでしょうし、それが成り立つこと自体が経済事象の複雑さの裏返しなのでしょう。  

それから「たまたま測定が容易なものが重要事項として扱われる」というのは、経済学に限らず仕事とか人生でもよくあることで、気をつけなければいけないと自戒。  


ハイエクは講演をこう結びます。

もし社会秩序の改善のために努力するに際して、益以上に害をなくしたくなければ、このような場合人間は、組織的な種類の本質的な複雑性が支配する他のあらゆる領域でも見られるように、出来事を統制することが可能となるほどの充分な知を獲得はできないのだということを学ぶ必要があります。 ・・・人間の知が持つ克服不能の限界についての認識から、社会を研究する者は謙虚さの教訓を学ぶべきです。その教訓は、社会をコントロールしようという破滅に導く奮闘の共犯者になってしまうことを防いでくれるでしょう。その奮闘は、彼を仲間にたいする暴君にするばかりでなく、どんな個人の脳によっても意図してつくられたわけではないが何百人もの個人達の自由な努力から育ってきた文明の、破壊者にしてしまうのです。  

僕はハイエクの経済学の理論やケインズとの論争については語るべき知識を持っていないのですが、この哲学論集はけっこう面白そうです。



<おまけ>
動画「ケインズvsハイエク 」

これは面白いです。
素人目には中身もけっこうまともなんじゃないかと思います。
Division of Knowledge経由のネタ。)

 

 


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